桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第34回】

『隊長ブーリバ』(ニコライ・ゴーゴリ)

開催日時 2008年1月26日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬 2階(第二和室) 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

今月取り上げる本はニコライ・ゴーゴリ著『隊長ブーリバ』です。
ゴーゴリには『外套』『検察官』や『死せる魂』などの代表作があります。

この作品が書かれた当時は、まだ農奴制が色濃く残る帝政ロシア、ニコライ一世の時代である。
作品の舞台は16世紀前後のウクライナ(小ロシアの一国)。主人公は題名にもなっているタラス・ブーリバ。ブーリバは、当時ウクライナを支配していたポーランドに、徹底抗戦するコサック兵士の隊長である。既に老境に入った彼には優秀な二人の息子がいる。学校を終えた二人を父ブーリバは真の勇者に育てようと戦場に連れて行く。
そして、そこで起きた現実は...。
父の愛と母の愛、異性を愛することと同胞への絆、そして裏切り...。前時代的ともいえる殺戮が繰広げられる修羅場を舞台にしながらも、そこに感じる人間的な結びつきや生命の輝きこそがゴーゴリが描こうとしたものかもしれない。
ゴーゴリは語っている。
「われらが広大な祖国の活気に満ちた諸階層を広く遠く見渡したまえ。我が国にどれほどよき人々がいることか。しかし同時にどれほどの禍(わざわい)があることか。
これら禍のため善き人々の生活がどれほど妨げられ、法に従うことができなくなっていることか。彼らを舞台に登場せしめよ」

時代背景

1835年発表(26歳)。
▼ニコライ1世(在位1825~55年)
→ロシア・トルコ戦争(1828~29年)
→デカブリストの乱(貴族将校の反乱/ロシア社会の開明化、立憲君主制、共和制を要求)
→第三部(秘密警察)による自由主義運動の取り締まり

作者

ニコライ・ゴーゴリ(Николай Васильевич Гоголь)
1809年3月31日~1852年3月4日。
19世紀ロシア文学にリアリズムを確立したという評価が定着している。ロシア・ロマンチズムの流れを作り出した作品群の評価も高い。『隊長ブーリバ』はその代表作とも言われる。
ウクライナ・ポルタワ県ミルゴーロド郡に生まれる。
父・コサックの血を引く小地主。芝居好きで自ら喜劇も書いた。
母・宗教心厚き女性。
両親の影響を受けて早い時期から文学と演劇に情熱を燃やす。16歳で父が他界、一時は官庁に勤める。22歳(1831年)で『ディカニカ近郷夜話』の一遍を発表、プーシキンに激賞されたことを契機に文学に専念する。
1835年、『隊長ブーリバ』を含む4作品から成る『ミルゴーロド』、『アラベスク』(『ネフスキー通り』『肖像画』『狂人日記』を収録)『鼻』を発表。ゴーゴリの特徴的なロマンチズムと風刺、ユーモアが顕著となる。矛盾と不正に満ちた現実に生きる人間の不安や恐怖、幻滅を描き出した。
社会の落伍者の運命に同苦するゴーゴリの作風は代表作『外套』(1942年)にも凝縮されている。
次作の喜劇『検察官』(1836年)で批判的リアリズムは確立されたと言われている。作品の背景に農奴制があったことから、上演と同時に激しい論争、権力からの非難が巻き起こる。生来病弱であったゴーゴリは極度の神経衰弱に陥る。静養のための欧州旅行中に師匠と仰ぐプーシキンが不慮の死去に見舞われ、ゴーゴリは創作意欲されも喪失し、宗教の迷信的、神秘的問題にのめりこんでいく。数年の精神的動揺期を経て『死せる魂』(1842年)を発表。農奴制によりかかるロシア社会の根本的矛盾と欠陥に真正面から取り組んだ。ロシアの全知識人を巻き込むほどの衝撃が全土に走り、その影響に当惑と恐怖を感じたゴーゴリはローマに逃れ、宗教的瞑想に耽る。
次第に罪悪感に苛まれていったゴーゴリは『死せる魂』をダンテの『神曲』のごとき作品に昇華させようと決意する。第一部(既刊)をロシアの悪を暴いた章と位置付け、第二部で主人公の反省、贖罪、魂の浄化を描き、第三部ではロシア人にとどまらず人類全体の魂の根底に秘められている善の意識を描き出そうと決意し執筆に取り組むが、挫折し1845年に原稿を燃やしてしまう。
1847年、これまでの作品をすべて否定する『友人との往復書簡抄』を発表。これを読んだベリンスキイは直ちに『ゴーゴリへの手紙』を発表し鋭い批判を行なった。
この論争を経て、ゴーゴリは「みずからの仕事は芸術を通して語ること」と自覚、1848年に『死せる魂』第二部の執筆に再度取り掛かる。
しかし健康は益々衰え、魂を悪魔に売り渡したという罪悪感が増していく。最後は狂乱状態に陥り、1852年2月に再び原稿を火中に投じ、数日後に精神的にも肉体的にも衰弱しきって死亡した。

「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出た」(ドストエフスキー)

コサック

歴史
「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者」という意味のトルコ語から来た言葉。
14世紀~15世紀には、ポーランド王国の王から貴族としての権利が認められなかったキエフ・ルーシ(キエフ大公国)の士・豪族の子孫を中心とするコサック団隊がウクライナのステップ地帯で出現したとされる。
領主への隷属を嫌って、「リトアニア・モスクワ両公国の南部の辺境」へ逃亡してきた農民たちという起源説はあるが、文献等による証拠が不足している。
コサックは漁業や海賊行為を営むため、ドニエプル川・ドン川の辺に住みついた。
ドニエプル川下流にはザポロージエ(作品中ではザパロジエ)・シーチが建設された。ここに居住したコサックはザポロージエ・コサック(ザポロージエのコサック)と呼ばれ、ポーランド・リトアニア連合との関係を強めていった。このザポロージエ・コサックが次第に勢力を強め、ウクライナ・コサックの代表的存在となった。
ウクライナ・コサックではロシアのコサックとは異なる階級や秩序が敷かれた。特に、ラーダ(議会)によって選出される最高職「ヘーチマーン」を置いたことは特筆に値した。
第一のポリシーは「自由と平等」で、これに反する者はその身分に拘らず社会から追放された。
ロシア・コサックがロシア帝国の軍事組織として残り、現存しているのに対し、ウクライナ・コサックは完全に解体され、その多くは農民に戻った。一部は南ブーフ川やドニエストル川、のちに黒海方面へ逃れ、その地で新しいシーチを開いた。
コサック逃亡の伝統に則り、トルコ領へ逃れたものもあった。カフカース方面へ逃れた一部は、のちにクバン・コサックと合流した。
20世紀に入り、ウクライナ・コサックは再び歴史の表舞台に立った。
1917年にウクライナ中央ラーダがウクライナの政府として成立すると、ウクライナ・コサックの代表者も政府に参加し、また軍事部門も一部でウクライナ・コサック部隊が担った。

軍事
16~18世紀、まずヘーチマーンが指揮する軍があり、次にザポロージエの軍(シーチ銃兵隊)があり、地域ごとのコサック連隊(スームィ、ハルキウ、オクチィルおよびオストログ)が多数存在した。
さらにウクライナ右岸(ポーランドに所属)のコサック連隊(クリーニ)があった。
ヘーチマーンが指揮する軍隊は主にキエフ、ムィールホロド、プルィルークィ、ペレヤースラウ、ニズヒュン、ハドヤッチ、ルブヤン、ストラダブ、チェルニーヒフの登録コサックの連隊で構成され、さらに傭兵連隊もあった。
各連隊の兵力は一定ではなく(400~700名)、連隊は百人単位で分割され、百人を支配する長とスタルシナー(長老、そのスタッフはオサヴル1名、オボズヌィイ1名、コルネット奏者1名など)による指揮を受けた。
100人はいつかのクリーニを構成し、各クリーニはクリーニの長が指揮を取った。コサックは、えん月刀、マスケット銃、ピストル、弓、ダガー、棍棒、6つの刃の付いた棍棒など、さまざまな武器で武装していた。
彼らは東方の武器とヨーロッパの武器の両方を使ったが、通常、鎧は着用しなかった。軽騎兵で構成されたタタール軍相手の戦闘では互角の戦闘を行えたが、西欧列強の重歩兵部隊との戦闘が増えるようになると、次第にその存在意義は薄れた。このことが、ロシア帝国下でのウクライナ・コサック不要論のひとつの根拠となった。

後年への影響
ウクライナ・コサックの描かれた現代のウクライナの国章ウクライナ・コサックの存在は、その伝統が廃れたのちもウクライナ人の心の拠り所となった。
多くの文学作品や詩などで積極的にウクライナ・コサックが題材にされ、それは帝政・ソ連時代を通じて続いた。また、軽乗用車ザポロージェツィのように商品でもウクライナ・コサックのイメージが利用された。
ウクライナが独立を目指す時代にはウクライナ・コサックのイメージが用いられた。
ドイツ帝国の傀儡国家として成立したウクライナ国でも、ウクライナ国民への懐柔策としてウクライナ・コサックのイメージが大いに利用された。また、その首領は「ヘーチマーン」を名乗った。
独立後のウクライナでも、到るところでウクライナ・コサックがキャラクターとして用いられているのを目にする。
紙幣にも、ウクライナの「初代」大統領ミハイール・フルシェーフスキーや国民的詩人レースャ・ウクライーンカに並んで2人のウクライナ・コサックが選ばれている。

作品の感想

『隊長ブーリバ』は1835年に発表された作品である。
主人公は題名にもなっているタラス・ブーリバ。彼の行動を中心に仕上げられている作品であることはいうまでもないが、様々な視点で読み深めていくことも大切だと思います。

ドストエフスキーやトルストイと共に19世紀のロシア文学を代表すると称されるゴーゴリであるが、その人生の大半をロシアの中心都市で送っているわけではない。
生まれはウクライナ地方。ペテルブルクで創作活動を行った時期もあるが国外に逃亡した生活も長く送っている。

『隊長ブーリバ』はゴーゴリの思想を如実に反映したリアリズム作品でありロマンチズム作品であると思う。
中心的な登場人物は題名にもなっているタラス・ブーリバ長男のオスタップ次男のアンドリイである。それを取り巻くようにユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長、長老、隊長たち..。

皆さんはこの作品を読んでどのような感想を持っただろうか。
リアリズム作品の特徴といってよいと思うが、どのような視点で読むのかによって一人一人の登場人物への印象は180度変わってしまう。 もちろん題名になっているタラス・ブーリバを中心に描かれているのだから、彼の視点で読み進むのが正道かもしれない。しかしそれでもタラス・ブーリバの行動や思想の全てを肯定的に受け止めることは、私にとってほとんど不可能だ。
だからとって彼の行動全てを否定しようということではない。ゴーゴリ自身が作品の中で書いてもいるが、いいとか悪いとかの判断以前にそうした時代が存在していたということだろう。

タラス・ブーリバの生き方

この作品の主人公にして、最も評価が分かれる登場人物だ。
いかなる状況にあっても部族の誇りと自らの信念の旗を降ろすことなく、戦い続けた英雄。これが主題的な評価だろう。

別の視点からみれば、こんな見方もできる。
→自分自身の信念を無条件に息子達を従わせようとする器量の狭さがあったかも知れない。
→小休止的とはいえ一時の平和な状態を、自らの思いのみで存在しなくてもよい闘争を捏造し、多くの同胞たちの生命を奪う元凶をつくった。
→ぎりぎりの二者択一の決断に際して、個人的な理由を、さも大義名分があるかのように言葉で言い繕い、多くの同胞たちの運命を強引に変更させてしまった。
→次男アンドリイの微妙な、しかし決定的な行動を目にしながら察知することができなかった。
→意味がないとわかりながら子息を神学校に進学させるという常識的な子育てをしながら、卒業帰宅と同時にそうした学業の蓄積を活かそうともせず、戦場に赴かせるという重大な決断を、母親や当人達の意思を聞くことなく、独断で決定した。
→民族的、時代的な要因が大となり、女性への蔑視、軽視が著しい。
→ロシア正教への信仰の忠実忠誠が、異教徒の排斥、殺害という痛ましい行為を生み出している。
→自民族の誇りがそうさせているのだろうか、他民族の人達への対処は、望ましい人の行為とは到底言えるものではない。特にユダヤ人への蔑視、こういう奴らだという決めつけの認識には根深い偏見が如実に横たわっている。
→次男アンドリイの裏切りが明白になり、自らの手で我が子を殺害する。生涯をかけて更正させる道もあったのかもしれない。
→囚われの身になりながらも我が同胞に逃げ延びる方途を指し示す。どのような状況にあっても信念に生き、最後の瞬間で希望を捨てず行動し続ける姿には多くの共感が生まれたに違いない。
→同胞たちが戦いに負けてもなお一人戦い続ける老兵タラス・ブーリバの姿に自分自身の最終章の生き方を重ね合わせる人達も多くいることだろう。
そうした点もありのままにみていくことがタラス・ブーリバの評価には必要ではないかと思う。

長男のオスタップの生き方

いわゆる優等生的人生の典型と思う。
10代から20代初めまでの多感な時期に、体制や親世代へ反発もするが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。その後は忍耐、努力の季節を地道に積上げて故郷に戻ってくる。
知識として学んだことを、実践の中で血とし骨肉としていく過程は私たちの現実生活にオーバーラップする感覚を覚えるだろう。
そして一貫して、組織の中のリーダーであり、親であり、人生の師匠である父タラス・ブーリバの行動から自らの生き方を受継いでいく。

次男アンドリイの生き方

長男オスタップに比べるとある意味で「現代人」ぽい。
オスタップほどには自分の自身の思いを表にあらわすことはなく、回りの大人達との摩擦を起こすこともない。異性への関心に代表される個人的な感情は内に秘めて、決して他言はしない。親にも言わない経験を有している。
表面的には一貫して従順な態度をみせ続けるが、本心は必ずしもここにあるわけではない。
最後は、恋愛感情を持った女性への思いを最優先し、同胞たちとの絆をあっさりと捨てて、敵方につく。そしてその流れのままに、生まれ育った故郷の同胞たちを何の心の呵責もなく殺戮していく。
そんなアンドリイでも、最後の最後で父親タラス・ブーバの前に出た時には、剣を振り上げるどころか父親の顔をまともにみることができない。
アンドリイがみせた行動は、別の視点でみれば純愛物語ともいえるかもしれない。舞台設定は異なるがアンドリイの生き方に焦点を当てて主人公として物語を再編するならば「ロミオとジュリエット」のような思いを抱く読者も多く出てくることだろう。

長男オスタップと次男アンドリイを分けたものは

他にも、ユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長などに焦点を当てて、その思想と行動をみていくだけでも、色々な思索が深まってくる。
私たちの生きる現代社会にもおいても、直接的に訴えかけてくるテーマも多い。
ひとつだけ指摘したい。
それは二人の息子、長男オスタップと次男アンドリイの人生を分けたものは何だったのかというテーマである。

偉大な父達が築き上げた一時代。そのあとを生きる次の世代たちがどのように自らの人生を切り拓いていくのか。挑戦する人生を選ぶのか選ばないのかという選択も含めて、これはまさに、現在を生きる我々が直面している大きな難問である。

経済的も一定の豊かさを手に入れた現在。
貧しさからの復興を目指してがむしゃらに働くことが人生の最大の目的として生きてこれた時代は、既に過去のものになってしまった。
人生の哲学思想を真剣に求めたのも、いわゆる親世代の人々だったのかもしれない。
その時代の人達が、子ども世代に「自分達のように生きろ」と訴えても、原体験を持たない次世代の若者達はどこまで我が事として実感し、実践することができるのだろうか。
時代を超えて積上げてきた経験や哲学を継承すること、後継者を育成することは現代を生きる私達にとって最大の課題である。
同じタラス・ブーリバの子供であっても、同じよう接した(と親世代としては思っていた)二人の息子、オスタップとアンドリイの人生は、明白に分かれてしまった。
それも180度もの違いを見せて。
その違いは、どこで、なぜ、生まれてしまったのであろうか。
私たちが『隊長ブーリバ』から学ぶことのひとつが、こんな視点にもあるのではないだろうか。

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