桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第154回】

『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ)

開催日時 2019年5月18日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬 第二和室  西武池袋線・中村橋駅 徒歩3分

物語のあらすじ

四月、田舎家に住む悦子の元に、次女のニキが訪ねてきた。「ニキ」という名は悦子と夫の妥協によって生まれた、東洋の響きを持つ英国名だった。
ニキは長女・景子の死の後、母親を慰めるため、というよりも一つの使命感に駆られるようにしてわざわざロンドンからやってきた。五日間の滞在期間中、悦子の家で落ち着いた様子もなく、レコードを聴いたり時々電話をしたりして過ごしていた。
二日目の夜、悦子はイギリスに来る前に日本で付き合いのあった女性のことを思い出す。長崎で出会った佐知子は独特な雰囲気を持つ女で噂が絶えなかった。空き地の外れの川岸にポツンと建った家に娘の万里子と暮らしていた。
***
妊娠三ヶ月か四ヶ月の頃のある日、悦子は佐知子の家に招かれる。何か下心があるのかと思ったら、知り合いのうどん屋で働かせてほしいという。悦子は承諾する。佐知子の家に初めて上がった悦子は、家の風景と食器の質の違和感に気づく。そして佐知子は万里子のことについて何か隠しているようだった。万里子は家に、万里子を迎えにくる女がいると言う。悦子がそのことについて佐知子に尋ねると、佐知子は答えようとしなかった。
悦子が紹介した店で、佐知子は働き始めた。佐知子は万里子の世話をしながら仕事をしているようだった。一抹の不安を覚えて悦子が様子を見に行くと、店主の藤原は万里子の扱いに手を焼いているようだった。「うどん屋で働くのは楽しい」と佐知子は言うが、万里子は馴染んでいない様子。万里子が再び家に自分を迎えにくる女のことを話し始めると、佐知子は急いで店の奥へと連れて行った。
義父の緒方が悦子・二郎夫婦の元に泊まりにきた。悦子と義父は長い付き合いだった。滞在中、義父は松田重夫の話を持ち出した。松田は雑誌に緒方や遠藤博士など、過去の教育者たちを批判する内容の文章を書いたようだった。二郎がいなくなってから、緒方は遠藤博士に会いに行くと出かけて行く。そして「松田の謝罪がなければ二郎と松田を絶交させる」と言った。
緒方と二郎が自宅にいる中、佐知子が「万里子を探している」と言って訪ねてくる。悦子は心配して一緒に探しに行くが、佐知子はなんとも思っていない様子だった。そして佐知子は「二、三日の間にアメリカに行く」と唐突に語り出そうとする。まずは万里子を探し出すのが先だと悦子は思い、佐知子の話にあまり構おうとしない。アパートの周りや佐知子の自宅を探しても万里子は見つからない。二人は林の方に向かっていった。
万里子は林の中で見つかった。軽い怪我をしており、悦子は心配するが佐知子はあまり気にしていない様子だった。そしてアメリカに行くと言う話を続ける。「万里子さんは大丈夫なのか?」と悦子が問うと、佐知子は万里子のためにもアメリカに行くべきだと考えているようだった。 ***
ニキの滞在期間中に、こうして佐知子のことを思い出した悦子は、このことが何か意味があるかのように感じられた。そして数日の間、不思議な夢も見た。これらは決して偶然などではないと悦子に思わせる何かがあった。
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結局、佐知子はアメリカに行けなかった。彼女を迎えに行くと言っていたフランクという男性が来なかったためだ。佐知子は悦子に「フランクのことについて聞かないのか」と訊ねたが、悦子はあまり深く訊ねようとしない。そして佐知子は万里子が「見た」と言っている女について話し始めた。その女は万里子が東京で見たものだった。
アメリカに行くためにうどん屋を辞めた佐知子は、悦子にお金を貸して欲しいと言う。悦子はタンスの中にしまってあった封筒を差し出したが、佐知子は中身を改めもせずに持って帰ってしまった。夜には悦子に万里子の世話をさせることを約束して。
悦子は佐知子が働いていたうどん屋の藤原と話していた。藤原は息子の和夫の話になると顔を曇らせることが多かった。藤原は悦子に食事を勧めるが、それを一旦断った悦子に「あなたの人生はこれから。何をそんなに苦にしているのか」と訊ねた。
佐知子が留守の間、万里子の世話をしに悦子は行った。万里子は壁の蜘蛛が気になっているようだ。「放っておけ」と悦子が言っても聞かない。そして万里子はまたあの女の話をした。「フランクはいい人ではない」とも話した。そして東京で飼っていた猫についても話し、突然、蜘蛛を捕まえて口に入れようとした。しかし万里子は口に入れる寸前に両手を放し、蜘蛛を逃した。悦子は驚きから覚めたら万里子はいなくなっていた。
驚きから覚めた悦子は万里子を探しに行った。万里子は草の中にいた。そして万里子は家に帰って行った。帰宅していた佐知子は万里子を叱った。すると万里子はフランクを罵った。そのまま万里子は家から出て行ってしまった。佐知子は追いかけようともせず、フランクとこれからについて語り始めた。悦子が万里子を探しに行こうと言っても「すぐに戻ってくるだろう」と言うばかりだった。
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ニキが来て五日目、悦子は早朝に目が覚めて景子の部屋を見に行った。その朝、食事の時にニキは彼女の友達で悦子のことについて詩を書いている人がいると言った。ニキも悦子の夫も、悦子が長崎で経験したことや前の夫・二郎のことについて全く理解していないと感じていた。そして悦子はニキと景子の性格がそっくりだと感じていた。悦子は夢に見る女の子について思い当たる節を新聞に掲載された父親の論説を読み続けているニキに語り出した。
佐知子は伯父の家に行くことになったと言った。けれどもなかなか引っ越す気配がない。悦子は佐知子の伯父の家にいる、佐知子と歳の近いであろう従姉が原因だと思っていたが、そうではないと彼女は言った。
悦子と佐知子と万里子は、佐知子親子が引っ越す前に稲佐に遊びに行くことにした。そこでケーブルカーに乗り、風景を楽しんだ。アメリカ人の婦人と日本人の親子と出会い、時々会話をしながら稲佐の風景を楽しんだ。夜には長崎の市街に戻り、3人で歩いて回った。くじ引きの屋台を見つけ、万里子が「やりたい」と言ったのでやらせてやることにした。万里子は3回くじを引き、最後の1回で一等賞の野菜入れを当てた。しかし帰りの市電の中で、三十くらいの女が万里子を見ていることに気づいたが、佐知子は「人違いだった」と言った。
緒方の滞在は悦子の想像以上に長かった。二郎は仕事で忙しく、時々二人で将棋を指す程度。ある日、翌日に大切な仕事を控えている二郎と言い合いになり、緒方は翌朝まで二郎と顔を合わせないようにしていた。二郎が家を出てから起き出した緒方は、悦子を誘って長崎見物に出かける。原爆祈念碑に行き、その足で松田のところに行こうと言った。

松田の家に二人が到着すると、松田は現れた。彼はちょうどこれから仕事に戻るところだった。緒方は松田の雑誌の記事について追求する。松田は緒方の考え方を肯定しながらも、自分の思想は間違っていないと主張した。そして急いで仕事へと向かっていった。松田の家を後にし、二人は藤原さんのうどん屋へ行った。「世の中の何もかもが変わった」と藤原さんは言った。そして夜は大きな仕事を終えた二郎が、昨日の言い合いを忘れ、緒方と酒を酌み交わした。
佐知子たちと稲佐で遊んだ1、2日後、悦子は佐知子の家に一人の女が入って行くのを見た。気になって佐知子の家を訪ねると、女は万里子と話していた。女は七十前後に見えた。そして、佐知子の従姉であると名乗り、「自分たちの家に戻ってきて欲しいと伝えてくれ」と悦子に言った。万里子は佐知子の従姉の家に行きたそうだった。
その夜、悦子がもう一度、佐知子の家に行くと、佐知子は荷造りをしていた。今度こそアメリカに行く手はずが整ったと言う。「万里子のためにもアメリカに行くのはいいことだ」と言うが、万里子は嫌がった。悦子はこの親子をただ見ていることしかできなかった。
***
ニキの滞在五日目、ニキは突然ロンドンに帰ることになった。悦子は少し時間があったため、荷物をまとめ終わったニキとともに散歩にでかけた。そして昼食後、ニキはロンドンに帰っていった。悦子はにっこり笑って娘を見送った。

作者紹介

カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro, 漢字表記:石黒 一雄、1954年11月8日 - )
長崎県長崎市生まれ。
1960年 5歳の時に海洋学者の父親が北海で油田調査をすることになり、一家でサリー州・ギルドフォードに移住、現地の小学校・グラマースクールに通う。卒業後にギャップ・イヤーを取り、北米を旅行したりデモテープを制作しレコード会社に送っていた。
1978年 ケント大学英文学科
1980年 イースト・アングリア大学大学院創作学科を卒業。当初はミュージシャンを目指すも、その後文学者に進路を転じた。
1982年 イギリスに帰化。 1986年 イギリス人ローナ・アン・マクドゥーガルと結婚。 1982年 英国に在住する長崎女性の回想を描いた処女作『女たちの遠い夏』(日本語版はのち『遠い山なみの光』と改題、原題:A Pale View of Hills) で王立文学協会賞を受賞し、9か国語に翻訳される。
1986年 戦前の思想を持ち続けた日本人を描いた第2作『浮世の画家』(原題:An Artist of the Floating World) でウィットブレッド賞を受賞する。
1989年 英国貴族邸の執事を描いた第3作『日の名残り』でブッカー賞を受賞。この作品は1993年に英米合作のもと、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演で映画化された。
1995年 第4作『充たされざる者』(原題: The Unconsoled) を出版。 2000年 戦前の上海租界を描いた第5作『わたしたちが孤児だったころ』(原題:When We Were Orphans) を出版、発売と同時にベストセラーとなった。
2005年 『わたしを離さないで』を出版する。2005年のブッカー賞の最終候補に選ばれる。この作品も後に映画化されている。同年公開の英中合作映画『上海の伯爵夫人』の脚本を担当した。

1995年に大英帝国勲章(オフィサー)、1998年にフランス芸術文化勲章を受章している。2008年には『タイムズ』紙上で、「1945年以降の英文学で最も重要な50人の作家」の一人に選ばれた。自身に対する高い評価について、移民の流入によりイギリス社会が大きく変動している中で、マイノリティーに属しながら伝統的な英文学の素養を基にする作品が多民族主義への回答となり得ると思われたためであろうと述べている。現代作家で最も注目している一人として村上春樹を挙げている。
両親は日本人、本人も成人まで日本国籍だったが、幼年期に渡英し日本語はほとんど話せない。最初の2作は日本が舞台だが、日本の小説との類似性はほとんどないという。谷崎潤一郎など多少の影響を受けた日本人作家はいるが、むしろ小津安二郎や成瀬巳喜男などの日本映画に強く影響されていると語った。
1989年に国際交流基金の短期滞在プログラムで再来日し、大江健三郎と対談した際、最初の2作で描いた日本は想像の産物であったと語り、「私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた」と述べた。

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