桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第55回】

『誘拐』(本田靖春)

開催日時 2009年10月25日(日) 14:00~17:00
会場 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分  勤労福祉会館 和室(小)

開催。諸々コメント。

今回はノンフィクション作品からピックアップしました。
本田靖春氏による『誘拐』は、日本におけるノンフィクション作品の最高傑作のひとつと評される作品です。
作品の舞台は昭和38~41年の東京。日本中を震撼させた「吉展ちゃん誘拐事件」が本作品の素材です。

この事件自体が日本の犯罪史上に特筆される重大事件です。
身代金目的の誘拐がほとんどなかった当時のこと。警察の捜査もノウハウがなく、逆探知や声門鑑定等の技術もなかった時代です。
マスコミと警察の間で報道協定が結ばれた日本発の事件としても有名であり、公開捜査に踏み切り、多くの国民が注目した事件です。
何もかも手探りのなかで、ただひたすら吉展ちゃんの奪還を最優先に考えながら、しかし致命的な失態を繰り返す警察の姿も赤裸々に描かれていきます。

本田氏はこの事件を犯人の側から克明に描き出そうとします。
当時の時代背景や地方の寒村が抱えていた貧困など、事件の背後にある様々な要因を、地道な取材や資料を精査することによって、この事件の全体像に迫ろうとした労作でもあります。
作品の後半は、名刑事とうたわれた平塚八兵衛が事件を洗い直し、犯人である小原保に肉薄し、自供に追い込んでいきます。
作品は、取調室における八兵衛による小原を落とすシーンで最高潮に達します。その後の拍子抜けするほどの印象すら感じる小原保の心の変化も特筆に値する展開でしょう。
事実を一面からのみ見ることの怖さ。情報過多で、かつマスメディア報道にいとも簡単に世論を左右される時代を生きる私達現代人が心すべき教訓も多く含まれているように感じます。

本田靖春氏は本作品で第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞。数多くのノンフィクション作品、ドキュメンタリ作品を発表し、惜しまれながらも2004年に逝去されました。
歴史上の事件、すでに多くの人に知られている出来事であるから、その結末は、はっきりしている。
ノンフィクション作品のある分野ではそうした一側面がある。
しかしこの作品には力がある。
結果がわかっていても読者を惹きつける魅力とは何なのか。
そんな気持ちにもさせてくれる作品でもあります

作者

本田靖春(1933年3月21日~2004年12月4日)
ジャーナリスト。ノンフィクション作家。朝鮮京城生まれ。東京都立千歳高等学校を経て早稲田大学政治経済学部新聞学科卒。1955年読売新聞社に入社。直後から社会部に在籍し朝日新聞社の深代惇郎と同じ警察担当記者として接点があった。 1964年、売血の実態を告発した「黄色い血」追放キャンペーンを展開し大きな反響を呼び、現在の100%献血事業への改善につながった。その数々の功績から「東の本田、西の黒田」と称えられるエース記者に。ニューヨーク支局勤務ののち、1971年退社。フリーでルポルタージュを行い、1984年『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞。吉展ちゃん事件を扱った『誘拐』で1977年に文藝春秋読者賞、講談社出版文化賞を受賞。大宅賞選考委員も務めた。
2000年に糖尿病のため両脚を切断、大腸癌も患い、同年から『月刊現代』で連載を開始し46回で中絶した「我、拗ね者として生涯を閉ず」が遺作となった。その綿密な取材は後続のノンフィクション作家たちの尊敬を集めている。

吉展ちゃん事件【概要】

吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件。1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)・入谷南公園で起きた男児誘拐殺人事件。
1963年3月31日16時30分~17時40分の間に、東京・台東区入谷町の建築業村越繁雄(34歳)の長男・村越吉展(当時4歳)が自宅近くにある入谷南公園(東京都台東区)に遊びに出掛けていたが行方不明になった。両親は迷子を疑い警察に通報。
4月1日、警察の聞き込みの結果、公園で吉展ちゃんが30代の男性と会話した目撃情報を得た警視庁捜査一課は誘拐の可能性ありとして、捜査本部を設置。
4月2日、身代金50万円を要求する電話が入る。警察は報道機関に対し報道の自粛を要請。「報道協定」が結ばれる。
4月4日にも身代金を要求する電話が入り、家族が被害者の安否を確認させるよう求め、電話を4分以上に引き延ばした結果、犯人からの通話の録音に成功する。後に公開した音声はこの通話である。
4月7日、身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。犯人の指定場所(被害者の自宅からわずか300mしか離れてない場所)にあった軽三輪の荷台に、被害者の母親が身代金入り封筒(50万円)を置いた後、警察がその車を見張りだすまでのわずかな時間差を突いて、犯人は吉展ちゃんの靴と引き換えに身代金を奪取し逃亡してしまった。以降、犯人からの連絡は途絶え、被害者も帰ってこなかった。犯人を刺激しないため、封筒の中身は偽物ではなく本物の紙幣だった。
4月13日、原文兵衛警視総監がマスコミを通じて、犯人に「吉展ちゃんを親に返してやってくれ」と呼び掛ける。4月19日、警察は公開捜査に切り替える。また、犯人からの電話を公開し情報提供を求めたところ、1万件に及ぶ情報が寄せられる。寄せられた情報には、犯人に直接つながる有力情報もあったが、直後の逮捕にはつながらなかった。
4月25日 下谷北署捜査本部は、脅迫電話の録音を異例の「犯人の声」手配としてラジオ、テレビを通じて全国に放送、協力を求め、正午までに220件を越す情報が寄せられる。
1965(昭和40)年7月4日 警視庁捜査1課の吉展ちゃん事件特捜班は、小原保(32歳)を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕。小原は「誘拐した夜、荒川区南千住のお寺で殺し墓地に埋めた」と自供した。
7月5日 円通寺境内で白骨化した死体を発見。
小原は犯行当時、台東区御徒町の時計商を解雇され、取引先から借金の返済を迫られていた。
1966年3月17日、東京地方裁判所が小原に死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴。同年9月から控訴審として計3回の公判を行うも、11月に東京高等裁判所は控訴を棄却する。弁護側が上告するが、1967年10月13日、最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定する。4年後の1971年12月23日に死刑が執行される。享年38歳。
小原は処刑間際、平塚八兵衛あてに「私は真人間になって死んでいきます。そう(平塚さんに)伝えてください」「ナスの漬物おいしゅうございました」と言い残す。この言葉は、当時府中署の「三億円事件」の特捜本部にいた平塚に、看守により電話で伝えられる。
死刑確定後、短歌を再開した小原は、同人誌『土偶』に福島誠一のペンネームで投稿。死後の1980年に出版された歌集『昭和万葉集』(講談社)に小原の短歌が掲載され、1983年に『氷歌 - 吉展ちゃん事件から20年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版)が出版される。

自供に至る、主に第3回目の捜査の進展

それ以前の2回の捜査でも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。
小原は、1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受け、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。
警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。
①小原が主張する、1963年3月27日から1963年4月3日まで福島県に帰省していたというアリバイを覆せる証拠がなかった。
②事件直後に大金を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
③脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
④ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
⑤足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。
小原には、誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施した。3月31日の目撃者は、石川町上ノ郷地区で雑貨商を営む老婆。老婆の親戚男性から、野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる藁囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明。つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の3月30日であることが分かった。
一方、4月2日の目撃者は、この男性の母親。十二指腸潰瘍を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に小原を目撃したという。裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院。その後、3月28日と4月2日にも通院しているという記録が残っていた。しかし、当日の孫の腹痛は、前夜の節供での草餅の食べ過ぎが原因と判明。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていた。その年の旧暦三月三日は3月27日。病院に運ばれた日(目撃された日)は翌日の3月28日と判明。さらに、小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍もち(しみもち)を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁の房子によると、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられており、その年は米の不作により米の凍もちは作らなかったことが分かった。
小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、取調べは10日間に限定された。小原は、以前の取り調べと同じように、相手をはぐらかすような受け答えを続けており、拘留期限の10日間がまたたく間に過ぎた。
拘留期限が過ぎ、小原は前橋刑務所へ移管されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をするための音声採取の名目で、1965年7月3日取調べ室で雑談をすることになった。その雑談中、小原は「日暮里大火を山手線の車中から見た。」と漏らした。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。アリバイの主張どおり、小原が4月2日の夜に福島県にいたならば、東京都内で起こった日暮里大火は目撃できない。急遽取調べが再開され、平塚八兵衛は捜査で明らかになった新事実を小原にぶつけ、一気に落しにかかる。小原の郷里で小原の母親に会った際、母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現する。ついに小原は犯行を認めた。
小原の供述により、吉展ちゃんは誘拐直後に殺害されていたことが分かり、1965年7月5日未明、三ノ輪橋近くの円通寺(荒川区南千住)の墓地から遺体で発見された。

作品の感想

本田靖春作『誘拐』は日本におけるノンフィクション作品の代表格とされることもあるので作品名を聞いたことがある人も少なくないかもしれません。
作品のテーマは「吉典ちゃん誘拐殺人事件」。
日本中を震撼させた身代金目的の誘拐事件です。

東京オリンピックを翌年に控えて活況を呈していた昭和38年3月31日。年度末を迎えた東京都台東区入谷。上野や浅草にもほど近く、戦後復興の名残が色濃く残っていた下町の片隅の公園で誘拐事件は起こった。
『誘拐』はいわゆる推理物や勧善懲悪ものではない。
ましてや週刊誌のような興味本位ののぞき趣味や告発本でもない。
本田氏の視点は誘拐犯であった小原保の側にも立ち、被害者家族の立場にも立つ。小原の家族親族の側にも立ち、当然のことながら捜査陣の側にも立つ。その視点の複合性が作品の深みと広がりに繋がっている。

作品の流れは、事件の経過と平塚八兵衛による再捜査と小原保の自白に至るストーリーをメインとして、小原保の人生が織り込まれている。
誘拐は許されがたい凶悪犯罪である。
この事件に至っては誘拐直後に吉展ちゃんは殺害されている。
情状酌量の余地がない事件である。
それでも、私は小原保の生い立ちが綴られた文章に惹きつけられていく。

恵まれない僻地に、極貧の家庭に生まれ育つ。親族は心身の障害、兄弟の死産や死亡など、不幸な運命に翻弄されてきた。そんな状況の中でちょっとしたあかぎれから足の不自由な身体障害の身になってしまう。
貧しい土地地域の中でも更に差別視されてきたその幼少時代に、小原保の情操はどのように形作られたのだろうか。想像するだけで胸がしめつけられるのは私だけではないと思う。

私は、そしておそらく少なからずの読者は、なぜ小原保の来し方に気持ちがさざめき動くのだろうか。
小原保の話は特異な事例では決してないと思う。
少し話がそれるが日頃感じていることを綴っておきたい。、

小原保が生まれ育った環境は、日本人の大半がおかれているごく一般的な環境であろう。もっといえば国は違えども、世界各地で同様の環境の中で多くの庶民が生き抜いてきた。その環境とは、厳しい自然環境であり、貧富の差を大きくしてきた社会環境である。
その思いは、古今東西の様々な文学作品を読むにつけ、確信になっている。
人間が生存のための生活を営みはじめた大古の昔から、「貧しさ」は大きなテーマであった。ロシアでもアメリカでもイギリスやフランス、中国や日本。どの地域が舞台であっても、多くの古典名作には、厳しい自然に耐えながら、家族を守り、愛し、裕福になった者からの差別に虐げられながら、病気に苦しみながら、貧しさと戦い続ける庶民が描かれている。
貧困とは昨日今日始まったことではない。
人間が生活を形成しはじめた当初から、「貧しさ」は厳然と存在し続けるのだ。

東京オリンピックの前後の時代が、特別だったわけではない。
ただ、高度経済成長のこの時代だから、はっきりと際立ったということはあるだろうと思う。世間で「人間疎外」だとか言われ始めたのは、それからしばらく後の時代になってからである。ルポルタージュ等のノンフィクション作品の必要性は、事実を書き残すという使命に加えて、様々な視点から事実に迫ることで、より実像を明らかにするという側面を有しているにもあると、私は思う。

「動機なき犯罪」などと報道される事件が増えてきているようにも思う。
確かに直裁的な面だけをみれば、衝動殺人とか行き擦りの犯行、安直な犯罪などが存在するのは事実だろう。
しかし、そうした行動においても、必ずその行為に至る理由があるはずだと私は思う。原因結果の関係はどこまでも存在する。
その視点からものごとをとらえていくことが、すべての解決のための出発点ではなかろうか。
そんなふうに思うのである。

『誘拐』における作品としての評価には、ひとつ二つの視点に偏らない考察が読者の支持を受けたという面もあるのだろう。
それでも、その後に判明した事実や時代の変化の中で、今読み返してみると更なる視点の広がりがほしいと感じる面もある。平塚八兵衛に事件解決の功労が集約されている感などは、その代表例といえるだろう。
これは、ノンフィクション作品の持つ難しさである。宿命とも言えるかもしれない。

私たちは何のために生きるのだろうか。
なぜゆえに「貧しさ」が存在し続けるのだろうか。
貧困に象徴される厳しい環境に打ち勝つことができず、敗北する人生。
そして悪環境を乗り越える代わりに、犯罪行為に逃げ道を求めてしまう生き方の選択に、事件の哀れさと本質の一端を感じるのだ。

環境に負けるな。
自分にとってマイナスと思える環境をも、成長の糧へと転換するのだ。
そんな思いで生きていける自分でありたいと感じる毎日である。

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