桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第153回】

『郷愁』(ヘルマン・ヘッセ)

開催日時 2019年2月24日(日) 14:00~17:00
会場 向山庭園 茶室  練馬区向山3丁目1−21

『郷愁』の概要

自然豊かな高地に生まれたペーター・カーメンチントの半生が描かれた物語。
彼は自然を愛し、山や、湖、木、その枝から、そして、風、雲から多くのことを学び、人間を愛した男でした。
田舎の小村ニミコン村で育ったペーター。彼は自然と戯れることで感性を磨いていきます。彼はその文才を認められ神父のもとで勉強を始め、そして学校に通います。彼はそこで友を求めますが得られず孤独な日々を送ります。一方で文学に興味を持ち、詩作に耽ります。しかし自分の詩の未熟さに気づきすべての詩を焼いてしまいます。
彼はレージー・ギルタナーという弁護士の娘に恋をします。彼女はとても美しく自分に不釣り合いであると考え彼女に声をかけることさえできません。彼は誰も取れないであろう絶壁に咲いたシャクナゲの花を彼女に気づかれないようにそっとプレゼントするので精一杯でした。ペーターの人生にとって彼女は最も美しい女性になります。
その後ペーターは母の死の際に直面し、その人間というものの生命の一環につよい衝撃を受けます。その崇高さに自分の魂が透き通るほどの感動を受けます。彼の詩人としての天賦の才の現れです。
その後チューリッヒの大学に進み、彼に多大な影響を与える友人リヒャルトという音楽家の卵と出会います。読書の中で聖者の中で最も祝福されたアシジの聖フランシスを知ります。
ペーターはリヒャルトの友人の画家エルミニア・アリエッティと出会い恋をしますがそれは失恋でした。その後リヒャルトと北イタリアへ旅行に行き幸福な時間を過ごします。この世で最も尊いものは男同士の友情だとペーターは確信します。しかしリヒャルトはその後まもなく川で溺死。彼は友情と女性の愛と青春を信じてきたがことごとく見捨てられるのです。
彼は自殺を決意しますがそのとき母の臨終の際を思い出します。そしてその崇高さを思い出し自ら命を絶つことの愚かさと、悩みや失望や憂愁は私たちを成熟させ光明で満たすためにあることに気づきます。
ペーターはバーゼルという見知らぬ土地に移り住みます。彼はそこでエリーザベトという美しい少女と出会います。彼は人間よりも自然を愛しましたがそれを語るのは人間でありたかった。その矛盾を抱え、彼は人間を愛してみようと思い始めます。そして自分がエリーザベトを愛していることに気づきます。しかし時遅く彼女は婚約していました。失意のうちに彼は故郷に帰るのです。
故郷で父と再会し共に生活するうちに愛することの難しさを学びます。そして彼はアジジに行くことを決意します。
アジジではアヌンチアタ・ナルディニという未亡人と出会います。ナルディニはペーターに恋しますが彼はエリーザベトとの失恋の傷が癒えていませんでした。
彼は様々な人との出会いから人間には不動の限界などないということを学びます。むしろ貧しき人々の方がより暖かく、真実で模範的な生き方をしていることを知るに至ります。
ペーターは作家として本格的に活動を開始します。彼は本を整理するためにさしもの師のところに行き、彼と親しくなります。彼には5歳になるアギーという病気の娘がいました。ペーターは彼女に美しい草原や森の話を聞かせてあげたりしました。しかしついにアギーが神に召されるときがきます。そしてアギーがその小さい体で力強い死と戦う姿に感銘を受けるのです。
その後さしもの師の家に奥さんの弟ボピーという体の半分きかない男が住むことになります。母親が亡くなって引き取り手がなく、さしもの師の家に厄介になることになったのです。ペーターとさしもの師の家族はボピーを厄介者扱いします。そのときペーターは自分の罪に気づき、ボピーからとても大きなことを学びました。ペーターはこの時期を終生の中で最も実りある時期だったと後に振り返ります。彼はボピーをさしもの師から引き取ることにします。
ペーターはボピーに自分の愛を注ぎます。しかしボピーの体は徐々に蝕まれ死が訪れます。彼の愛と苦悩に捧げた生涯はまたペーターの心を揺り動かします。死の間際ボピーは言います。「牧師の言うような天国はありゃしないよ。天国はもっとずっと美しい、ずっと美しい」と。
最後、ペーターは故郷に帰って来ます。自分はニミコンの田舎者で決して都会の世渡り上手にはなれないのだということを悟るのです。そしてそれでよかったのだと思い、そういう自分に対して喜びさえ持ちます。そして彼は未完成の創作を書き続けますが、それが完成したとしてもレジー・ギルタナーからボピーに至るまでの懐かしい全ての人々の姿を含めて、彼の生涯の過ぎ去りし消え失せることのないものを償うことはできないと述懐するのです。

作者紹介

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse 1877年7月2日~1962年8月9日)
1877年7月2日、ヨハネス・ヘッセとマリー・グンデルトの2番目の子として南ドイツのシュヴァルツヴァルト地方のカルフで生まれた。
子供時代は感受性が強く両親が手を焼くほどの腕白。両親が聖職者で伝道活動をしていた影響で小学校を卒業後に神学校へ入学するためにラテン語学校へ通う。
1891年マウルブロンの神学校に進学。校風に馴染めず数ヶ月で脱走。両親や故郷の人々の期待の重さに耐えきれず精神的に不安定になり自殺未遂を起こす。神学校を退学し、17歳で時計工場や書店の見習いとして働き始めながら雑誌に詩を発表。
1899年スイスのバーゼルに移り住み、その後イタリアを旅行。
1904年初めての著作「ペーター カーメンツィント(郷愁)」を発表。マリア・ベルヌリと結婚。ボーデン湖のほとりガイエンホーフェンの農家に移り、庭仕事や畑仕事をしながら暮しはじめる。
1905年神学校時代の自分の体験を元にした「車輪の下」を出版。
1911年アジアへ旅行。母がインドで生まれであり以前から東洋に対する興味があったが、彼の見た東洋は欧米諸国によって植民地化されていた。この旅はヘッセにとって人種、民族、文化の多様性の価値を認識し、肯定できるきっかけになったといわれている。
1912年からスイスのベルンに移住。
1914年第一次世界大戦勃発にともないドイツの兵役を志願するが、強度の近視のため免除。ドイツ人捕虜の見舞いや救援活動を行う。その後ドイツ軍事行動に疑問を感じたヘッセはドイツ批判を開始。
ドイツ国内でのヘッセへの風当たりが強くなり、大戦後はドイツでの作家活動を制限させられてしまう。
妻マリアや三男の病気が理由でスイスのテッシン州モンタニョーラで一人で暮らし始める。後に離婚。
1924年にはルート・ヴェンガー と再婚。
ヘッセの代表作品「荒野の狼」が50歳の時に発表される。二度目の離婚。
1931年、ニノン・ドルビンとの三度目の結婚。ニノンは20年ほど前(当時15歳)ヘッセ宛にファンレターを送ったことがあり、それ以来親交が続きヘッセの良き理解者であった。
1939年第二次世界大戦勃発。ヘッセはドイツ・ナチスの支配から逃れてくる人々を援助したり、亡命によって作品の発表が困難になった作家へ手を救済する。「ガラス玉遊戯」はドイツで出版禁止となるがスイスで出版された。
1946年フランクフルト市のゲーテ賞、ノーベル文学賞を受賞。病気のため授賞式には欠席。
1962年8月9日モンタニョーラで死去。享年85歳。

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