桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第29回】

『神曲』(ダンテ)

開催日時 2007年9月1日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館・会議室(小) 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分
『神曲 地獄篇』
『神曲 煉獄篇』
『神曲 天国篇』
三部作で構成されています。

開催。諸々コメント。

『神曲』(しんきょく) は、13~14世紀イタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。
原題『La Divina Commedia』は直訳すると「神聖なる喜劇」。「神聖なる」という形容はボッカチオがつけたものとされており、ダンテ自身は単に『Commedia』(喜劇・喜曲)とだけ呼んだ作品である。
『喜劇』と『神曲』では印象が異なるので、戸惑いをかくせない。なお日本語翻訳名は森鴎外によるものである。
地獄篇・煉獄篇・天国篇の三部から成る、全14233行の韻文で構成された大叙事詩である。

暗い森の中に迷い込んだダンテは古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会う。彼と共に、地獄、煉獄、天国の国を巡り歩いていく。
ダンテは地球の中心である魔王ルチフェロが幽閉された領域に至り、地球の対蹠点に抜けて煉獄山に到着する。
煉獄山では登るにしたがって罪が償われていく。
煉獄の山頂でダンテは再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天国へ到達し、各星々を巡って至高天(エンピレオ)へ昇りつめる。
ダンテが幸福の境涯と考えた領域にたどり着く道程は、ウェルギリウスによって示され、共々にその道のりを歩む様が克明に描かれている。

ウェルギリウスとダンテの関係も重要である。
ダンテが町から追放され、気がつくと暗い森の中を彷徨っている。光に導かれて森を抜けることができるが、そこには豹、狼、ライオンが待ち受けている。現実に生きていく中で必ず離れることのできない欲望と罪の深さから、人生の真の幸福を求めようと葛藤するダンテの前に現れたのがギリシア・ローマ時代を代表する詩人ウェルギリウスである。ダンテはウェルギリウスを師(マエストロ)と呼び、彼自身の針路を託す。
こうしてダンテは、現世が果てた先にあるとされる地獄、煉獄、天国を巡る旅を始めるという構成で『神曲』を書き進めた。

天国編での道先案内人はウェルギリウスからベアトリーチェにかわる。この二人が愛し合っていると表現もできるが、ダンテは友情として描いているようにも感じる。
ここに至るまでにダンテは愛について繰り返し苦悩、思索を繰り返している。愛ゆえに地獄の第二圏で苦しみにもがき続ける愛欲者たちがおり、煉獄山でも最後の第七冠まできて邪淫(快楽)者が炎で身を焦がしている。いずれの者達も愛情それ自体は真剣で純粋そのものだ。
愛そのものは善でも悪でもないというのがダンテの見解であり、善なる愛を友情と表現しているとも受け取ることもできる。ではダンテのいう友情とはいかなるものか。そのような視点でみると恋愛論の古典作品ともいえるかもしれない。

一般的には極めて難解と思われているダンテの作品であるが、ダンテはこの作品を庶民が読める言葉で綴った。そして最後は「喜劇」の原題のとおり、彼が追求しようとした幸せが描かれていく。
彼が追い求めようとしたものは何だったのか。
ダンテを語らずして文学を語れずとまでいわれたダンテの心の一端にふれることができればと思っています。

作者 ダンテ・アリギエーリ

古典中の古典、西欧文化の源泉、ルネサンス誕生の父、詩聖と讃えられたダンテ・アリギエーリ。彼の出生や経歴は詳細にはわかっていないが、1200年代の人物であることを考えると記録が残っていないことはさほど不思議ではないだろう。
世界史的にも文学的にもダンテは欠いて語ることができないほど著名な人物であり、その代表作が『神曲』であるが、全編を読了したした人はわずかであることも、ほぼ間違いない事実である。

265年、中部イタリアのトスカナ地方・フィレンツェ市で、金融業を営む小貴族アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ・ダリギエーロとその妻ベッラの子供として誕生。
系譜には第2回十字軍に参加し1147年に戦死した曽々祖父カッチャグイーダがいる。
聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、「永続する者」を意味するドゥランテ・アリギエーリ(Durante Alighieri)と名付けられた。
「ダンテ(Dante)」はドゥランテの慣習的短縮形。
生誕の正確な月日は不祥。『神曲』天国篇第22歌の記述から5月半ばから6月半ばと考えられている。
ラテン語の古典文法や修辞学などを学んだ。
少年時代のダンテの記録は乏しい。ダンテの伝記は、多くをダンテ自身の作品である『新生』『神曲』の記述に負っている。
ダンテが最も敬愛する師として『神曲』に登場させているのは、『宝典』を著したブルネット・ラティーニ。ダンテは彼から修辞学などを学んだとされており、『神曲』地獄篇第15歌で、男色の咎ゆえに炎熱地獄に配しながらも「人間が生きる道」を教えてくれた師に感謝の思いを表している。
ウェルギリウスやルカヌス等、ラテン文学の教養を身につけた。
フィレンツェの詩人から大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げた。

重要な登場人物

ベアトリーチェ

ダンテが9歳のとき、1274年5月1日の春の祭り(カレンディマッジョ)で、ベアトリーチェ(ビーチェ)に出会い生涯を貫く愛を全身全霊で直感した。 9年後、18歳になったダンテはベアトリーチェと聖トリニタ橋で再会。微笑みのみだったが至福の激情が駆けめぐり、その夜運命的な夢をみてダンテの思いは決定的となった。その後二人が出会うこともなくベアトリーチェ1290年に24歳で病死した。彼女の死を知ったダンテは一時期狂乱状態に陥いるが、彼女への愛を生涯の捜索の源泉とし『新生』を著した。その後『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描いた。

『神曲』に登場する天女ベアトリーチェに関しては、実在した女性ベアトリーチェをモデルにしたという実在論と、「永遠の淑女」「久遠の女性」としてキリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立している。実在モデル説では、フィレンツェの名門フォルコ・ポルティナーリの娘として生れ、のちに銀行家シモーネ・デ・バルティの妻となったベアトリーチェ(ビーチェ)を核として、ダンテがその詩の中で「永遠の淑女」として象徴化していったと見る。
非実在の立場を取る神学象徴説では、二人が出会ったのはともに9歳の時、再会したのは9年の時を経て18歳になった時の9時であるなど、三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が何度も現われていることから、ベアトリーチェも神学の象徴であり、ダンテは見神の体験を寓意的に「永遠の淑女」として愛を象徴する存在として神聖化、象徴化したという説を取る。


プブリウス・ウェルギリウス・マロ(Publius Vergilius Maro,)

紀元前70年10月15日~紀元前19年の古代ローマの詩人。『牧歌』『農耕詩』『アエネイス』という三つの叙情詩及び叙事詩を残した。
ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において理性と哲学の象徴でもある最も重視される詩人。
遺稿として残された『アエネイス』(「アイネイアスの物語」の意)はウェルギリウス最大の作品であり、ラテン文学の最高傑作とされる。『アエネイス』以後に書かれたラテン文学で、『アエネイス』を意識していない作品は皆無とまで言われている。

『神曲』が執筆された背景

フィレンツェの政争 ダンテが『神曲』を執筆するきっかけの一つには、当時のイタリアでのグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)の対立、党派抗争を制したグェルフィ党内部での「白党」と「黒党」による政争がある。
ダンテは白党に所属しており、フィレンツェ市政の重鎮に就いていたが、この政争に敗れてフィレンツェを追放される。
『神曲』にはダンテが経験した政治的不義に対する憤りが現れており、自分を追放したフィレンツェへの怒りと痛罵も込められている。
またダンテを陥れた人物は、たとえ至尊の教皇であろうと地獄界に堕とし、そこで罰せられ苦しむ様子も描かれている。
他にもダンテは自由に有名無名の実在した人物を登場させ、地獄や煉獄、天国に配置しており、これによって生まれるリアリティが『神曲』を成功させた理由の一つであると言われている。

執筆時期

『神曲』地獄篇は1304年から1308年頃に執筆。1319年には地獄篇と煉獄篇は既に多くの人に読まれており、ダンテは名声を得ていた。
天国篇は1316年頃から死の直前の1321年にかけて完成した。『神曲』は当時の知識人の共通語であったラテン語ではなく、トスカーナ地方の方言で執筆されたことも、多くの人に読まれた理由である。

『神曲』の由来

イタリア語の原題は、 La Divina Commedia (神聖なる喜劇(ディヴィーナ・コメディア))であるが、 Divina はボッカチオが尊称としてつけた。
ダンテ自身は 単にCommedia (喜劇)とのみ題していた。「喜劇」としたのは「悲劇」とは逆に円満な結末を迎えるため、女子供でも読める俗語で書かれているためだという。
『神曲』の最初期の写本では、『ダンテ』『三行韻詩』などの題がつけられていた。
15、6世紀頃にはダンテの詩が活版印刷で出版されるようになり、1555年に刊行されたヴェネツィア版によって『神聖喜劇(Divina Commedia)』の題名が定着した。
「神曲」の邦訳名は森鴎外がアンデルセンの翻訳『即興詩人』の中で初めて用いた。

『神曲』の構成

Inferno (地獄篇)Purgatorio (煉獄篇)Paradiso (天国篇) の三部構成。
各篇は34歌、33歌、33歌の計100歌。地獄篇の第一歌は総序。各篇は3の倍数である33歌から構成されている。
三行を一連とする「三行韻詩」あるいは「三韻句法」(テルツァ・リーマ)。
各行は11音節から成り、3行がひとまとまりとなって、三行連句の脚韻が aba bcb cdc … と韻を踏んで鎖状に連なる押韻形式。各歌の末尾のみ3+1行で、 …xyx yzy z という韻によって締めくくられ、各歌は3n+1行から成る。
ローマカトリックの神に関する教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図し、細部から全体の構成まで聖なる数「3」が貫かれ、幾何学的構成美を見せている。
聖数「3」と完全数「10」を基調として、 1,3,9(3の2乗),10(3の2乗+1),100(10の2乗,33×3+1) の数字を『神曲』全体に行き渡せることで「三位一体」を作品全体で体現した。
地獄、煉獄、天国の各篇とも、最終歌の末節は stella (星)という言葉で結ばれている。

ダンテが師匠と仰いだウェルギリウス

ダンテがウェルギリウスを師匠と仰いだのはなぜだろうか。
ここに『神曲』の大きなテーマのひとつがある。
詩人であるならば誰もが学んだといわれるウェルギリウスであるが、そうした文学的素養だけから師匠と定めたと考えるのは、人生の岐路に立った者が選択する理由としてはあまりも貧相すぎる。
ウェルギリウスの評価は『アエネイス』に集約されるが、この作品の位置づけこそがダンテの行動を説明することになると私は思う。

ウェルギリウスが農耕詩を書いていた当時のローマは誇りを持った都市ではなかった。当時最も誇り高き都市はギリシアの町である。「ギリシア神話」に象徴されるとおり神々が創り神々が住む都市とされており、住民達も誇りに満ちていた。

対してローマはどうであったのか。
ローマはギリシア神話によって、孤児から成り上がった戦士達によって建設された町であるとされていた。結果的にギリシア人はローマ人を知性も血筋も高くない民族して遇した。ローマ人もそれを甘んじて受け入れていた。

当時ローマを治めていたアウグスツゥスは、ローマ人の精神的拠り所をを求めてウェルギリウスにローマ人のための誇り高き叙事詩の創作を命じた。
そうして誕生したのが『アエネイス』である。

ウェルギリウスただ一人の創作によって誇り高き都市として復活を果たしたローマ。そしてその栄華を謳歌したローマ人の幸福。
その姿にダンテは自分自身の生涯の理想を見たのではないだろうか。

故郷フィレンチェの復興を願い行動したダンテ

ダンテが生きた町はフィレンチェ。その当時、フィレンチェの政治家達は自己保身と政争に明け暮れ、商人達は私利私欲と陰謀術策にまみれて、精神が最も汚れた町と蔑まれていたことは『神曲』に赤裸々に描かれている。
ダンテはそのフィレンチェを追放されて放浪の一生を送っているが、我が故郷フィレンチェの復興を誰よりも願っていたのだ。そして失意のどん底で生命を賭けて執筆を始めたダンテは『神曲』を発表することで人間性の復興を果たし、自身が生まれ育ったわが故郷の復興を夢見たのではないだろうか。

ウェルギリウスが『アエネイス』で人間の素晴らしさ、幸せに生きる喜びを高らかに謳いあげたように、ダンテは『神曲』によって世俗にまみれた庶民がより誠実に生きることの大切さと美しさを謳いあげた。ウェルギリウスが神々の町ギリシアに対して人間性に溢れた町ローマを謳いあげたように、ダンテは人間が本来持っている人間性の素晴らしさを謳いあげ、人間性そのものの復興を成し遂げたのであろう。

ダンテの『神曲』によって、その後のヨーロッパに大きな文化的潮流が生まれる。現代の私達が「ルネサンス」と呼んでいるものである。日本語には「文芸復興」という訳と共に「人間復興」と訳されることが多い。
ルネサンスの中心地はフィレンチェである。
まさにダンテが目指した人間性の復興が、彼の故郷フィレンチェから湧き起こったのである。

ローマ人の誇りを築き上げたウェルギリウスを師匠と仰いだダンテ。
師匠を目指し、師匠に導かれたダンテの生涯をかけた闘いは、後世が高く評価する人間性の復興として、みごとに結実したのである。

庶民のために書かれた『神曲』

『神曲』には、とにかく難解というイメージがついてまわっている。
キリスト教や神学の素養がないと理解できない。
ギリシャ神話やローマ文化の知識がないと読み進められない。
そんな高尚な文学作品というイメージが定着しているようにも思う。

しかしダンテは市井に生きる庶民のために『神曲』を書いた。
それは『神曲』が当時の知識階層の言葉であるラテン語ではなく、トスカーナ地方の方言(現在のイタリア語の源流)で書かれたことに象徴されている。

またダンテがつけたこの作品の原題は『喜劇(Commedia)』である。
ボッカチオが尊敬の気持ちを込めて『神聖なる喜劇(La Divina Commedia)』と呼び、1555年に活版印刷で発刊されたベネチア語版が『神聖喜劇』との題名を用いてこれが定着したと言われている。森鴎外が邦訳した際に『神曲』としたことで、日本では原題のイメージとは多少違って受け止められているのかもしれない。

桂冠塾当日の参加者も読み通したという方はわずか1名。まったく目を通すことさえできなかった方もいたほどだ。未参加だが読了された方が「目で文章を追うが全く理解できない経験を初めてした」という趣旨の感想を寄せていただいた。

しかしそれほど難解なのだろうか?
確かに私も冒頭部分で時間を要した。現代人の会話文化に染まっている私達には馴染めない文章なのだろうかと思いつつ、自分自身の読解能力の限界に近いのかなという感覚を一瞬持ちかけたが、独特の言い回しに慣れてくると一定のリズムで読み進めることができた。
これが韻文詩の特徴なのかもしれない。

『神曲』を読むひとつの視点

当然のことながら『神曲』は作品としてのふところがとてつもなく、深い。
全体の構成を理解するだけでも相当の努力が必要になるが、例えば「この人物はなぜここで登場するのだろうか」という視点で読むとダンテの意図を更に深く拝することができる。
多くの解説が指摘するように特定のテーマ、例えば「愛」であるとか、また「師弟」「人間性の復興」「生と死」「生命の永遠性」「人間が持っている生命観」など、重要なテーマがいくつも含まれている。
一度、二度で読み終わったといえる作品ではない。生涯で何度も読んでみたい。
そう感じるという意味でも、『神曲』は他の作品とは数段以上格が違う、特別な作品である。

ダンテに限らないが、多くの西欧の作家詩人は現実の社会で行動している。政治家として現実変革に格闘した人達も多い。
翻って日本の作家の行動を見てみると、どうか。 多くの作家達は自らの活動範疇を文壇での執筆活動のみに限定している。一部の作家は政治家になっているが、創作活動で醸成されてきた自らの思いを現実社会で展開しようというケースは、ほとんどない。
世界的文学賞などを受賞した日本を代表する作家に至っては、皆無である。

ダンテにとっての『神曲』

ダンテは『神曲』でどのような世界を描こうとしたのか?
私達読者は、この疑問を追及する必然がある。
そしてその結論ともいうべきダンテの思いは、最終章である「天国篇」に書かれているのは明白だ。したがって天国篇を読み込むことが『神曲』を読むことで特に重要になる。
しかし、一足飛びに「天国篇」を読むことをダンテは戒めている。
池内紀氏も解説で指摘しているが天国篇第2歌の第1行でダンテはこう述べている。
おお御辺たち、聴きたい一心で小船あやつり、歌いながら進むわが船のあと追ってきた人々よ、
船先(へさき)めぐらし、もとの岸辺に立ち帰れ。大海原に乗り出ずな。恐らくは私を見失い、白波のよるべも知らに漂うであろうほどに。(寿岳文章訳)
地獄篇、煉獄篇とめぐってきた者のみが天国篇を読み進むことができるというのだ。

天国編での道先案内人はウェルギリウスからベアトリーチェにかわる。
ダンテの人生と照らし合わせるとこの二人は愛し合っていると解釈もできるが、ダンテは二人の関係を友情として描いているようにも感じられる。
ここに至るまでにダンテは、愛について繰り返しその苦悩を描き、悶々たる思索を繰り返している。愛ゆえに地獄の第二圏で苦しみにもがき続ける愛欲者たちがおり、煉獄山でも最後の第七冠まできて邪淫(快楽)者が炎で身を焦がしている。

いずれの者達も、愛情それ自体は真剣で純粋そのものだ。
愛そのものは善でも悪でもないというのがダンテの見解であり、善なる愛を友情と表現しているとも受け取ることもできる。
ではダンテのいう善なる愛、友情とはいかなるものか。そのような視点でみると『神曲』は恋愛論の古典作品ともいえるかもしれない。

ダンテが目指した幸福とは

ダンテは「死後の地獄や天国の世界ってこんな感じなんだよ」という話がしたかったのだろうか。多くの読者が感じているように、同時代やギリシア神話の英雄達を地獄に落としてまで、非難を浴びるのを覚悟で書かれたこの作品の動機が、その程度であるわけがない。
どの人物が地獄界のどの圏に落ちた、どの人物は煉獄のどの環で贖罪をしているといった判断に、思索に思索を重ねたことが推察される。ダンテ自身の判断が間違っていないか司教の考えを聞きに行ったという指摘もある。
ダンテは流浪の旅の中で考え抜いた末の、ぶれのない確信を持った自分自身の基準を、確かに持っている。

繰り返しになるが、一般的には極めて難解と思われているダンテの作品『神曲』は、庶民が読める言葉で綴った。
そして最後は『喜劇』の原題のとおり、彼が追求しようとした喜び《幸福》が描かれていく。

真実の幸福とは?
人間の生きるべき目的とは?
現実の欲望が渦巻く、どろどろとしたフィレンチェの現実社会の中で、もがき苦しんだダンテが理想とする信仰に根ざした生き方を活写したのが『神曲』であった。

賛否や個々の見解の相違も当然あるが、ダンテが書きあげた『神曲』によって事実上のルネサンスが始まった。
ダンテの心の奥底には、「人間性の復興」を志した多くの芸術家達の感性に呼応する生命の叫びがあったのだ。その心の奥底からの叫びが、新しい時代の扉を開いたのである。

『神曲』の日本語訳

『神曲』の完訳本としては平川祐弘氏、寿岳文章氏、山川丙三郎氏の日本語訳が有名である。
3氏のどなたの訳も難易の度合いはさほど違いはない。いずれも名訳だ。特徴的に言うと寿岳氏のものは個々の解説が充実しており、平川氏、山川氏のものは韻文の美しさが大切に約されている印象を受けた。
その他の訳本の大半は抄訳で、充分に『神曲』を伝えきっているとは言いがたい。図書館によっては永井豪の劇画『ダンテ神曲』も置いているが、ストリー的には谷口江里也訳に沿っている。

抄訳本のほとんどが地獄篇に偏っているのもひとつの特徴だろう。
谷口江里也訳はギュスターヴ・ドレの插絵を中心に構成されているようだからそうなるのは当然といえるが、他の訳者が同様になるのはどうしてなのか首を傾げざるを得ない。
『神曲』が大作であるが故に途中で息切れしたのか、ダンテの真意が理解できなかったのか、はたまた入手しやすい抄訳を元に安易に焼き直したのか...。
私はそのいずれも有りうると感じるが、特にダンテの真意が理解できないままに翻訳作業を行った者達も少なからずいたのではないかと思う。

(1)地獄篇( Inferno )

気が付くと深い森の中におり、恐怖にかられるダンテ。
西暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、人生の半ばにして暗い森に迷い込んだダンテは、地獄に入った。
ダンテは、師匠(マエストロ)と仰ぐ詩人ウェルギリウスに案内され、地獄の門をくぐって地獄の底にまで降り、死後の罰を受ける罪人たちの間を遍歴していく。
ウェルギリウスは、キリスト以前に生れたため、キリスト教の恩寵を受けることがなく、ホメロスら古代の大詩人とともに未洗礼者の置かれる辺獄(リンボ)にいたが、地獄に迷いこんだダンテの身を案じたベアトリーチェの頼みにより、ダンテの先導者としての役目を引き受けて辺獄を出たのである。

『神曲』において、地獄は漏斗状の大穴(かつて最も光輝はなはだしい天使であったルチフェロが神に叛逆し、地上に堕とされてできた)をなして地球の中心にまで達し、最上部の第一圏から第九圏で構成される。
地球の対蹠点では、魔王が墜落した衝撃により、煉獄山が持ち上がったという。
地獄はアリストテレスの『倫理学』でいう三つの邪悪、「放縦」「悪意」「獣性」を基本としてそれぞれ細分化され、「邪淫」「貪欲」「暴力」「欺瞞」などの罪に応じて亡者が各圏に振り分けられている。
地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、中ほどにあるディーテの市を境に地獄は比較的軽い罪と重罪の領域に分けられている。
最も重い罪とされる悪行は「裏切り」。地獄の最下層コキュートス(嘆きの川)には裏切者が永遠に氷漬けとなっている。
■地獄界の構造
地獄の門 「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」
地獄前域 無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺される。
アケローン川 冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していく。
第一圏 辺獄(リンボ)…洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす。
地獄の入口では、冥府の裁判官ミーノスが死者の行くべき地獄を割り当てている。
第二圏 愛欲者の地獄…肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流される。
第三圏 貪食者の地獄…大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る。
冥府の神プルートの咆哮。「パペ・サタン・パペ・サタン・アレッペ!」
第四圏 貪欲者の地獄…吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る。
第五圏 憤怒者の地獄…怒りに我を忘れた者が、血の色をしたスティージュの沼で互いに責め苛む。
ディーテの市…堕落した天使と重罪人が容れられる、永劫の炎に赤熱した城塞。ここより下の地獄圏はこの内部にある。
第六圏 異端者の地獄…あらゆる宗派の異端の教主と門徒が、火焔の墓孔に葬られている。
二人の詩人はミノタウロスとケンタウロスに出会い、半人半馬のケイロンとネッソスの案内を受ける。
第七圏 暴力者の地獄…他者に対して暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる。
※第一の環 隣人に対する暴力…隣人の身体、財産を損なった者が、煮えたぎる血の河フレジェトンタに漬けられる。
※第二の環 自己に対する暴力…自殺者の森。自ら命を絶った者が、奇怪な樹木と化しアルピエに葉を啄ばまれる。
※第三の環 神と自然と技術に対する暴力…神および自然の業を蔑んだ者、男色者に、火の雨が降りかかる。
第八圏 悪意者の地獄…悪意を以て罪を犯した者が、それぞれ十の「マーレボルジェ」(悪の嚢)に振り分けられる。
※第一の嚢 女衒…婦女を誘拐して売った者が、角ある悪鬼から鞭打たれる。
※第二の嚢 阿諛者…阿諛追従の過ぎた者が、糞尿の海に漬けられる。
※第三の嚢 沽聖者…聖物や聖職を売買し、神聖を金で汚した者(シモニア)が、岩孔に入れられて焔に包まれる。
※第四の嚢 魔術師…卜占や邪法による呪術を行った者が、首を反対向きにねじ曲げられて背中に涙を流す。
※第五の嚢 汚職者…職権を悪用して利益を得た汚吏が、煮えたぎる瀝青に漬けられ、悪鬼から鉤手で責められる。
※第六の嚢 偽善者…偽善をなした者が、外面だけ美しい金張りの鉛の外套に身を包み、ひたすら歩く。
※第七の嚢 盗賊…盗みを働いた者が、蛇に噛まれて燃え上がり灰となるが、再びもとの姿にかえる。
※第八の嚢 謀略者…権謀術数をもって他者を欺いた者が、わが身を火焔に包まれて苦悶する。
※第九の嚢 離間者…不和・分裂の種を蒔いた者が、体を裂き切られる。
※第十の嚢 詐欺師…錬金術など様々な偽造や虚偽を行った者が、悪疫にかかって苦しむ。
最下層の地獄、コキュートスの手前には、かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられている。
第九圏 裏切者の地獄…「コキュートス」(Cocytus 嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。
最下層の地獄、コキュートスの手前には、かつて神に歯向かった巨人が鎖で大穴に封じられている。
※第一の円 カイーナ(Caina)…肉親に対する裏切者 (旧約聖書の『創世記』で弟アベルを殺したカインに由来)
※第二の円 アンテノーラ(Antenora)…祖国に対する裏切者 (トロイア戦争でトロイアを裏切ったとされるアンテノールに由来)
※第三の円 トロメーア(Ptolomea)…客人に対する裏切者 (旧約聖書外典『マカバイ記』に登場する裏切者トロメオに由来)
※第四の円 ジュデッカ(Judecca)…主人に対する裏切者 (イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダに由来)
地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルチフェロ(サタン)が氷の中に永遠に幽閉されている。魔王はかつて光輝はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めていた。魔王は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、カエサルを裏切ったブルートゥス、カッシウスの三人をそれぞれの口で噛み締めている。
二人の詩人は、魔王の体を足台としてそのまま真っ直ぐに反対側の地表に向けて登り、岩穴を抜けて地球の裏側に達する。

(2)煉獄篇 Purgatorio


ダンテに呼びかけるベアトリーチェ ウィリアム・ブレイク画煉獄は、地獄を抜けた先の地表に聳える台形の山で、ちょうどエルサレムの対蹠点にある。「浄火」あるいは「浄罪」とも言う。
永遠に罰を受けつづける救いようのない地獄の住人と異なり、煉獄においては、悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者がここで罪を贖う。
煉獄山の構造は、下から昇るごとに幾つかの段階に分かれている。
亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄めつつ上へ上へと登り、浄め終えるとやがては天国に到達するのである。
地獄を抜け出したダンテとウェルギリウスは、煉獄山の麓で小カトーと対面する。
ペテロの門の前でダンテは天使の剣によって額に印である七つの「P」を刻まれた。「P」は煉獄山の七冠で浄められるべき「七つの大罪」、「Peccati」を象徴する印である。
そして、ウェルギリウスに導かれて山を登り、生前の罪を贖っている死者と語り合う。ダンテは煉獄山を登るごとに浄められ、額から「P」の字が一つずつ消えていく。

山頂でダンテは永遠の淑女ベアトリーチェと出会う。ウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれない。
そこでダンテはウェルギリウスと別れ、ベアトリーチェに導かれて天国へと昇天する。
■煉獄山の構造
煉獄前域 煉獄山の麓。小カトーがここに運ばれる死者を見張る。
第一の台地 破門者…教会から破門された者は、臨終において悔い改めても、煉獄山の最外部から贖罪の道に就く。
第二の台地 遅悔者…信仰を怠って生前の悔悟が遅く、臨終に際してようやく悔悟に達した者はここから登る。
ペテロの門…煉獄山の入口。それぞれに色の異なる三段の階段を上り、金と銀の鍵をもって扉を押し開く。
第一冠 高慢者…生前、高慢の性を持った者が重い石を背負い、腰を折り曲げる。
第二冠 嫉妬者…嫉妬に身を焦がした者が、瞼を縫い止められ、盲人のごとくなる。
第三冠 憤怒者…憤怒を悔悟した者が、朦朦たる煙の中で祈りを発する。
第四冠 怠惰者…怠惰に日々を過ごした者が、ひたすらこの冠を走り回り、煉獄山を周回する。
第五冠 貪欲者…生前欲深かった者が、五体を地に伏して嘆き悲しみ、欲望を消滅させる。
第六冠 貪食者…暴食に明け暮れた者が、決して口に入らぬ果実を前に食欲を節制する。
第七冠 愛欲者…不純な色欲に耽った者が互いに走りきたり、抱擁を交わして罪を悔い改める。
山頂 地上楽園…常春の楽園。煉獄で最も天国に近い所で、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所という。

(3)天国篇 Paradiso


地獄の大淵と煉獄山の存在する地球を中心として、同心円状に各遊星が取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙観に基づき、ダンテは天国界の十天を構想した。
地球の周りをめぐる太陽天や木星天などの諸遊星天(当時、太陽も遊星の一つとして考えられていた)の上には、十二宮の存する恒星天と、万物を動かす力の根源である原動天があり、さらにその上には神の坐す至高天が存在する。

ダンテはベアトリーチェに導かれて諸遊星天から恒星天、原動天と下から順に登っていく。
ダンテは地獄から煉獄山の頂上までの道をウェルギリウスに案内され、天国では、至高天(エンピレオ)に至るまではベアトリーチェの案内を受けるが、エンピレオではクレルヴォーのベルナルドゥスが三人目の案内者となる。
天国へ入ったダンテは各々の階梯で様々な聖人と出会い、高邁な神学の議論が展開され、聖人たちの神学試問を経て、天国を上へ上へと登りつめる。
至高天においてダンテは天上の純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。
■天国界の構造
火焔天 …地球と月の間にある火の本源。焔が上へ上へと向かうのは、この天へ帰らんとするためと考えられた。
第一天 月天…天国の最下層で、生前、神への請願を必ずしも満たしきれなかった者が置かれる。
第二天 水星天…徳功を積みはしたものの、現世的な野心や名声の執着を断ち切れなかった者が置かれる。
第三天 金星天…まだ生命あった頃、激しい愛の情熱に駆られた者が置かれる。
第四天 太陽天…聖トマス・アクィナスら智恵深き魂が置かれる。
第五天 火星天…キリスト教を護るために戦った戦士たちが置かれる。
第六天 木星天…地上にあって大いなる名声を得た正義ある統治者の魂が置かれる。
第七天 土星天…信仰ひとすじに生きた清廉な魂が置かれる。
第八天 恒星天…七つの遊星の天球を内包し、十二宮が置かれている天。聖ペトロら諸聖人が列する。
第九天 原動天…諸天の一切を動かす根源となる天。
至高天 …エンピレオ。諸天使、諸聖人が「天上の薔薇」に集い、ダンテは永遠なる存在を前にして刹那、見神の域に達する。

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