桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第11回】

『壊れる日本人』(柳田邦男)

開催日時 2006年2月2日(土)14:00~17:00
会場

開催。諸々コメント。

副題は「ケータイ・ネット依存症への告別」。 副題だけをみると今どきの話題を取り上げているのかと思ってしまいますが、決してそればかりではないのが柳田邦男流かなとも思います。
柳田邦男氏は皆さんご存知の通り、社会的テーマを取り上げてきたノンフィクション作家、評論家です。取材を元にしたルポ物には定評があるといえるでしょう。
『壊れる日本人』はノンフィクション作品ではなくどちらかというとエッセーに近い作品です。近年多発している少年少女の事件を切り口にケータイ・ネットについての柳田氏の持論が展開され、教育論にも踏み込んでいます。
子供の精神形成から教育の具体的な課題まで、おそらく柳田氏のライクワークのひとつではないかと思われるほど断定的に書かれている箇所もあります。全面的に賛成反対といえない、複数の視点が提起されています。予想通り々な意見が噴出しました。
柳田氏には申し訳ないですが、彼の主張には原因と結果を取り違えるという論理の転倒があります。柳田氏は具体的な提案として「ノーケータイデー」「ノーインターネットデー」等を提案していますが、ケータイ・ネットに依存する精神の奥底に挑まない限り、ケータイ・ネットが使えなくなっても他の依存先にシフトするだけだということに多くの読者が気づくよう、明確に言及するべきです。
またケータイ・ネットによって心の闇を発信する子供たちもいるという視点の検証が必要ではないかという意見が出たことも申し添えておきたいと思います。 もしケータイ・ネットがなかったら彼らのうちの一定割合の人が、ヒト・モノ・その他の行為への依存に走ることも警戒しなければなりません。その一端がドラッグ等の薬物や親子依存だと言えるでしょう。
心に残った一節。
「真の原因を現時点で突き止めるのは困難だが、究極の原因に極めて近いところにあると思える問題は、凶悪事件を起した少年のほとんどが、他者の痛みを思ってもみない完璧なまでの自己中心の精神構造になってきている」 「見えないものを見る力というものを、今ほど求められていいる時代は、かつてなかったように思う」

章立て

【1】 見えざる手が人間を壊す時代
・ 半世紀で激減したこどもたち
・ 二十一世紀型「負の遺産」の特性
・ 「仮想現実」と「現実」の逆転
・ 「バーチャル多重人格」の時代に
【2】 広がるケータイ・ネット依存症
・ 意識されないケータイ依存症
・ ビジネス界の「人の砂漠」
・ 患者の顔を見ない医師
・ パソコンの虜にされる眼と両手
・ 沈黙という深い対話
【3】 「だが、しかし」と考える視点
・ 四国遍路の旅へ
・ 一日に42kmも歩いて
・ 遍路の旅の入口で
・ 江戸時代の女旅の豊かさ
・ 何とも言いようのない違和感
・ 汗を流す労苦と魂の波動
【4】 「ちょっとだけ非効率」の社会文化論
・ 黙れ、カーナビ
・ 人間の間に割りこむカーナビ
・ 能の方向感覚を壊すカーナビ
・ 二十一世紀効率主義のツケ
・ 現実とバーチャルの倒錯
【5】 ジレンマの壁を融かすには
・ 水をかけない消防士
・ マニュアル主義の壁
・ 郷里への恩返しの思いが-
・ 野の花診療所から
・ 新しい専門的職業人とは
【6】 「あいまい文化」を蘇生させよう
・ キャンサーなんですね
・ 「そのまま死にますか?」
・ 科学主義・効率主義の壁
・ あいまいな領域の重要性
・ 今、見直すべき日本流
【7】 言葉の危機の三重構造
・ 現金(げんなま)に手を出しな
・ 「ふるさとの言葉で」という夢
・ 腹の奥底に届く言葉とは
・ グローバリゼーションと言葉の危機
・ 世界的な言語の危機
【8】 この国を救う「あいまい文化」
・ 地貌季語のリアリティ
・ 「いのちを映す言葉」の在り処
・ 言葉の標準化へのアンチテーゼ
・ ナショナリズムとは郷土愛
・ 「あいまい文化」とは何か
【9】 人の痛みを思わない子の育て方
・ 殺人は人間的
・ 殺意を着実に実行に移す子ども
・ 「普通」が「異常」の時代
・ 現代社会の病理を分析する眼
・ 子どもの心も言葉も育たない
【10】ノーケータイ、ノーテレビデーを
・ ケータイはカミサマ
・ まずテレビを消そう
・ テレビがないと子どもが変わる!
・ 週に一回「ノーケータイデー」
・ 情報より考える習慣
【11】異常が「普通」の時代
・ 十一歳女児の衝撃
・ 心の未成熟と言語化能力
・ 重要な「愛着」という関係
・ 「愛着」が欠落した子の反応
・ ダブル・バインドの怖さ
・ 「おとなしい子」の真実
【12】「向き合う姿勢」を取り戻すには
・ 軍艦を切断する力
・ ストレスの「閾値」とは
・ 何がK子に三角波を
・ 点滴ビンを下げて「命の授業」
【13】あとがき

ひとこと感想

柳田氏はノンフィクション作家として評価を得ているといえるでしょう。その一方で彼自身が書いているように作品ジャンルがエッセーにシフトしています。行き詰まりを感じたノンフィクションという表現方法の根底にある過剰な事実主義に対するアンチテーゼとして柳田氏が選んだ手法が「潤いのある物語性あるいは神話的語りかけの方法」としてのエッセーのようです。
その意味ではまだ熟成されていない感もあり根拠の提示がない断定的な表現も見受けられます。そして最も重要な点として、この書物全般を通して原因と結果の転倒があり、それに気づかないことがこの書物の致命的な欠点となっているように感じられてなりません。この原因と結果の転倒が、納得のいかないなんともいいようのない後味の悪さになって残ってしまうのだと思います。
全般として現代の事象を切り口としてその深層に切り込もうとした柳田氏の思索のあとがよくわかる本です。「見えないものを見る力というものを、今ほど求められていいる時代は、かつてなかったように思う」との柳田氏の指摘には深く共感しました。 柳田氏が指摘する「他者の痛みを思ってもみない完璧なまでの自己中心の精神構造」を劇的に転換する方途が真剣に模索される時代になっているのではないでしょうか。

話題に出たテーマ等々。

・携帯電話、インターネットへの現状認識
・言葉の持つ力とは
・感性のレセプター
・「最近の子供の性格傾向」は今だけのことか
・インターネットの特質
・身近なケータイ依存症の実例
・実際に体験した「私の顔を見なかった医師」
・カーナビ相手にそこまでするか柳田邦男
・現在過去に関わらない企業体質の悪辣さ
・いまだはびこるお役所仕事
・あまり適切でない「あいまい」文化とのネーミング
・方言が受け継いできた地方文化
・昔から日常に存在する「ダブルバインド」そのものの問題よりもそれによって歪む脆弱な精神構造の問題
・ケータイ、ネットは果たして原因か?元々ある傾向にある人達がケータイ、ネット利用にシフトしているだけではないのか?
・今まで表現手段がなかった人達がケータイ、ネットによってやっと表現する方法を手に入れた事例
・依存の多くはヒト・モノ・行為(及びその複合形)に大別される
・結果であるケータイネット依存を強制的に阻止しても原因から変革しなければ本末転倒現象になるという指摘
・依存は人、モノ、行為。ケータイ、ネットから隔離すれば次の依存に移行するはず

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