桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第113回】

『ブンナよ、木からおりてこい』(水上勉)

開催日時 2014年9月27日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 和室(小)
西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

トノサマがえるのブンナ。
土かえる達の中でひとり跳躍や木登りが得意なブンナはどこか不遜な生き方になっていたのでしょうか。
ある日のこと。高い椎の木の頂上に登ります。頂上まで達して満足したその瞬間に鳶が舞い降りてきます。
かろうじて椎の木の頂上に溜まっていた土の中にもぐって命を長らえるブンナですが、その椎の木のてっぺんは鳶が捕えた獲物を一時的に保存する場所だったのです。次々に運ばれてくる怪我をした小動物達。
じっと息をひそめるブンナの上で展開される会話からは生と死への様々な思いが交錯します。
彼らは何を思い、何を語るのでしょうか。そしてブンナは生きて木を降りることができるのか。そしてその時何を感じるのでしょうか。
ブンナの目を通しながら生きることの意味を考えてみたいと思います。

著者

水上勉(みずかみつとむ・みなかみつとむ)
1919年(大正8年)3月8日 - 2004年(平成16年)9月8日)
福井県の大工の家に5人兄弟の次男として育つ。貧困から9歳の時、京都の臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出されるが出奔。連れ戻されて等持院に移る。旧制花園中学校卒業。1937年(昭和12年)立命館大学文学部国文学科に入学するも生活苦のため半年で中退。
1944年郷里に疎開し国民学校助教を務める。戦後上京し、文潮社嘱託ののち虹書房を興して雑誌『新文藝』を創刊、石川啄木、樋口一葉などの作を刊行し、1946年(昭和21年)宇野浩二の『苦の世界』を刊行したことから宇野の知遇を得、文学の師と仰ぐようになる。虹書房は解散、1947年(昭和22年)に刊行された処女作『フライパンの歌』がベストセラーとなるが、その後原稿依頼がなくしばらくは生活に追われ、体調も思わしくなく文筆活動からは遠ざかった。
服の行商のかたわら、菊村到に励まされ、松本清張の『点と線』をむさぼるように読みながら日本繊維経済研究所に勤めていたときの経験から1959年(昭和34年)に日本共産党の「トラック部隊」を題材にした『霧と影』で執筆を再開。友人川上宗薫の紹介で河出書房の編集者坂本一亀の手に渡り、4回の書き直しを経て出版。1960年(昭和35年)水俣病を題材に『海の牙』を発表、翌1961年(昭和36年)第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞、社会派推理作家として認められた。しかし水上自身は推理小説に空虚感を感じており、「人間を描きたい」という気持ちから自分がよく知る禅寺の人間たちを題材に『雁の寺』を執筆、同年に第45回直木賞を受賞、華々しい作家生活が始まった。
『飢餓海峡』(1963年)『くるま椅子の歌』(1967年)などを発表。小説『越前竹人形』『はなれ瞽女おりん』『五番町夕霧楼』『櫻守』伝記文学『良寛』『一休』童話『ブンナよ、木からおりてこい』他のエッセイなどを旺盛に書き続ける。
次女が二分脊椎症という病気であったことなどから身体障害者の問題に関心を持ち、社会福祉の遅れを告発する発言や文筆活動もしばしば行った。また1985年(昭和60年)、福井県大飯町(現:おおい町)に「若州一滴文庫」を創設、竹人形を使った人形劇の上演にも力を尽くした。
1989年(平成元年)自ら団長として訪問先の北京において天安門事件を目の当たりにし帰国直後に心筋梗塞で倒れる。その後も網膜剥離の手術を受けるなどしたが執筆意欲は衰えなかった。2004年(平成16年)9月8日肺炎で野県東御市で死去。85歳没。死後、正四位に叙され旭日重光章を授けられた。没日は直木賞受賞作『雁の寺』に因んで帰雁忌と呼ばれる。

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