桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第144回】

『ジギル博士とハイド氏』(ロバート・ルイス・スティーヴンソン)

開催日時 2017年11月25日(土) 14:00~17:00
会場 生涯学習センター 和室(中) 練馬区豊玉北6丁目8−8−1

開催。諸々コメント。

本書は解離性同一性障害(二重人格)をテーマにした小説として有名である。
作品の舞台はロンドン。
弁護士のガブリエル・ジョン・アターソンは、友人のヘンリー・ジギル博士から遺言状の保管を依頼されていた。その内容は「ジギル本人が死亡もしくは失踪した場合は友人で恩人であるエドワード・ハイド氏が全ての財産を相続する」というもの。アターソンは、ジギル博士がハイド氏に恐喝されていると疑っていた。
そんな時に聞いたのがハイド氏がぶつかった少女と家族に10ポンドの現金とジギル博士の署名がなされた90ポンドの小切手を渡したという話だった。

アターソンはジギル博士に会ってハイド氏との関係を問いただす。ジギル博士は「ハイド氏とは関係を完全に絶った」と言う。
しかしその後様々な事件が起こり、驚愕の結末へと展開するのだった。

作品の構成

『ジキル博士とハイド氏』(原題:『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』(The Strange Case of Dr.Jekyll and Mr.Hyde)は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの代表的な小説の1つ。
1885年に執筆され、翌1886年1月出版。通称は「ジキルとハイド」。
二重人格を題材にした代表的な小説である。そのため、解離性同一性障害の代名詞として「ジキルとハイド」が使われる事もある。
この作品では、ジキルが薬を飲むことによって性格、および容貌までも変化していることが特徴である。なお、ハイド(hyde)という名前は、隠れる(hide)に掛けたものである。
話の冒頭には従兄弟のキャサリン・デ・マットス(Katherine De Mattos、1851年-1939年)への献辞とヒースの茂る荒野について歌った4行の詩が掲げられている。
本文はアターソンの回想とジキルの告白からなる二部構成になっている(同様の作品には『緋色の研究』、『こゝろ』がある)。
スティーヴンソンは、最初に書いた原稿を妻に批判されたことからこれを焼き捨て、新たに3日で書き直したという。彼自身は、最初に書いてから出版まで10週間以内で終わったと語っている。
出版の一年後の1887年5月9日には、トーマス・ラッセル・サリヴァンと俳優のリチャード・マンスフィールド(英語版)の翻案による戯曲(Dr.Jekyll and Mr.Hyde)がボストン美術館の劇場で上演されており、マンスフィールド自身がジキルとハイドを演じている。

物語のあらすじ

舞台は19世紀のロンドン。弁護士のガブリエル・ジョン・アターソンと親戚のリチャード・エンフィールドは、習慣となっている日曜日の散歩をしていた。
繁華街の裏通りに入ると、エンフィールドが不気味な二階建ての建物を指して、数ヵ月前に遭遇した出来事について語り始める。
彼の話によると、不快な感情を呼び起こす醜悪なハイドという男が、ぶつかって転んだ少女を平然と踏みつけて立ち去ろうとする。
少女の家族らが詰め寄めよると、ハイドは「金額を言え」と言う。100ポンド支払うよう要求すると、ハイドはその建物に入り、10ポンドの現金と90ポンドの小切手を持って出てきた。
小切手に署名されていた名は彼の顧客であり友人でもあるヘンリー・ジキル博士だった。
アターソンはジキルから「ジキルが死亡もしくは失踪した際には友人で恩人のエドワード・ハイドが全ての財産を相続する」という内容の遺言状の保管を依頼されて困惑していた。
アターソンは「ハイドがジキルの財産を狙って恐喝しているのではないか」と危惧し、ハイドを捜し出す事を決めた。

例の建物はジキルの屋敷から続くジキルの実験室だった。
待ち伏せすることでアターソンはハイドに出会った。ハイドは青白い小柄な若者で、奇形めいた印象を抱かせ、不快感、嫌悪、恐怖という本能的な感情を引き起こさせた。
ハイドは「博士は留守」だと告げ、自分のソーホーの住所を教えた。

2週間後ジキルの屋敷で開かれた晩餐会が終わった後に、アターソンはジキルにハイドについて問い質すため1人残った。
50歳で大柄なジキルは、アターソンがハイドに会った事を告げると顔面蒼白になった。ジキルは「その気になればいつでもハイドを追い払う事ができる。心配するような事は無い」と告げた。

1年間が過ぎたある夜、あるメイドが窓から外を眺めていると、ハイドが老紳士をステッキで撲殺するのを目撃した。
被害者の男性はアターソンの依頼人でもあるダンヴァーズ・カルー卿であった。警察から連絡を受けたアターソンは、刑事をハイドの住居に案内した。
ハイドの住居に彼の姿はなかったが、凶器のステッキがドアの陰から発見された。それは真っ二つに折れていて、事件現場にあった残りの半分と一致した。
そのステッキはアターソンがジキルに贈ったものだった。アターソンが再びジキルを訪ねると、ジキルはハイドとの関係を完全に断ったと言い、引き起こしたトラブルについて謝罪して別れを告げるメモを見せた。
その夜、アターソンの主任書記はジキルとハイドの筆跡が類似性を持っていると指摘した。

ハイドは忽然と姿を消し、数か月の間はジキルは以前の親しみやすい社交的な態度に戻った。
しかし、ジキルは唐突に訪問者を拒み始めた。

ヘイスティー・ラニョン博士(ジキル、アターソンの知人)はジキルのある秘密を知り、ショックを受けてひと月足らずのうちに病死した。
ラニョンはアターソンに手紙を残したが、ジキルが死ぬか失踪するまで開いてはならないという遺言が添えられていた。
アターソンはエンフィールドとジキルの研究所を通りかかり、窓越しに3人で会話を交わしていたが、ジキルの顔を恐怖の表情が覆い、突然窓を閉めて姿を消す。

ある夜、アターソンをジキルの執事のプールが訪ねた。ジキルが書斎に閉じ篭ったままで、様子がおかしいと説明し、一緒に来てほしいと懇願した。
アターソンとプールはジキルの屋敷へ向った。
二人が屋敷に入ると、ホールには怯えた使用人が集まっていた。書斎の中からアターソンの呼び掛けに答える声はジキルではなく、足音も奇妙に軽くジキルとは思えない。プールは書斎にいるのはハイドで博士は殺されたと推測した。
二人はジキルの書斎に入ることを決めた。
アターソンに答えた声はハイドのものだった。プールが斧で扉を破壊し二人は書斎に入った。
中には自殺したハイドの遺体が横たわっていた。ハイドはジキルのものと思われるサイズの合わない服を着ており、ジキルの遺体は見付からなかった。
事務机の上にアターソンに宛てたの封筒が残されていた。中には相続人をアターソンとしたジキルの遺言状、アターソンに向けた謝罪と詳細を記したジキルの分厚い手記が入っていた。
アターソンはまずラニョンの手紙を読んでからジキルの手記を読み始める。
ラニョンの手紙には、「ジキルの手紙での依頼どおりに 研究所から持ち帰った薬品を自宅に置いていたところ、ハイドが来てその薬品を調合して飲み、ジキルに変身した。そのショックで病気になり、今や寿命が尽きそうだ。」と記されていた。
ジキルの手紙には、「表向きは善良な紳士である私の最悪の欠点は快楽への旺盛な欲望の二面性であり、これをひそかに満たすために、完全な二重生活を生きてきた。その後、科学的実験を重ねて善悪二要素の完全な分離の可能性を追求し、人格から悪の側面のみを切り離して別人格を出現させる薬品を発明。これを用いて私はハイドという別人に変身するようになった。」と記されていた。
以下、ジギルの手紙が綴られて物語が終わる。
最初はジキルを安全な場所に置いたまま、ハイドに変身して道徳から解放された自由を楽しんでいたが、やがて薬を飲まなくても眠っている間にハイドに変身することが多くなった。
恐ろしくなって、変身の習慣を断つ決心をしたものの、ある夜、誘惑に耐えられず、つい薬に手を出した。
カルー卿惨殺はこの時のハイドの仕業で、数か月もの間抑圧されていた「悪」の人格がエネルギーを爆発させてさせてしまったのだ。
戦慄した私はさらに断固たる決意で変身をやめ、暫く慈善事業に精を出すことにした。
それに成功したように思えていたが、1月の晴れた日の公園で、私はこんなにも善行に励んでいる。
自分はもはや罪深くないだろうと考えていたところ、突然の吐き気、悪寒、めまいに襲われてハイドに変身した。薬品によらない変化が覚醒時に起こったのは初めてだった。
公園は研究所から遠く、しかもハイドは殺人犯として警察に追われる身と来ては、薬で再びジキルに戻るためには友人のラニョンに頼るほかなかった。
ラニョン宅へ行って薬品によりジキルに戻ると、その過程を見守ったラニョンは大きな衝撃を受け、それが命取りになった。
家に戻ったものの、自然発生的な変身の頻度は増し、また元に戻るために必要な薬の量も増える一方で、今や無力感に囚われている。
以前エンフィールド、アターソンとの会話を突然中断し、窓を閉めて姿を消したのも、変身が始まろうとしていたからだった。
やがて薬品の調合のために使用していた特殊な材料の備蓄が不足し、新しく調達した材料で調合したものの、従来の化学変化が現れない。
最初に購入した材料に含まれていた不純物が重要な効果をもっていたものと推測し、それを探し回らせたものの、すべて失敗。
ハイドからジキルに戻る薬品はまさに尽きようとしており、この手記を書き終えた時には永久にハイドになってしまっているだろう。
ハイドが処刑されるか自殺するかは分からないが、それはもはや私とは無縁な人物に関わることで、手記の終わりが私の人生の終わりである。
私は、あの不幸なヘンリー・ジキルの人生にピリオドを打つとしよう。

作者

ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson、1850年11月13日生まれ 1894年12月3日没)
イギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイスト、弁護士。
父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者。
母マーガレット・バルフォア。
彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。
18歳の時、名前の間に入っていたバルフォアを外し、セカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更。以後、名前を略称するときはRLSと名乗る。生まれつき病弱で、若い頃から結核を病み、各地を転地療養しながら作品を創作した。
処女作は1874年に雑誌に発表したエッセイ『南欧に転地を命ぜられて』。
1877年にパリで後に妻となるファニー・オズボーンと出会う。オズボーンは既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚。翌年サンフランシスコでスティーヴンソンと結婚する。
この頃、スティーヴンソンは2篇の紀行文『内陸の旅人(内地の船旅)』(1878年)、『驢馬の旅(旅は驢馬をつれて)』(1879年)を出版。2人の子どもとオズボーンを連れてイギリスに帰り、精力的に創作に取り組んだ。
1881年にはエッセイ『ヴァージニバス・ピュエリスケ』を出版する。
1882年『新アラビア夜話』およびエッセイ『わが親しめる人と書物』を出版した。
同年、フランスに家を買ったが、父の病気が悪化したのでボーンマスに移り住んだ。
1883年には一躍彼の名を高からしめた『宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはもう一つの代表作『ジキル博士とハイド氏』を出版した。
1887年、父が死亡したのを機に妻子と共にアメリカへ移住するが検討の末、以前スクリブナーズ出版社の依頼で取材した南太平洋の島々の気候が自身の健康のために良いと考え、1890年に家族とともに南太平洋のサモア諸島中のウポル島に移住し、残りの生涯を同地ですごした。
彼は島人から「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での暮らしは健康に恵まれ、多くの作品を発表した。
1894年12月4日、スティーヴンソンは妻との会話中、ワインの栓を抜こうとしたときに脳溢血の発作を起こし、2時間後に死亡。倒れる直前まで口述していた小説『ハーミストンのウエア』が未完のまま遺稿となった。
スティーヴンソンの亡骸はバエア山の頂に葬られ、墓碑には彼の詩が刻まれた。
(wukipedhiaから引用)

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