桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第145回】

『崩れゆく絆』(アチェベ)

開催日時 2018年2月17日(土) 14:00~17:00
会場 向山庭園 和室(2) 練馬区向山3丁目1−21

時代背景

ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。
17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。
19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。
1884年、オイルリバーズ保護国(英語: Oil Rivers Protectorate)に。
1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。
19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護国(英語版)en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。
1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。
1901年王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領(英語版)と南部ナイジェリア保護領(英語版)の二つの保護領に再編成され、1914年に英領ナイジェリア植民地(英語版)(1914年 - 1954年)に統合された。

留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。
1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始。
1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。
独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。
しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。

この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。
1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺されて、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。
ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国を建国し独立を宣言した。
これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。

ナイジェリア

【1】民族構成
ナイジェリアはアフリカ最大級の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5~1/4がナイジェリアに居住する。
250以上の民族/部族が居住する。
北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。イジョ人10%、カヌリ人4%、イビビオ人3.5%、ティブ人 2.5%、他にEdo、Ebira、Nupe、Gwari、Jukun、Urhobo、イガラ人、Idoma、Kofyar、オゴニ、アンガス人らがいる。
民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。
これにより中規模民族の発言権が増大したが、3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。

【2】言語
ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。
議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。
初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。

【3】宗教
主に北部ではイスラム教、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている。
北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する。
北部のマイドゥグリは、イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」結成の地である。
独立後、キリスト教とイスラム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。
1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。
さらに、1987年のカドゥナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。
また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドゥナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。
2002年は25%以上がキリスト教であるカドゥナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた。
2010年3月にはベロムでイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。
2010年7月にかけての数ヶ月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある。

【4】文学
ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である。
文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったイボ人オラウダ・イクイアーノが英語で書いた『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(1789)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている。
『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。
現代の代表的な作家としては、40カ国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958)のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。
その他、ケン・サロ=ウィワ、フェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。
(出典:wikipediaから引用)

作者

チヌア・アチェベ Chinua Achebe(1930年11月16日 - 2013年3月21日)
ナイジェリア出身のイボ人の小説家。アフリカに多い口承文学を題材にした小説を描く。
1976年以降のアナンブラ州にあたる地域の町オギディで生まれた。当時ロンドン大学のカレッジであった現在のイバダン大学で、英語と、歴史、神学を学ぶ。BBCで放送について学んだ後、1961年にナイジェリア放送の最初の海外放送部ディレクターになる。
ビアフラ戦争時にはビアフラ共和国の大使を務めた。この時の経験から「難民の母と子」と題した詩を書いた。
アチェベは英語でのアフリカ文学の父と考えられている作家であり、世界的に賞賛される作家の一人。
1958年に発表した『崩れゆく絆』は世界で一千万部以上売れ、50以上の言語に訳され、ノルウェー、イギリス、米国、アフリカなどで小説100選の1つに選ばれた。

アチェベは「あるアフリカのイメージ コンラッドの『闇の奥』にみる人種差別」と題した批評を発表し、世界的な議論を呼び、この文章がディベートの題材として用いられるようになった。
アチェベはジョゼフ・コンラッドの帝国主義を描いた有名な小説がアフリカの背景や人物を歪めて非人間化し、人種差別的な文脈や語彙を潜ませていると断じた。彼は『闇の奥』の再評価についての議論で、非人間化された人々を偉大な地位に就けるべきでないとする前提で書かれたこの植民地主義の文章に与えられてきた神聖な地位を拒絶した。

ダートマス大学 (1972年)、ハーバード大学 (1996年)、ブラウン大学 (1998年)、サウサンプトン大学、ゲルフ大学、ケープタウン大学 (2002年)、イフェ大学などの30以上の名誉学位を得た。
またロータス賞(1975年)、ドイツ出版協会平和賞(2002年)、ブッカー国際賞(2007年)、英連邦詩人賞などの数々の賞を受賞した。
2013年3月21日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの病院で死去。82歳没。

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