桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第15回】

『黒い町』(ジョルジュ・サンド)

開催日時 2006年6月24日(土)14:00~17:00
会場 練馬区貫井地区区民館  東京都練馬区貫井1-9-1 ※西武池袋線・中村橋駅から徒歩5分

開催。諸々コメント。

ジョルジュ・サンドの「黒い町」は女性初の産業小説といった触れ込みで書評されることもある作品です。
この表現はこの作品が陽の目を見たのがジョルジュ・サンドの死後百年以上も経過したことや彼女自身が産業革命をテーマとした評論や論文、社会主義小説等を発表しているという背景とも関連していると思います。
ただ必ずしもこの作品を正しく表現しているとは考えにくい面もあります。
作品の発表は1860年。フランスにおける産業革命の時代です。舞台は鉄鋼の町ティエールです(明言はされていません)。
主人公はセテペと呼ばれる他の土地から移り住んできた20代の若き男性刃物職人と、この土地で生まれ育った孤児のトニーヌ。
二人は人生に惑い失敗も繰り返しながら、自身の生きる道を懸命に探し実践を続けていきます。
その最終章に待っている結末とは...?
事業を経営することの意味とは、社会の持つ善悪の両面に対する人間のあり方とは...
産業革命の時代にすでにこうした考察が行なわれていたことに敬意を拝しつつ自分自身の課題と重ね合わせながら読み進めたいと思います。

時代背景Ⅰ.産業革命

1830年代から始まったフランスでの産業革命の後半期にあたる。
・資本主義社会のはじまり
・工業化社会のはじまり
・社会問題の発生
・家族関係の変化
・イギリスで産業革命が起きた背景

時代背景Ⅱ.二月革命

1848年 二月革命が勃発。
パリで勃発した二月革命は,ルイ=フィリップとギゾー首相を退陣に追いやった。臨時政府には労働者代表も進出したが,4月の制憲議会選挙で大敗,国立工場問題でも階級的に孤立・後退を強いられた。
他方,ブルジョワ共和派も次の立法議会で基盤の弱さを露呈。保守的名望家層の復活が見られた。
12月圧倒的支持で大統領に選ばれたルイ=ナポレオンは,1849~1850年には王党派連合との協調政治を行い,ローマ共和国への干渉・教皇権の復活を果たした。それでも内心,東・南欧諸民族の解放援助という大ナポレオンの偉業を継ぐ野望を秘めていた。
二月革命は,社会主義の運動も高揚させたが,フランスではプルードンのような政治権力を求めず,労働者間の自主的な結合・地域連合を尊重する新しい思想が生まれた。

物語のストーリー構成

舞台:フランス・オーベルニュ地方の町ティエール
第一章 若き刃物職人の悩み
第二章 トニーヌへの想い
第三章 恋よりも成功?
第四章 あばら家のオードベール
第五章 空想家の夢と絶望
第六章 おんぼろ工場の主
第七章 嵐の夜に
第八章 賢明なトニーヌ
第九章 工場の危機
第十章 苦闘するセテペ
第十一章 トニーヌの迷い
第十二章 遍歴の旅へ
第十三章 故郷への帰還
第十四章 再会
第十五章 <御令嬢>とは?
第十六章 労働讃歌

主な登場人物

セテペ 優秀な若き刃物・武器製造工。
トニーヌ 製紙工場で働く女工。姉の結婚の失敗で精神的傷を負う。
ゴーシェ 刃物工場の職工長。セテペの先輩にあたる。若くして結婚生活を選ぶ。トニーヌの従兄弟。
ラゲール 農村で孤児になったセテペを引き取り育てた父親がわり。山の上の住民(ブルジョワ)に敵意を持つ。頑固一徹で誇り高い労働者。
オードベール ユートピア思想を持つ変人。工房の経営者としては失敗するが腕は良い職人。セテペに救われる。後世、詩に天職を見出す。
モリノ 悪徳な工場主。浮気者。トニーヌの姉シュザンヌ・ゴーシェと結婚するが彼女は死産の後死去。工場を現場主任に託して山の手に移り住む。
アンティーム 親子2代の医師。山の上の町の住人。労働者医療に尽くす。

作者年譜

ジョルジュ・サンド George Sand(1804~1876)
本名:オーロール・デュパン
1804(0歳) 7月1日パリにて軍人の娘として誕生
1808(4歳) 父の死
1809(5歳) フランスのノアンで祖母に育てられることになる。
1818(14歳) パリの修道院に入る(~1820)
1821(17歳) 祖母死去
1822(18歳) カジミール・デュトヴァンと結婚しノアンに居を構える
1823(19歳) 6月30日パリで長男モーリス誕生
1828(24歳) 9月3日ノアンで長女ソランジュ誕生
1830(26歳) 夫と激しい口論 ジュール・サンドーとの交流
1831(27歳) パリで生活をはじめる。「ル・フィガロ紙」に投稿。Jサンドの署名で「ローズとブランシュ」(サンドーとの共作)を発表。
1832(28歳) 「アンディアナ」をGサンドの名で発表しデビュー
1833(29歳) ジュール・サンドーと別れる アルフレッド・ミュッセと恋仲ミュッセと共にイタリアへ出発。
1834(30歳)
1月ミュッセ発病
2月医師のパッジェロとの関係が始まる。
3月ミュッセがイタリアを離れる
8月パッジェロとパリへ帰る。11月パッジェロはイタリアへ帰国。
11月ミュッセとの関係復活。
1835(31歳) 3月ミュッセと別離 夫に対して訴訟を起こす
1836(32歳) 7月29日夫との別居協定が法的に成立 11月ショパンと出会う
1837(33歳) 8月19日母死去 『モープラ』執筆
1838(34歳) ショパンとの関係始まる 10月ショパンとマヨルカ旅行
1839(35歳) 6月ノアンへ帰る。 『レリア』推敲『スピディオン』執筆
1841(37歳) 「独立評論誌」を創刊し政治活動に積極的に関わる
1842(38歳) 『マヨルカの冬』執筆
1843(39歳) 『コンシュエロ』執筆
1844(40歳) ショパンの姉夫婦をノアンに招く
1846(42歳) 『魔の沼』
1847(43歳) 娘ソランジュが彫刻家クレサンジェと結婚 クレサンジェ夫婦と激しい喧嘩 ショパンと別離 『わが生涯の歴史』執筆開始
1848(44歳) 2月革命勃発革命側に加わり積極的に活動
1850(46歳) 版画家アレクサンドル・マンソーとの関係始まる
1854(50歳) クレサンジェ夫婦が別居
1858(54歳) 『田園伝説集』執筆
1860(56歳) 重症のチフスにかかる
1861(57歳) 『黒い町』執筆
1862(58歳) 息子モーリスマルチェッリーナ・カラマッタと結婚
1865(61歳) マンソー死去
1866(62歳) 孫娘オーロール・デュトヴァン誕生
1868(64歳) 孫娘ガブリエル・デュトヴァン誕生
1876(72歳) ノアンで死去

作品誕生の背景

父の死後、子供時代はアンドル県ノアンにある母方の祖母の館で過ごす。この田舎生活は『魔の沼』『愛の妖精』などの田園小説のモチーフとなる。
1822年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し1男1女を産む。まもなく愛のない結婚生活に厭き、当時は法的に離婚が認められていなかったため夫と別居。1831年パリに出て1年の半分をパリで過ごすようになる。
パリに出て来たばかりのサンドは母に書き送った手紙のなかで「私が望んでいるのは社交界でも喧噪でも劇場でも衣装でもありません。自由です。ここパリでは、好きな時に・・・十時であろうが真夜中であろうが出かけることができます。私の勝手なのです」とあり、抑圧から逃れ自由を満喫しているサンドがうかがえる。
別居後はジュール・サンドー、ミュッセ、ショパン、マンソーなど多くの男性と関係を持つ。その男性たちのほとんどは19世紀ヨーロッパを代表する政治家や芸術家であった。
1831年にジュール・サンドー Jules Sandeau との合作で処女作『Rose et Blanche』を書き文壇にデビュー、これ以後「サンド」のペンネームを使う。その後『アンディアナ』で注目され、男装して社交界に出入りして話題となる。
1833年から34年に詩人アルフレッド・ド・ミュッセと、その後医師パジェロ、音楽家フランツ・リストと関係をもつ。フレデリック・ショパンとは1838年(マジョルカ島への逃避行)から1847年までノアンで同棲したが、彼女の子供たちをめぐるトラブルなどから別れた。 1840年代には政治志向を強め民主主義・社会主義の思想を懐いてアラゴ、ミハイル・バクーニンら政治思想家・活動家と交流した。
1848年の2月革命に際しては政治活動に参加したが、その後ノアンに隠棲し執筆に専念した。その後も女性権利拡張運動を主導するとともに文学作品を書き続け、ヴィクトル・ユゴー、ギュスターヴ・フローベール、テオフィル・ゴーティエ、ゴンクール兄弟ら多くの文学者と友情を結ぶ。
サンドの生み出す作品は広く人気を博した。彼女の扱うテーマはセンチメンタルなものから社会に目を向けたもの、素朴なものまで多岐にわたっていた。彼女の哲学は1830年代以降の特徴だった体制への反骨精神を反映しており、社会的に様々な意味で理想とは程遠い社会に生きる一個人としての独立心という要素が多分に含まれている。
女性作家の少ない時代に結婚制度を否定し、タブーとされていたものを堂々と正直に描くその強さと勇気は、賞賛と憧憬、嫉妬をもって迎えられた。
サンド自身も男装、数々の恋愛により、スキャンダラスな存在として世間を騒がせた。
サンドは女性のあるべき立場、表現の自由、情熱と幸福を求める権利を擁護した。彼女は男女平等について書いたが、当時の社会の規律に背き、偽善を受け入れなかったために、非難を浴びた。
しかし一方で、自然を愛し、友人たちを手作りの暮らしでもてなし、子供や孫たちにかけた母性的愛情深さなどを見ても、彼女の魅力は底深い。

当日の様子など

前半を彩るセテペとトニーヌの心と心のやり取りをどう感じるかという点についての個人差が180度違うのには非常に興味深かったです。
言葉では言い表せない愛情の交歓を行間に読み、二人のまどろっこしさと素直でない相手の心をつかみきれない切なさを「みごとな描写!」と賞賛する声が上がる一方で「もたもたした単なる恋愛小説かと思った」という声も。これもジョルジュサンドの狙いかなと。
「井伏鱒二の作品のような労働者の実態を描いた作品かと思って読んでいたらどこまでいってもそんな描写が出てこなかった」という声もありました。書評や書籍の帯のキャッチコピーが本意を表していない典型的な実例かもしれません。

ひとこと感想

1860年に雑誌への掲載が開始され1861年に単行本として発刊されましたが、あまり話題にならなかったのか注目されたのは100年余り経過してからだと言われています。
当日は練馬区の貫井地区区民館をお借りしました。駅からも近く、まわりも静かでとてもよい環境です。 当日は4名と少ない人数での開催で少しさびしいかなぁという感もありましたが(^_^;)作品の読み方感じ方がそれぞれ正反対という方が揃って興味深いディスカッションにもなりました。
作品に書かれているテーマを考えていく上で重要だと思われる点が少なくとも2つあるように私は思います。
ひとつは空想的(ユートピア)社会主義とアソシアシオン(社会的協同組織)論。そしてもうひとつは産業革命です。
1点目については少しディスカッションできたのですが2点目の産業革命については時間の都合であまり話せなかったのが少し残念でした。

話題に出たテーマ等々。

・執筆当時の時代背景の最大の特色は産業革命。
・産業革命以前は組織で仕事をするという意識はほとんどなかったのではないか。
・言い換えれば従業員と経営者という区別が明確になり経営の意識を持たないサラリーマン感覚の始まりともいえないか。
・『黒い町』のテーマとはすべての人が幸せに暮らす共同体理想郷の側面があるのでは?
・ジョルジュサンドの人生
・セテペとトニーヌの生き方が前面に出たり入ったりする。後半はセテペの存在が希薄になる。
・優秀な技術者、社員が必ずしも経営者に適さないという事例が19世紀にすでに指摘され、経営者になるよりも一工員でいるほうが裕福な生活ができるという皮肉は現代にもそのまま継承されている。
・どちらかといえばセテペの心象風景の描写に対してトニーヌの心の動きは詳しく描かれていない感がある。
・ジョルジュサンドの人生観はトニーヌに投影されているのではないか。
・旅先でのセテペの態度の豹変ぶりはあからさま過ぎて赤面してしまうが、現実にそういうことがよくあるかも。

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