桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第20回】

『車輪の下』(ヘルマン・ヘッセ)

開催日時 2006年11月25日(土)14:00~17:00
会場 練馬区貫井地区区民館  東京都練馬区貫井1-9-1 ※西武池袋線・中村橋駅から徒歩5分

開催。諸々コメント。

作者のヘルマン・ヘッセはドイツ生まれのノーベル賞作家で本作品は彼の自伝的要素が強い小説と言われています。
主人公はハンス少年。純朴に育ったハンスはまじめで傷つきやすい少年時代をおくっています。
自己主張よりもまわりの期待に応えようとするハンスは、時代や地域を超えて10代の青少年の典型のひとつといえるでしょう。
未来を嘱望されたハンスはみごとな成績で神学校に入学を果たします。しかし彼の優等生的な生き方は、入学した直後から様々な周囲の環境に左右されながら次第にバランスを崩していきます。
そしてある時、ぷっつりと心の糸が切れてしまったハンスはまわりの自分への評価が変化していく中でもがきながら退学を余儀なくされます。
そして生まれ故郷に戻ったハンスの辿った人生は...。
自身の確固たる信念を見出せないまま、まわりの期待に応えようともがくハンス少年に自分自身の10代の頃を思い起こす人も少なくないのではないでしょうか。
ヘッセは主人公ハンスに何を見出そうとしたのでしょうか。

当日の様子など

当日は7名で開催しました。
この作品の説明にはヘッセの自叙伝的作品と書かれていますが、ヘッセにとっては未来に踏み出すための過去の経験を見つめ直すという意味合いが強いように感じます。
ヘッセの経験は2人の少年、一人は主人公のハンス、もう一人はハイルナーに投影されています。2人と同様、ヘッセ自身も神学校を退学しています。
神学校に至るまでのハンスの歩みはヘッセの人生に沿っているように感じます。ハンスは退学後に不慮の死を遂げますが、その後も生き続け詩人としての名声を確立したヘッセの姿はハイルナーのそれに重なるものを感じます。

様々な文献によるとヘッセ自身の寄宿舎と神学校の生活は、ハンスほど悲惨な状況ではなかったようです。ヘッセ自身も一種の懐かしさを持って振り返っている文章も残しています。

気になった点もいくつかありました。
そのひとつが寄宿舎の同室の友人が池に落ちて死亡する前後の描写です。
あまり存在感がない学友のヒンディンガー。彼は友人達と一緒に池に遊びに行くが、一人池に落ちてしまう。
しかし誰もそのことに気づかない。午後の授業に彼の姿はないが遅刻したのだろうと思われて誰も探しに行かない。夕刻になり、やっと死体で発見される。
あまりにも存在感が薄い。実に孤独だ。しかしそんな少年(少女)時代を経験した人もいるのではないか。何か間違えば自分が同じ境遇だったかもしれない。
それから数日間、彼の死は魔術のような働きをする。すべての行為や言動を和らげ静めた。多くの友人、学校関係者が生命に対して敬虔な気持ちを抱いたのだと思う。しかしその思いは数日で消える。

果たして教育とは何のために行なわれているのだろうか。人生で最も大切にされないといけないものは生命ではないのか。まさに教育現場で行なわれた生命に直結した出来事に、何も触れることなく、ただ当初から決められた授業を行なうだけの教育とはどれだけの価値を持っているだろうか。ましてその学校は神学校である。本来、宗教の使命は人生、生命の深遠さを解き明かし、実践するためにあるのではないのか。
何のための教育か。またその力ある哲学が多くの現場で不在のままであることを感じる1シーンでした。

物語の感想

ヘッセは1877年に南ドイツ・シュヴァーベンに生まれている。
思想形成にはキリスト教の布教活動に従事した両親をはじめとするキリスト教思想が多く影響している。その最たるものの一つが神学校での体験だとされており、この『車輪の下』はそうした分野の代表作である。

もうひとつ、ヘッセの思想経営に大きな影響を与えたのは2回の世界大戦の時代を生き抜いたという事実ではないかと思う。
第一次大戦開戦直後は純粋な愛国心から志願して兵役につこうとしたが、ドイツ国家の方針に違和感を持ち、その後は一環して批判的言動に徹している。その姿勢はナチス政権下においては相当の勇気を持った行動でなかったかと思うのである。

『車輪の下』はヘッセ自身が10代に経験した出来事がモチーフとなっている。実体験を元にしているためもあるかもしれないが、個々の描写が素晴らしい。
特に自然描写はヘッセの才能を大いに感じさせる。淡々と事実を書いているかのように思う読者もいるかもしれないが、書かれている出来事は人間が生きていく中で直面す重大な課題を浮き彫りにしている。

生きるということは?
友情のありかたとは?
生命をみつめることができない教育にはどんな意味があるのか?
信仰は何のために行なうのか?
仕事に従事するということはどういうことなのか?
働く喜びを得ることの素晴らしさ。・・・
多くのことを振り返ることができる一冊ではないかと思います。

作品の概要(章立て)

1905年「新チューリヒ新聞」雑誌「クンストヴァルト」に連載
1906年 単行本で発刊

第一章 ハンス少年 神学校に合格する
 ハンスの生い立ち
 まじめに勉学に励むハンスの少年時代
 少年の戸惑いと気づかない大人たち
 ハンス・試験に合格する
第二章 ハンス少年の夏休み
 短かった楽しい時間
 牧師・新しいギリシャ語(ヘブライ語)ルカ伝の勉強を始める
 校長・数学の勉強を始めさせる
 靴屋フライクおじさんとの会話
第三章 神学校での生活・学友達との出会いと事件
 歴史と環境に恵まれたマウルブロンと神学校
 同室になった学友たち
 模範少年ハンスとヘルマン・ハイルナーとの交遊
第四章 抜け落ちていく学友・地に落ちたハンス
 ヒンディンガーの死
 ハイルナーとの交遊の中で変わっていくハンス
 許容量を超えて虚脱していくハンス
 地に落ちたハンスの評価
 ハイルナーの脱走と退学
第五章 ハンス神学校を退学・故郷で過ごす止まった時間
 神経が衰弱していくハンス
 退学し失意の中で帰郷するハンス
 死の誘惑・死を考えることで落ち着いていくハンス
 1年目の夏休み・第二の幼年時代
 過去の回想に生きるハンス
第六章 ハンスの初恋
 転機となった果汁絞り
 エンマとの出会い・甘い時間そして失望
 機械工か役場の書紀か
 旧友アウグストの助言
第七章 労働するハンス、そして終末。
 エンマとの時間の終わり
 機械工として過ごした金曜日
 初めて知る労働の喜び
 仕事仲間と過ごした週末
 エンディング

作者

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse 1877年7月2日~1962年8月9日)
ヨハネス・ヘッセとマリー・グンデルトの2番目の子として南ドイツのシュヴァルツヴァルト地方のカルフで生まれた。
子供時代は感受性が強く両親が手を焼くほどの腕白。両親が聖職者で伝道活動をしていた影響で小学校を卒業後に神学校へ入学するためにラテン語学校へ通う。
1891年マウルブロンの神学校に進学。校風に馴染めず数ヶ月で脱走。両親や故郷の人々の期待の重さに耐えきれず精神的に不安定になり自殺未遂を起こす。神学校を退学し、17歳で時計工場や書店の見習いとして働き始めながら雑誌に詩を発表。

1899年スイスのバーゼルに移り住み、その後イタリアを旅行。
1904年初めての著作「ペーター カーメンツィント(郷愁)」を発表。マリア・ベルヌリと結婚。ボーデン湖のほとりガイエンホーフェンの農家に移り、庭仕事や畑仕事をしながら暮しはじめる。
1905年神学校時代の自分の体験を元にした「車輪の下」を出版。
1911年アジアへ旅行。母がインドで生まれであり以前から東洋に対する興味があったが、彼の見た東洋は欧米諸国によって植民地化されていた。この旅はヘッセにとって人種、民族、文化の多様性の価値を認識し、肯定できるきっかけになったといわれている。
1912年からスイスのベルンに移住。

1914年第一次世界大戦勃発にともないドイツの兵役を志願するが、強度の近視のため免除。ドイツ人捕虜の見舞いや救援活動を行う。その後ドイツ軍事行動に疑問を感じたヘッセはドイツ批判を開始。
ドイツ国内でのヘッセへの風当たりが強くなり、大戦後はドイツでの作家活動を制限させられてしまう。
妻マリアや三男の病気が理由でスイスのテッシン州モンタニョーラで一人で暮らし始める。後に離婚。
1924年にはルート・ヴェンガー と再婚。
ヘッセの代表作品「荒野の狼」が50歳の時に発表される。二度目の離婚。
1931年、ニノン・ドルビンとの三度目の結婚。ニノンは20年ほど前(当時15歳)ヘッセ宛にファンレターを送ったことがあり、それ以来親交が続きヘッセの良き理解者であった。

1939年第二次世界大戦勃発。
ヘッセはドイツ・ナチスの支配から逃れてくる人々に援助をしたり、亡命によって作品の発表が困難になった作家へ手を差し伸べていた。「ガラス玉遊戯」はドイツで出版禁止となるがスイスで出版された。
1946年フランクフルト市のゲーテ賞、ノーベル文学賞を受賞。病気のため授賞式には欠席。
1962年8月9日モンタニョーラで死去。享年85歳。

ヘッセの主な作品

ペーター・カーメンツィント(郷愁)
車輪の下
少年時代から
ゲルトルート(春の嵐)
クヌルプ
メルヒェン
デミアン
ツァラトゥストラの再来
クラインとワーグナー
シッダールタ
荒野の狼
東方への旅
ガラス玉遊戯

運営

桂冠塾プロジェクト
東京都練馬区東大泉5-1-7
毎月1回
オンライン開催