桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第53回】

『流れる星は生きている』(藤原てい)

開催日時 2009年8月22日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分  サンライフ練馬 第二和室

開催。諸々コメント。

昭和20年8月9日。
日本・広島に世界で初めて原子爆弾が投下された3日後。長崎に人類2発目の原子爆弾が投下された日に、ソ連(当時)は日本との不可侵条約を一方的に破り、満州国への侵攻を開始した。その日の夜10時半からこの物語は始まる。

『流れる星は生きている』は、新京に暮らしていた26歳の若き母親が、夫と離れ離れになりながらも6歳の長男、3歳の次男、生後1か月の長女の3人の子供をつれて、日本への脱出行を図る物語である。

この作品は、作者藤原ていの実体験を元に描かれている。そこには事実が語る壮絶さがある。
夫は満州新京の観象台に勤務。のちに作家として大成する新田次郎氏その人であり、本作品が新田氏の作家人生が始まる契機になったことは有名である。

戦争は悪であり、残酷である。
しかし、その戦争よりもさらに残酷なのは人間そのものではないかと思ってしまうほど自分の欲望のために身勝手に生きる人々が、ありのままに描かれている。
新京から、中国大陸から、引き上げてくる民間人は、ある意味で国家の犠牲者である。その日本が負けてもっとも苦しめられているのは民間人、庶民その人である。そのことは間違いがないのだが、その引揚者の中においても強者と弱者が生まれてしまう現実。
どんな悲惨な環境に追い込まれても、人間の欲望は、他人よりも少しでも利益を得たい、他人を踏み台にしても自分の生活や財産を守りたいと思う。それが、とてつもなく、悲しい。

年端も行かない子供を三人連れた夫とはぐれてしまった婦人は、どこまでいっても社会の、集団の最底辺部で、もがいている。ただ、ただ、日本に帰り着くことだけを願いながら、前へ前へと、足を引きずるようにして進んでいく。

戦争の真実とは何か。
生きるということはどういうことなのか。
人間の本性とは美しいものなのか、醜いものなのか。
そして、私たちは、なぜ生きねばならないのか。
生きる目的とは、生きる価値とは、生きる意味とは。

今年、日本は敗戦64年を迎える。
東西冷戦は遠い過去の一時代と化し、朝鮮半島では新たな緊張と世代交代の時代を迎えようとしている。思想や社会体制の違いの時代は終わり、紛争の要因は病気と貧困、そしてテロという暴力との対決にシフトしていこうとしている。
敗戦直後の朝鮮半島での極限の状況を生き抜き、子供たちと共に故郷に帰りついた、一人の婦人の壮絶な戦いを、より多くの人と共に読んでみたいと思います。

※現在、新刊本では中公文庫版が入手可能です。

作品の感想

戦争の被害は、常に弱い者のところにしわ寄せが集まってくる。これは戦争に限られることでは、もちろんないが、国家という巨大な集団で決定がされる場合、個々人の幸不幸が省みられなくなるのは戦争の犠牲の典型であるといえよう。

しかし、物事の本質はそんなところにあるわけではないと私は思う。 この作品の哀しさは、そうした戦争被害者という括りよりも、「子連れの母親」が戦争に負けた日本、満州国からの引揚げ者の中においても、観象台疎開団という小集団においても、常にもっとも虐げられ、邪魔者扱いされたことから生まれている。

本来であれば、敗戦国の一国民であり、満州からの引揚げ者という、同等の最底辺で生き抜かねばならない、同じ境遇の同胞である。しかし、そんな最底辺の集団においても厳然と格差が生まれる不条理さ、そして哀しさ。
自分の生活を守るためであれば、恥もせずエゴをむき出しにする人々。
少しでも自分の利益になることであれば、まわりの知人であっても、平気で騙す、利用する。
自分の不利益になる人間は、容赦なく排除する。
金銭で解決できることは、不道徳な行為であっても次第に平気になっていく。

それは、主人公である藤原てい氏本人も決して例外ではない。
そんな思いまでしながら、引揚げ者は生き抜こうとする。
生きて、日本に帰り着こうと必死で、前へ、前へ進む満州からの逃亡者たち。
その途上で、わが子を死なせてしまった母親。
一人の子供の生命を守るために、もう一人の子供を見殺しにする母親。
わが子の生命でさえ、守り通すことができない極限状態なのだ。
他人のことを思いやることなど、できなかった。自分のことだけを考える悪鬼のような、餓鬼のような形相で、回りを蹴落としながら、生き抜いた。
そのことを、誰が責めることが、できるだろうか。

主人公が三十八度線を超えていく場面は、なんと言ってよいのか...表現のしようがない。
土砂降りの雨の中を、3人の子供を抱いて、歩かせ、阿修羅のごとく、歩けないと言う子供を引き摺り、後ろから子供の尻を蹴り上げ、突き飛ばし、怒鳴り散らしながら、泥まみれになって、泥濘の山を登っていく。
子供は、下半身むき出しで、寒さと恐怖でぶるぶる震えている。
足の裏は破れ、傷口に小石や砂がめり込み、化膿して激痛で歩けない状態。
それでも、母親から怒鳴り散らされ、突き飛ばされながら、泣きながら、前へ、前へと進むしか、ない。
子供は次第に震えることもできなくなり、感情すら喪失していく。
ただ、ただ、哀しい。
読んでいても、読み続けるのが辛くて、たまらない。
涙すら出ないほど、胸の奥が締め付けられるのだ。

よくぞ三人の子供たちが生き延びたものだと思わざるをえない。
次男を生死の淵から蘇生させられたと思ったそばから長男が死の彷徨に沈み込む。 もうすぐ故郷にたどり着くのに...というところまできているのにゼロ歳の長女の生命をつなぐすべもない...。
人間としての、親としての無力さ。子供を守りきれないかもしれないという、不安に押しつぶされそうになる思い。

何のために、生きるのか。

朝鮮の青年に問われた疑問は、限りなく危険な誘惑でもあった。
こんなに苦しい状況なのだ。
こんな思いまでして、生きなくてもいいんじゃないか。
私は、もう十分、頑張った。これ以上は、もう、いいよ...。
そう思ってしまったら、生き抜くことはできない、と私は思う。
実際にそう思ってしまい、生きることをやめてしまった引揚げ者も多くいたのではないだろうか。
そう思うと、辛くて、哀しくて、やりきれなくなっていく。
フィクションの小説であったら多少は気楽に読めたかもしれないとも、思う。
事実の持つ力は、私達を、完全に押しつぶそうとしている。

戦争は絶対に、どんな理由をつけたとしても、悪である。
その戦争を行うのも、阻止するのも、所詮は一人の人間である。
そして、一人の人間をエゴイストに追いやるのも、究極的にはその人自身の決断である。

感傷的になってしまいそうな思いを、ぐっと踏みとどまって、今自分が置かれた立場でできることを考え、一歩でも前進するために行動することを選択したい。
この作品の中でも、同じ状況に身をおきながらも、他人のために行動する人々が、さりげなく描かれている。
その人数は、限りなく少数である。が、確実にその人達が、いた。
エゴの生命をむき出しにした人達と、他者のために生きた人達。
この違いはどこから生まれて、どのようにして、なぜ貫くことができたのか。
私たちは、その点にも着目すべきであると、私は強く思っている。
それが戦争を生き抜いた、戦争で生命を落とした先人の方々に、報恩を捧げるひとつの行動ではないかと思うのである。

作者

藤原てい(1918年~) 作家。長野県茅野市出身。夫は作家の新田次郎。長男は象学者の藤原咲平。次男・藤原正彦は数学者、エッセイストで『国家の品格』の筆者。
旧姓両角。県立諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高等学校)卒。1939年、新田と結婚。1943年に新京(現在の長春)の気象台に赴任する夫と共に満州に渡る。
1945年、夫を一時別れて3人の子供を連れ満州より引き揚げる。子供たちへの遺書として綴った引き揚げ体験(一部創作も含まれる)を元に描かれた小説が『流れる星は生きている』であり、戦後の大ベストセラーとなった。
1982年にTBS『愛の劇場』でドラマ化。夫・新田次郎が作家になるきっかけになった作品である。
読売新聞「人生案内」の回答者を1997年3月まで約13年間務めた。

作品の章立て

第一部 涙の丘
駅までの4キロ
別離
無蓋貨車
終戦の日
夫との再会
南下しようか
新しい不安
とうもろこしの皮
夫よどこへ
涙の丘の上
無抵抗主義
ダイヤモンド・ダスト
泣かない児
流れる星は生きている
いまぞこいしき
氷の日時計
オンドルの煙
虐待餓死

第二部 教会のある町
丘の下に
墓場から来た男
歯形のついたお芋
結婚の申込み
白い十字架
確定的な愛の因子
春風に反抗する
石鹸売りの先生
議論を食べて生きている夫婦
物乞いと同じもの
ふるえる手と唇
発狂した女
ゲンナージの黒手袋
温飯屋の手伝い
二人の子供と一人の子供
引揚げの機運動く
三百円設けた話
団体の分裂

第三部 魔王の声
親書の秘密
赤土の泥の中をもがく
凍死の前
かっぱおやじの禿頭
二千円の証文を書く
市辺里につく
草のしとね
川を渡るくるしみ
死んでいた老婆
三十八度線を突破する
アメリカ軍に救助される
恨みをこめた小石
気の狂った真似をした法学士
議政府に到着
コンビーフの缶詰
貨車の中の公衆道徳
百円紙幣を出す手品
釜山にて
肥った藤原と痩せた藤原
子持ち女
魔王の正体
四千円の仮持参人
上陸の日
上陸第二日
博多から諏訪へ
ああ遂に両親の手に抱かれて

引き揚げ

引揚者(ひきあげしゃ)とは、第二次世界大戦までの時代に、台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地や、日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、そして内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で、日本軍の敗北に伴って日本本土に還った者を指す。
一般的に「引揚者」の呼称は非戦闘員に対してのみ用いられ、日本軍の軍人として外地・外国に出征し、その後帰還した者に対しては用いない(これらの者は「復員兵」もしくは「復員者」などと呼ばれた)。
連合国に降伏後の1945年(昭和20年)8月当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州や樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所などで強制労働を課した(シベリア抑留)。帰国できずに命を落とす者が25万人以上出たといわれる。

軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した。
ようやく内地の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人引揚者は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

政府は1945年9月28日にまず、舞鶴、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。GHQ/SCAPのダグラス・マッカーサー総司令官は人道的立場から引き揚げを早期に終了させる方針であり、東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島の北緯38度線以南などからの引き揚げは比較的スムーズであり、1946年には9割以上達成された。
しかし、満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、1947年になってようやく完了した。この遅れはソ連が占領下の日本人をシベリア建設に利用しようとしていたこと、満州地区が国共内戦で政情不安定だったということなどが影響したと見られている。実際、関東軍70万人のうち、66万人はシベリアに抑留され、強制労働に従事させらた。またソ連兵は規律が緩く、多数の占領地で強姦・殺傷・略奪を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。また、朝鮮半島ではソ連兵と共に朝鮮人も同様のことをしたと言われており、二日市保養所で治療を受けた引揚者の日本女性に強姦による妊娠をさせた相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人という記録が残っている。
また、中国共産党軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したために、それに対する蜂起とその後の虐殺などで通化事件のような事件が起きた。

祖国を目前に斃れた引揚者の葬儀とりわけ満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も少なくない。また戦後60年を超えた現在に至っても、中国大陸で親子生き別れ・死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題を残している。また、満州国政府には多くの台湾人が官吏として採用されていたため(新京市長は台湾人)彼らの台湾引き揚げも問題となったが、そのことは日本では殆ど語られていない。

引揚者の思想または感情の創作的に表現において、内地のいわゆる島国根性という閉鎖的な見方・考え方に囚われない発想、あるいは宗主国人としての特権の喪失である敗戦と引揚げ時の過酷な体験の反映が認められるとされる。清岡卓行の「アカシアの大連」のように、外地の日本人社会を一種のディアスポラとして描いたり、五木寛之の「デラシネの旗」のように、敗戦によりその社会を失ったことによる故国喪失感を動機にしたものと考えられる作品がある。
1953年3月23日に中国からの引揚げは再開され、「興安丸」「高砂丸」が3,968人を乗せて舞鶴に入港した。

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