桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第135回】

『トニオ・クレーゲル』(トーマス・マン)

開催日時 2016年7月16日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬 第二和室 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

物語のあらすじ

物語の始まりは1900年代初めの北ドイツの町リューベック。
名誉領事であり裕福な商人を父に持つトニオ・クレーゲルは文学の趣味を持つ14歳の少年である。
北ドイツ的な堅実な気質の父と、芸術家的な気質のイタリア出身の母を受け継いだトニオ。まじめな考え方を持ちながらも文学を愛する気持ちが強く、堅実で実務的な家庭に育つ子女が多いギムナジウムの中では同級生達に少し違和感を感じている少年であった。

その日トニオは、同じく裕福な家庭に育つ同級生のハンスと学校の帰り道に散歩の約束をしていた。
トニオはハンスに対して特別の親愛さを感じていた。
ハンスは約束を忘れていたがそのことは取り繕って一緒に散歩をする。しかしハンスはトニオのことをさほど大切に思っていないのかありきたりな会話に終始する。トニオはハンスに寂しさを感じてしまうが言葉に出さずに別れる。

16歳になった頃、町の裕福な子女たちは専門教師についてダンスを習っていた。
トニオは一緒にダンスの練習をする一人であるインゲ・ホルムという少女を好きになる。しかしインゲはトニオのことは特別には思ってはおらず、ハンスに好意を持っている様子であった。
一方でトニオに心を寄せる少女もいた。しかしトニオの気持ちはインゲに向いていた。
ある日のダンスの練習でトニオは失敗をして皆に笑われる。笑っている人の中にインゲもいたことにトニオの心は人知れず傷ついたのだった。

やがて祖母、父が相次いで逝去し、一年後に母はある音楽家と再婚して町を去った。トニオは故郷の町を見捨てて各地の都会や南国で暮らしながら芸術と官能の道を歩んでいく。
作家として順調なスタートを切り次第に評価されるようになったトニオは、南ドイツのミュンヘンに住む。そこで知り合った女流画家リザヴェータに、芸術家でありながら父のような市民としての生き方もしたい心の葛藤を告白する。

リザヴェータとの対話の後、トニオはデンマークへ向けて旅行に出発する。
その途上で生まれ故郷のリューベックを訪れるトニオ。
生まれ育った生家を訪ねると建物は朽ちてきていた。自分の部屋があった2階にあがるとそこは民衆図書館になっていた。 リューベックでの目的を果たしたトニオはホテルを引きはらおうとすると犯罪者の嫌疑をかけられ、複雑な思いを抱きながら故郷の町を後にした。
トニオは船でデンマークに向かった。船中で詩文とは無縁の乗客と交流し、デンマークのコペンハーゲンのホテルに逗留する。町を歩き回ったり海水浴をしたりして数日が過ぎた頃、ホテルに大勢の舞踏会をする客が大勢やってくると告げられる。
その夜到着した客の中に、ハンスとインゲをみつけた。
舞踏会が始まり、様子を見ようとトニオはベランダに回って会場の中を見つめる。その時ある婦人が倒れてしまい、トニオは介抱するために部屋の中に飛び込んだ。目があったはずのハンスもインゲも、トニオのことは気に留めることはなかった。
以前と変わらず上流社会で生きているハンス、インゲと現在の自分の違いを痛感するトニオ。

トニオはリザヴェータに手紙を送る。
そこには文人として生きていくトニオの決意が綴られていた。

作品の背景

第二次産業革命の時代
産業革命の第二段階。1865年から1900年までと定義される。この期間にはイギリス以外にドイツ、フランスあるいはアメリカ合衆国の工業力が上がってきたので、イギリスとの相対的な位置付けでこれらの国の技術革新を強調する時に、特に用いられる。
この時代には、化学、電気、石油および鉄鋼の分野で技術革新が進んだ。消費財の大量生産という仕組み面の発展もあり、食料や飲料、衣類などの製造の機械化、輸送手段の革新、さらに娯楽の面では映画、ラジオおよび蓄音機が開発され、大衆のニーズに反応しただけでなく、雇用の面でも大きく貢献した。しかし、その生産の拡大は長びく大不況 (1873年-1896年)といわゆる新帝国主義に繋がる要素も持っていた。

リューベック
ドイツ連邦共和国の都市。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属する。トラヴェ川沿岸、バルト海に面する北ドイツの代表都市。かつてはハンザ同盟の盟主として繁栄を誇った。
町の中心部から20kmほど離れたところに、トラヴェミュンデというバルト海に面した海水浴場がある。
ドイツ有数のリゾート地として有名で、夏場は多くの海水浴客で賑わう。
正式名称をハンザ都市リューベック。面積214.14平方キロメートル、人口211,713人(2011年現在)。

ドイツの昼食
中世のドイツでは、昼の一杯のエールとパンは、昼のディナーとサパーの間の追加の食事であり、干し草刈りや早めの収穫期の長時間の重労働の期間に食べる。
ミュンヘンでは、1730年代と1740年代に、上流階級は遅く起きて、午後3時または4時に食事した。1770年までに、ディナーの時間は4時または5時になった。フォーマルな夕方の食事は、キャンドルを灯して歓待付きのこともあり、摂政時代のように遅い「サパー・パーティ」であった。

作者

パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)
北ドイツの商業都市リューベックに生まれた。豪商の家系であり、祖父ヨハン・ジーグムント・マンはオランダ名誉領事およびリューベック市民代表、父トーマス・ヨハン・ハインリヒ・マンは市参事会議員として市長に次ぐ地位にある要人であった。

マンの両親は読書家であり、マンは国内外の小説や童話を初めとする多くの書物に触れて育った。
1882年ドクター・ブセニウスの予備高等学校に入学。
1889年にカタリーネウム高等学校(ギムナジウム)に入学し実科コースに進んだ。しかし予備高等学校時代には6年目に落第、高等学校でも2年落第。詩作は早く、高等学校時代に教室で学んだシラーの詩と『ドン・カルロス』、ヴァーグナーの楽曲に感銘を受けた。

1891年父ヨハンが死去し、一家は屋敷を売り翌年ミュンヘンに移るが、マンは実科終了資格を取るために2年間リューベックに残った。 1893年校内雑誌『春の嵐』を作り詩や散文数篇を寄せる。1894年3月兵役を1年で終えることができる志願兵資格を得られるだけの学級を終えたため高等学校を中退、一家の待つミュンヘンに移った。

1893年4月南ドイツ火災保険会社の見習いとして働き始め、小説作品の執筆を続けた。10月処女作品短編小説『転落』が文芸雑誌『社会』に掲載。抒情詩人リヒャルト・デーメルから賛辞の手紙を受け、マンは筆によって立つことを決意、保険会社を辞してミュンヘン工科大学の聴講をしながら作品の執筆を行った。この頃にショーペンハウアー、ニーチェの哲学に興味を持つ。
1896年より『幸福への意志』『幻滅』『小フリーデマン氏』『ルイスヒェン』など一連の短編作品を発表、1898年最初の短編集『小フリーデマン氏』が出版される。

2年半の執筆期間を経て1901年5月、11部からなる長編『ブッデンブローク家の人々』が完成。翌年10月に出版されると広く読者を集め、第一次大戦前までにデンマーク語、スウェーデン語、オランダ語、スウェーデン語、チェコ語に訳されるベストセラーとなった。1929年にノーベル文学賞を与えられた際に受賞理由として挙げられている。
1903年『トニオ・クレーゲル』を発表。

1905年カタリーナ・プリングスハイムと結婚。6子をもうけた。マンは朝9時から3時間を執筆時間に当て、マン家ではこの3時間を「魔術師の時間」と呼び静寂を保つように務めた。
1910年マーラーと知り合う。1912年マーラーの死に触発されて中編『ヴェニスに死す』を発表する。
1912年、夫人カタリーナが肺病を患ったためスイスのダヴォスにあるサナトリウムで半年間の療養生活を送った。見舞いに訪れたマンは、夫人から聞いた体験や挿話を元に小説を着想。短編小説のつもりだったが12年の間書き続けられて『魔の山』として発表。
1914年第一次世界大戦が勃発。マンはこの大戦を「文明に対する文化としてのドイツの戦い」と位置づけてドイツを積極的に擁護。ロマン・ロランや実の兄ハインリヒ・マンから批判を受け、一時兄弟で仲違いをすることになった(1922年に和解)。

1915年より『非政治的人間の省察』を執筆、第一次大戦における協商側の仏の帝国主義的民主主義に対した反民主主義的不平等人格主義のドイツを擁護して論じた。
1918年ドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923年の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。

1924年『魔の山』発表。
1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。
1929年、ノーベル文学賞受賞。
翌年『マーリオと魔術師』を発表。

1930年前後よりナチスが台頭するとマンは国家社会主義の新聞に対して論戦を貼り、1930年にはベルリンで講演『理性に訴える』を行いナチズムの危険性を訴えた。またこの講演では労働者階級による抵抗を励ますと同時に社会主義と共産主義への共感が増していることを表明。1933年1月30日ヒトラーが政権を握ると兄ハインリヒ・マンとともにドイツ・アカデミーを脱退。2月23日夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けそのままスイスに留まる決意。1936年マンはドイツ国籍と財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。
1933年秋、マンはスイスのチューリッヒ近くのキュスナハトに住居を定めた。
1935年のマン60歳の誕生日もスイスで盛大に行なわれ、出版社から贈られた祝詞集にはアルベルト・アインシュタインやバーナード・ショー、クヌート・ハムスンなどからの手書きの言葉が寄せられた。
同年ハーヴァード大学名誉博士を授与される。
1936年11月、チェコ国籍を取得。1937年、スイスにおいて雑誌『尺度と価値(Maß und Wert)』を創刊、1940年の廃刊まで同誌で反ナチスの論陣を張る。
1938年、アメリカに移住しプリンストン大学客員教授に就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツ、オーストリアからの亡命者を支援した。
1939年、長編小説『ヴァイマルのロッテ』をストックホルムの出版社より刊行。文豪としての名声を得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテのモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会を描いており、のちに作品の一節をニュルンベルク裁判でイギリスの裁判官がゲーテ自身の言葉として引用したことが問題となった。

1940年6月、フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力。10月よりBBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。
しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツでマンに対する賛否両論が起こる原因となった。
1941年1月、ルーズベルト大統領の賓客として、ホワイトハウスに滞在。4月にカリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住を決める。

1944年6月、アメリカ市民権を取得。
1947年、長編『ファウスト博士(英語版)』を発表。40年以上前の短編プランをもとに着手されたもので、自身の芸術と文学に対する集大成を行なった。
1949年にフランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞。
1952年6月、パシフィック・パリセーズを離れ、ヨーロッパ各地を巡ったのち12月にチューリッヒ南隣のキルヒベルク(Kilchberg)に移り住む。この年レジオン・ドヌール将校十字章を受章。1953年、22年ぶりに故郷リューベックを訪れる。1954年、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録の第1部』を出版。

1955年3月、リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。
5月にはフリードリッヒ・シラー大学名誉博士号を贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった。
6月には80歳の誕生日を記念し東ドイツで全集が刊行。チューリヒで行なわれた祝賀会で全集が手渡され、フランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領、ロベール・シューマン外相、シュヴァイツァー、ピカソ、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、モーリアック、マルロー、カミュらが言葉を寄せた。
7月、オランダで病に倒れ、チューリッヒ州立病院へ送られる。
8月12日、心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。

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