桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第18回】

『樅の木は残った』(山本周五郎)

開催日時 2006年9月30日(土)14:00~17:00
会場 練馬区貫井地区区民館  東京都練馬区貫井1-9-1 ※西武池袋線・中村橋駅から徒歩5分

開催。諸々コメント。

舞台は1600年代後半の仙台藩(伊達家)。世に言われる伊達騒動の渦中の人物であった原田甲斐が主人公です。
第3代藩主の伊達綱宗が放蕩をやめずに若干21歳で隠居を命じられ、そのあとを2歳の亀千代(後の伊達綱村)が継いだことから伊達藩内に騒動の火種がくすぶり始めます。
果たして伊達綱宗の放蕩は隠居に相当する出来事だったのか、それともそこに何か別の思惑が蠢いているのか...。冒頭から山本周五郎の絶妙の筆運びが光ります。
従来の伊達騒動と原田甲斐の人物評価を180度覆した新解釈でも有名になったこの作品は、何が真実で何が嘘なのか、何が正義で何が悪なのか真摯に考えさせられます。
誰に認められることがなくとも、ましてや後世の歴史から極悪人の烙印が押されようとも、自らが信じる正義を貫く原田甲斐の生き様に、山本周五郎は「樅の木」の姿かたちを重ね合わせたのでしょうか。
登場する人物の栄枯盛衰の様にも何とも言えない悲哀があります。

私は学生時代に先輩の紹介でこの本と出会いました。以来30年近く、折りに触れこの作品のタイトルを紹介することはありましたが、満を持して桂冠塾で取り上げたいと思います。多くのことを気づかせてくれる一書です。
※新潮文庫で発売された当初は上下(全2巻)で構成されていたが、最近出版されている文庫では上中下(全3巻)になっているものもありますのでご注意下さい。

時代背景(1)江戸時代初期の状況

江戸幕府における武断政治から文治政治への転換期
武断政治(ぶたんせいじ)とは武力を背景にして行われる専制的な政治。
江戸幕府初期、徳川家康から徳川家光までが行った政治のやり方を指す。家光の時代には取り潰される藩も多く、浪人が増大し社会問題化した。由井正雪の乱を機に4代将軍徳川家綱が、文治政治への転換をすすめた。

お家騒動
藩内を挙げての大規模なお家騒動は家中制度の未熟な江戸時代前期に多く見られる。お家騒動は、藩主の兄弟などの家門や姻戚筋、家老等を筆頭とした家臣団が派閥抗争を繰り広げるものである。
抗争の内容としては、対立する党派が次期藩主の擁立をめぐって対立するケースや、藩主が有力な家臣を排除し自身の権力を強化しようとするケース、逆に無能な藩主を家臣が引退させようとするケース、藩主と家臣の不和により最後は家臣が出奔するケースなどが挙げられる。
元禄時代(1688年 - 1704年)以前にみられる騒動では、騒動の裁定に際し幕府が大きく関与し、関係者の処罰、主君の廃立、藩の改易などの処置となることもあった。
《1700年頃までの主なお家騒動》
1608年(慶長13):筒井騒動(筒井氏 伊賀上野藩)
1614年(慶長19):大久保長安事件(大久保氏 小田原藩)
1617年(元和3):最上騒動(最上氏 山形藩)
1626年(寛永3):柳川一件(宗氏 対馬藩)
1633年(寛永10):黒田騒動(黒田氏 福岡藩)
1634年(寛永11):船橋騒動(津軽氏 弘前藩)
1635年(寛永12):津和野騒動(塩治騒動 亀井氏 津和野藩)
1639年(寛永16):会津騒動(加藤氏 会津藩)
1640年(寛永17):生駒騒動(生駒氏 高松藩)
1640年(寛永17):お下の乱(相良氏 人吉藩)
1640年(寛永17):池田騒動(池田氏 山崎藩)
1648年(慶安1):丹波福知山騒動(稲葉氏 福知山藩)
1648年(慶安1):古田騒動(古田氏 浜田藩)
1660年(万治3):伊達騒動(綱宗隠居事件 伊達氏 仙台藩)
1665年(寛文5):伊達騒動(寛文事件 伊達氏 仙台藩)
1679年(延宝7):越後騒動(高田騒動 松平氏 高田藩)
1697年(元禄10):伊達騒動(綱村隠居事件 伊達氏 仙台藩)

時代背景(2)伊達騒動(だてそうどう)

江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動。加賀騒動、黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
伊達騒動は三期に分類される。
本作品は第二期の寛文事件を舞台に描かれている。

第一期:綱宗隠居事件
仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であった為、叔父にあたる伊達宗勝(兵部)がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩主池田光政、柳川藩主立花忠茂、宮津藩主京極高国と相談の上、老中・酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。
綱宗の放蕩は止まず、1660年(万治3年)7月9日に家臣と親族大名の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主に僅か2歳の伊達綱村が就任した。

第二期:寛文事件
綱村が藩主になると、大叔父にあたる伊達兵部宗勝が後見として実権を掌握。伊達兵部は家老の原田甲斐宗輔らと藩権力の集権化を行い、地方知行制を維持しようとする伊達氏一門と対立する。一門の伊達安芸宗重と伊達式部宗倫の所領紛争が起こると伊達安芸は幕府に上訴する。
1671年(寛文11年)3月27日、騒動の裁判を行うため大老の酒井忠清邸に原田甲斐や伊達安芸ら関係者が召喚される。原田甲斐はその場で伊達安芸に斬りかかって殺害する。だが、原田甲斐も安芸派の柴田外記朝意と斬りあいになった。原田甲斐は柴田外記によって斬られ、柴田外記もその日のうちに原田甲斐からの傷が元で死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では原田家や兵部派が処罰されるが、伊達家は守られる事となった。

第三期:綱村隠居事件
寛文事件が落着し、藩主としての権力を強めようとした綱村は次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は、綱村に諌言書を提出したが聞き入れられなかった。このため1697年(元禄10年)一門7名と奉行5名の計12名の連名で幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し伊達家親族の高田藩主稲葉正通は隠居願いを差し止めた。
その後も再三にわたり一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。1703年(元禄16年)この内紛が5代将軍・徳川綱吉の耳に達し仙台藩改易が危惧されるようになった。このため老中の稲葉正通は綱村に隠居を勧告。綱村は幕府に対し隠居願いを提出し、綱村には実子が無かったため従兄弟の伊達吉村が5代藩主となった。一連の騒動もこれで漸く終止符を打った。

主な登場人物

伊達安芸派と言われた人達
・伊達安芸宗重(一門)涌谷
・柴田外記意朝(国老)米谷
・古内志摩重如(国老)
・茂庭周防良元(江戸家老)松山
・片倉小十郎景長(奉行)
・里見十左衛門重勝(伊達家家臣)
・伊東七十郎重孝
伊達兵部派と言われた人達
・伊達兵部少輔宗勝(一門大名、後見役)一ノ関
・伊達東市正宗興(兵部の長子)
・奥山大学常辰(国家老)吉岡
・原田甲斐宗輔(国老)船岡
・津田玄蕃景康(評定)
・今村善太夫安長
・渡辺金兵衛義俊
幕府関係者
・久世大和守広之(将軍お側衆)当代十善人
・酒井雅楽頭忠清(老中)
・伊豆守信綱(老中)豆州
伊達家・その他
・伊達陸奥守綱宗(三代藩主)
・宮本新八 上意討ちされた宮本又市の弟
・柿崎六郎兵衛 浪人。みやの兄。
・柿崎みや(滝尾)六郎兵衛の妹
原田甲斐の関係者
・宇乃 
・津多(慶月院) 甲斐の母
・律 甲斐の妻。茂庭周防の妹。
・中黒達弥(黒田玄四郎) 甲斐の家臣
・雁屋信助
・くみ 信助の妹。湯島の別宅に住む

作者

山本周五郎(1903~1967)本名:清水三十六(さとむ)
日本の大衆文学の第一人者。当時、一段低く見られていた大衆文学を開花させ純文学との垣根を取り払った功績は大きい。
学歴なき作家の代表格でもあり、各種の文学賞をことごとく辞退した無冠の作家。
代表作に『樅の木は残った』『長い坂』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『さぶ』など多数。

もっとも真実に近いもの

歴史上の出来事や人物を小説化する場合に、私が困難を感ずるのは『史的事実』のなかでどこまで普遍的な『真実』をつかみうるか、という点である
これは山本周五郎氏が本書を執筆するにあって東北に取材旅行した様子を記した『雨のみちのく』の一文である。
そして伊達騒動について「私はこの事件の『史的事実』を歪めたり、牽強付会したりすることをできる限り避け、そのなかでもっとも真実に近いものをつかむつもりである」と続けている。

伊達騒動 三つの疑問

時代背景は江戸開幕から60年余りの仙台伊達藩。
徳川家は第三代家光から四代家綱へと変わる時代であり、武断政治から文治政治への転換期。お家騒動と呼ばれる事件の大半はこの時期までに起きている。こうした時代状況がどの程度仙台藩に影響したのか。
伊達騒動の真実は何か。
別の言い方をすれば周五郎はなぜこの本を書こうと思ったのか。

周五郎はこの問いに対する答えに通じる内容を作中の人物に語らせている。
第4部の最終「冬の章」で玄察は宇乃に語る。
「私はこれら(寛文事件)の始終を、幾十たびとなく考え合わせてみた」
「三月の出来事についての公表はしんじつではない、少なくとも、三つの点に大きな疑問がある」として

(1)評定の場所が板倉邸から酒井邸ににわかに変更されたこと
(2)刃傷の場に酒井家家臣が5名いて騒ぎを鎮めるためとして4人(原田甲斐等)を斬ったこと
(3)伊達安芸ほか4名を死体になるまで邸内に留め置いたこと

ことを挙げている。
そして2度か3度目の審問で原田甲斐から「申し述べたいことがある」と申し出たにも関わらず、その直後突然乱心して伊達安芸と柴田外記に斬りかかったという。
その理由は何か?
「いま原田どのを逆臣と呼んでいる者でさえ、その動機を指摘することはできないのです」と語らせた周五郎の真意は明らかだろう。

伊達騒動の真実とは

斬りつけられてから絶命するまでのわずかな時間。
周五郎は最後の時間に原田甲斐のすべてを託した。
事実を積み重ねていくと酒井忠清の謀略は破綻したとみるべきであろう。
酒井忠清の家臣が4人を斬殺した可能性が濃厚。
しかしここで周五郎は原田甲斐はただ単に殺されたのではなく、酒井忠清の手によるのではないと酒井忠清の疑惑を否定しようとしたと描く。
この小説の最大の見せ場である。
わが身の汚名を莞爾として受入れ、その見返りとして仙台藩への手出しを断念させる思惑をはっきりと描き出した。 周五郎がこの作品を発表するまで「悪人・原田甲斐」の歴史評価は固まっていたが、多くの不明な点が残されていた。
その最大のものは事件の動機と原田甲斐の行動だ。
周五郎が描くストーリーが、今までの仮説の中でもっとも無理がないと私も感じている。

原田甲斐を信じる人たち

原田甲斐は孤立していくように見えながらも、常に彼を信じる同志たちに支えられている。
宇乃もそうだが、早くに死んだ茂庭周防もその一人だ。「原田甲斐は伊達兵部についた」と吹聴しながらも、信じるに足ると思った忠臣の士には「原田を信じろ」と言い残す。里見十左衛門、そして我が子・茂庭主水は最後の最後でその言葉の意味を知る。
最後に死を共にした伊達安芸とあわせて、彼らがいて原田甲斐もその生き様を貫くことができたといえるだろう。

物語の副旋律

伊達騒動での伊達兵部の陰謀と原田甲斐の生き様が主旋律とすれば、その合間や折々に様々な音色のメロディが織り込まれている。
丹三郎の人生、伊藤七十郎の生き様、里見十左衛門の老後、一時の感情で大きな陰謀の中で踊らされる人の浅はかさ、新八とおみやの愛憎劇と芸人へ進む様...。
これらは物語に厚みを持たせ、かつ現実の人生の不確かさを痛感させられる。柿崎六兵衛の帰し方は多くの現在人にも当てはまるだろう。
そして最も美しい物語の副旋律は、甲斐と宇乃との次第に通い合っていく心の情景だ。
これは多くを語らず、実際に読んでほしい。

原田甲斐が選んだ道

仙台藩を守るために死んでいった原田甲斐。その生き様を周五郎は一本の樅の木に見た。
なぜ告発をしなかったのだと問う里見十左衛門に「どこの誰へ告発したらいいのだ」と問い返す原田甲斐。そして耐え忍び、耐え抜くことを選んだ。
人は時代や生きた環境に大きく左右されるとはいえ、藩の安泰のために少なからずの人達の生命が失われていったという事実をどのように受け止めるべきか。
私はこの点に強く疑問を感じた。
確かに、山本周五郎の描いた原田甲斐の生き様は潔い。信念に生きる人間の強さを感じる。
しかし原田甲斐が生きた「藩のため」という目的は正しい選択だったのか。
徳川家絶対支配の時代。他に道はなかった、のだろう。しかし本当に他の道はなかったのだろうかという思いがどうしても残る。
人生を何のために生きるのか。
原田甲斐の生き様に出口のない悲哀を感じるのは、そのもどかしさのゆえかもしれない。

それでも考え続ける

権力の魔性はとてつもなく強大で、人の生命を飲み込んでいく。それでも、苦悩に満ちていても一人の真摯な行動によって必ず打開されることを信じたい。
では真摯な行動によって開かれる具体的なその道とは何だったのか。
正直に言って、何度読み返して思索しても出てこない。でもきっと何かあったはずだという気持ちはぬぐい切れない。
私たちも人生の途上にあって同じような場面に直面することがあるのだろう。
だからこそ、これからも考え続けていきたいと思う。
これが周五郎が原田甲斐の生き様に託して私達に突きつけた「真の命題」だったとも思うのである。

話題に出たテーマ等々。

・当時の時代背景
・原田甲斐の生き様
・山本周五郎の視点
・伊達騒動の真実とは
・身につまされる伊藤七十郎の生き方
・新八とおみやの選んだ人生 ほか

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