桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第52回】

『百年の孤独』(ガルシア・マルケス)

開催日時 2009年7月25日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分 勤労福祉会館 会議室(小)

開催。諸々コメント。

作者のガブリエル・ガルシア・マルケスは1928年生まれのコロンビアの作家。
1982年のノーベル文学賞受賞者であり、独特の作風で全世界に熱烈な読者層を持っている。
今回取り上げる『百年の孤独』はマルケスの代表作である。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラをはじめにして七代百年にわたるブエンディア家の出来事を綿々と描いた作品。 マコンドと呼ぶ未開の村を拓き、そこを舞台にして物語は始まり、百年後にマコンドが消滅して物語は終わる。

マコンドでは様々な事件が起きる。自分達の知らない先進科学を誤解して研究したり、原因不明の病気が蔓延したりする。
次第にマコンドの外との関わりが多くなり、マコンドに入ってきたり、出て行ったりする人も増えてくる。金儲けだけのためにマコンドにやってくるジプシーをはじめ、たちの悪い人間たちも多く、戦争に巻き込まれ、人生を変えてしまった者がいれば、世俗の堕落に身をやつすものもいる。多くの人とかかわりながら、自分の考えを少しも変えずに押し通す者や、回りの人間に影響されてふらふら生きていく者も、数多く描かれている。
ある意味で、淡々とマコンドで起きる出来事を描写しているだけだ。
だからこそ私達一人一人の生活や世界観、人生観に力強く語りかけてくるのだろう。

そしてなんといっても圧巻なのは、このクライマックス。
最後のわずか2~3ページにこの物語の全てが凝縮されていると言っても過言ではない。だからといってこのページだけ読むことは、もちろん、お勧めではない。そして読み終わったら、もう一度、全編を読み返してほしい。
そこに、新たな物語が存在することを多くの読者が見つけるに違いない。

登場人物

居心地の悪さ 明らかな記述の矛盾

私は読み始めてみてすぐに、居心地のよくない違和感を感じることになる。多くの読者が気づいているのではないかと思うのだが、この作品の基本的設定の部分で、記述内容に大きな矛盾がある。
それは「なぜマコンドという村が開かれたのか」というストーリーの発端部分の記述が明らかに矛盾しているからだ。
22ページの記述では周辺一帯の地理の不案内であるという文脈の流れの中で
「実はまだ若かったころ、彼(ホセ・アルカディオ・ブエンディア)とその一行の男たちは女子供や家畜を引きつれ、家具什器のたぐいを洗いざらいかかえて、海への出口を求めて山越えをはかったことがあるのだが、さすがに二年と四カ月めにはこの難事業をあきらめざるをえなかった。そして、帰途につく労をはぶくためにマコンドの村を建てたのである」
と記述している。この記述では、マコンドを建てた理由は、「海への出口」を探す旅に出たが探しきれずに帰る労力を省くために住み着いた、ということである。

しかし、その少し後に全く異なる理由が述べられている。
32ページから38ページにかけて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラとの結婚、その後、彼らの行為によって殺された男プルデンシオの亡霊が現れるようになったことが書かれている。その亡霊を安心させるために、ふたりは同行することになった仲間たちと共に「二度と戻ってこない」山越えを敢行したと書かれている。 そして山脈の西側をさらに進み、「凍てついたガラスの流れにそっくりな水がはしる、岩だらけの川岸」にたどり着き、その夜に見た夢でその場所にできる村の名前が「マコンド」であると告げられ、その場所に定住したとある。

つまり、元々いた場所から出発した理由も違っていれば、マコンドの場所に定住した事情もまったく違う記述である。元いた場所に戻ってくるつもりがあったのか、なかったのかという意思も異質なのである。
他にも、ジプシーのメルキアデスが最初にマコンドに持ち込んだものは「磁石」だったのか「頭痛に効くというガラス玉」だったのか、それぞれに読み取れる記述が並存する。
海に行き着くことができないほどの遠く離れた土地であるはずが、はるか彼方に静かな海が見えていたという記述もある。
こうした明らかな記述上の矛盾が、この作品にはいくつかある。
しかし、こうした記述の部分部分についての指摘は割愛したいと思う。それはこの作品の主題を損なうほどの重大な問題ではないと思うからである。

本作品の主題

この物語にはいくつかの主題が盛り込まれている。
レベーカがマコンドで最初に罹ったように読める伝染性の不眠症の持つ意味。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアが、懲りもせずに次から次にと新しい偽の技術や情報に没頭する。
自分たちで建設したマコンドの存在が国家によって派遣された官吏によって統治されそうになる事態。
思想の違いなのか、国内での戦争が始まり、巻き込まれていくマコンドと家系の人々。
鉄道や通信、電気などの新しい文明との出会い。
男と女の愛憎と行為、妊娠と出産を経て複雑に絡む近親家系が続くという事実。
歳をとってからのそれぞれの生き様と死に様。
マコンドの人々と町の外からやってくる人達との関わり、交流、相互の影響、etc...。

中でも重要な役割を果たすのがメルキアデスの存在である。

物語の最重要人物 メルキアデス

メルキアデスはマコンドが建設された当初から出入りしているジプシーであるが、物語の早い時点で死んでしまう。折々に語られる「わしは熱病にかかって、シンガポールの砂州で死んだのだ」とはこのことである。
しかし、死の世界から「伝染性の不眠症」の治療薬を持って現れる。
死の世界の孤独に耐え切れずに舞い戻ったと説明されている。
生への執着の罰として、超自然的な能力を奪われ、種族の者に忌み嫌われたと。
そして、死がまだ発見されていないこの世界(マコンド)の片隅に身を潜めて銀板写真術の開発に努力を傾ける決意をして現れたのだという。
ガルシア・マルケスの作品が超科学的とも魔術的とも言われる典型的な場面である。

その後、メルキアデスはノストラダムスの解釈に没頭し、マコンドの未来予言を探り当てたと確信する。それは、
「マコンドはガラス造りの大きな屋敷が立ちならぶにぎやかな都会になるに違いない。ただし、ブエンディア家の血をひく者はそこには一人もいない」
というものだった。
その数ヵ月後、メルキアデスは水死する。
その間に羊皮紙に謎めいた文字を書きなぐっていた。
それが何であるのかがわかるのはアウレリャノ・バビロニアの時代を待つことになる。
彼は死んだメルキアデスと話ができた。
メルキアデスが残した羊皮紙に書かれている文字がサンスクリットであることを知り、サンスクリット語を勉強し、メルキアデスの助けを得ながら解読を進める。

豚のしっぽ

急速にマコンドが衰えていく。
300人もの犠牲者を出してバナナ会社が撤退し、多くの住民がマコンドを去っていく。
そんな中、ブエンディア家最後の継承者アウレリャノが豚のしっぽを持って生まれる。
「この百年、愛によって生を授かったものはこれが初めて」--
そのアウレリャノが、持って生まれてきた豚のしっぽこそ、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラが恐れていたものであり、マコンドを建設した直接の動機であった。
「忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子」--
その子も父親が留守をした間に死に、「ふくれ上がったまま干からびた皮袋のような死体」が蟻の大群によって運ばれるシーンに、衝撃と悪寒が走る。
この瞬間、メルキアデスの書き残した羊皮紙の表紙の言葉が浮かび上がる。
『この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる』

百年の孤独 その終焉は、大きな生命法則への挑戦か

アウレリャノ・バビロニアによって一気に羊皮紙の文字が読み解かれていく、この後の展開はスピードが最高潮に達する。
マコンドの百年の歴史<予言>をすべて一瞬のうちに封じ込めたメルキアデスの文章を読み進めると同じ速度で、マコンドは終末に突き進む。
そして、メルキアデスの文章と諸共に、マコンドは地上から消滅し、この物語は終わった。
メルキアデスの予言書通りにマコンドの運命が辿ったのか。
それ以前に、マコンドの運命が決定づけられていたのか。
決定づけられていたとすれば、その決定要因とは何であったのか。
そもそも、ガルシア・マルケスが描こうとした「マコンド」とは何だったのか。

正確に、この作品を解説、紹介することは難しいのかも知れない。
少なくとも書籍の帯に書かれているような紹介文(「愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から・・・・・・。」という文章)などは、本質に迫っているとは、まったく言えないと私は思う。
多くの風刺や社会批判も含まれていることも事実である。

しかし、それ以上に、運命という言葉で表現される、大きな生命法則のようなものに、ガルシア・マルケス自身が果敢に挑もうとしたように思えてならない。
皆さんはどのように感じられたであろうか。
(※ページ番号は2006年改定版に準拠)

作家:ガルシア・マルケス

ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Jose Garcia Marquez, 1928年3月6日 - )は、コロンビアの作家・小説家。架空の都市マコンドを舞台にした作品を中心に魔術的リアリズムの旗手として数々の作家に多大な影響を与える。1982年にノーベル文学賞受賞。 『百年の孤独』『コレラの時代の愛』が2002年、ノルウェイ・ブッククラブによって「世界傑作文学100」に選ばれる。
1928年コロンビアのカリブ海沿岸にある人口2000人ほどの寒村アラカタカに生まれる。事情により両親と離別し、祖父母の元に預けられて幼年期は3人の叔母と退役軍人の祖父ニコラス・コルテス、迷信や言い伝え、噂好きの祖母ランキリーナ・イグアラン・コテスと過ごした。代表作になる『百年の孤独』および一連の小説は、祖父母が語ってくれた戦争体験や近所の噂話、土地に伝わる神話や伝承に基づくところが大きい。特に『百年の孤独』は祖父母の影響が色濃く残っている。特に影響を与えたのは祖父で、『落葉』の老大佐、『大佐に手紙は来ない』の退役大佐、『百年の孤独』のアウレリャーノ・ブエンディーア大佐などのモデルになったと言われる。1936年祖父が逝去、1941年両親の元に戻る。
高校時代から執筆活動を始める。ボゴタ大学法学科に入学。マリオ・バルガス・リョサ、その他多くの作家が法学科に在籍。同大学は1948年ボゴタ暴動の原因となり、約20万人の死者を出すと共に今のコロンビア第一のゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)やコロンビア自衛軍連合(AUC)のような極右民兵の発生起源にもなっており、コロンビア内戦もボゴタソの影響である。)が起こり、学校が閉鎖されたために家族の住むカルタヘナの大学に移るが、生活難により中退。『エル・ウニベルサル』紙の記者として働き、安アパートで貧乏暮らしをする。この頃、ジェイムズ・ジョイスやフランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、ミゲル・デ・セルバンテスなどを耽読した。特にウィリアム・フォークナーは、のちにガルシア・マルケス作品の土台を為すうえで絶大な影響を与えた作家である。後に、ノーベル賞の受賞演説の冒頭で、「フォークナーが立ったのと同じ場所に立てたことはうれしい」と語った。フランツ・カフカについては、彼の『変身』を読んだことで大きな衝撃を受け、マルケス自身の作風を確立する上で決定的な体験の一つになると共に、文学そのものに関心を持つ大きなきっかけとなった。
ヴァージニア・ウルフは、もし『ダロウェイ夫人』のある一節を読まなければ今とは違った作家になっていただろうとのコメントを残している。
1954年『エル・スペクタドル』紙記者としてボゴタへ戻り、翌55年に教皇崩御を伝えるためにローマへ。
ローマにて映画評論を本国へ送るかたわら、「映画実験センター」の映画監督コースで学ぶ。この体験によって、後年かれ自身が映画監督をつとめることにもなる。同55年、自由党派『エル・エスペクタドル』紙は当時の独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧によって廃刊。収入のなくなったガルシア=マルケスは、安アパート「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送る。この地で『大佐に手紙は来ない』を執筆する。
1957年、友人が編集長を務める、ベネスエラの首都カラカスの雑誌『エリーテ』にヨーロッパから記事を送り生活していた。1958年に結婚するためコロンビアにいったん戻り、カラカスに移り住む。この時に使われた旅費は1955年に出版された『落葉』によるものだった。『落葉』は、マルケスがヨーロッパ滞在中にかれの友人が祖国で『落葉』の原稿を見つけて、マルケスに無断で出版社に持ち込んだ作品であった。いわば偶然世に出た作品であった。
1959年キューバに渡りフィデル・カストロを知り、キューバ革命成立とともに国営通信社「プレンサ・ラティーナ」のボゴタ支局編集長となったが、間もなく編集部の内部抗争に嫌気がさし辞職。しかしフィデル・カストロとの親交は続き、2007年3月には病床のカストロを見舞った。
1961年にメキシコに渡り映画製作に携わるかたわら、『大佐に手紙は来ない』を発表。1962年に前年から書いていた『悪い時』とカラカス時代に書き溜めた短編集『ママ・グランデの葬儀』を発表している。
1967年は『百年の孤独』が発表された年である。1965年のある日アカプルコ行きの車の中で17歳の頃から温めていた構想が一気にまとまったと言う。18ヶ月間タイプライターを叩きつづけて『百年の孤独』は完成した。『百年の孤独』は、スペイン語圏で「まるでソーセージ並によく売れた」と言われ、貧乏生活から足を洗うことになる。60年代、フリオ・コルタサルやバルガス・リョサ、マルケスを中心としたラテンアメリカ文学の人気は「ブーム」と呼ばれ、日本でも例外ではなく、知識人なら読んでいなければ恥であると言われるくらいのものだった。特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。
1973年チリ出身のノーベル文学賞授賞者で、ラテンアメリカの代表的詩人パブロ・ネルーダが亡くなった時、マルケスは軍事政権が消滅するまでは新しい小説を書かないと宣言したが、ネルーダ未亡人の懇望によって、1975年、政治風刺色の強い『族長の秋』を発表。ただマルケス自身は「小説家の任務は優れた小説を書くこと」として政治の舞台には一度も上がっていない。
1981年、マルケス自身が最高傑作だという『予告された殺人の記録』を発表。この作品は実際に起きた事件をモチーフにして書かれたものであるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。
1982年10月21日、スウェーデン王立アカデミーにて、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞受賞。受賞の理由としては、「現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界」を創り出したことにあった。
1997年、メキシコに移住。
2004年10月20日、10年ぶりに新作の小説Memorias de mis putas tristesを出版する。海賊版の出回りを防ぐために出版直前に最終章を変更している。

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