桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第36回】

『蒼き狼』(井上靖)

開催日時 2008年3月22日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館(第二和室) 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

主人公は成吉思汗(チンギスハン)。
ジンギスカンともチンギスカンとも呼ばれている、地球上で最大の国家を創り上げた英雄として名を残すこの人物の一代記が『蒼き狼』である。
モンゴル族の首長の家に生まれ育った成吉思汗(幼名・鉄木真=テムジン)。
それまで多くの部族が乱立していたモンゴル高原を舞台に、彼が国家統一を果たせた背景には何があったのか。蒙古民族の歴史にあっても成吉思汗の成業は異質の光を放っている。彼の前にも後にも、大国家を目指す人物はまったく見当たらない。
人間のアイデンティティの喪失が叫ばれて久しい。
そんなことが熱く語られた時代から20数年が経過し、そんな言葉すら聞かれなくなった。
しかしその現象はアイデンティティが回復したり再確立されたことを意味するものではないのは、多くの人達が感じていることだろう。
井上靖さんはこの作品を執筆した動機を次のように書いている。
『歴史上の人物で書きたい欲望を起こさせるものは、私の場合は大抵その人物の持っている理解しがたいところである。全面的に何から何まで理解しがたい場合は、もちろんその人物とは無縁であって、初めから書いてみたいと言うような気持は起こらないが、その反対に何かもよく判っている人物の場合もまたそれを書こうという気持はならないものである。 成吉思汗の一生を書いてみようかという気持になったのは、その人物が一応理解できながら、一点判らない納得が行かぬところがあったからである。 それは彼の征服慾の根源であり、その秘密であった』
成吉思汗自身を侵略と戦闘に駆り立てたものは何だったのだろうか。そしてそれはどこから生まれきたのだろうか。
『上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。
その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。
大いなる湖を渡りて来ぬ。
オノン河の源なるブルカン嶽に営盤して生まれたるバタチカンありき』
『蒼き狼』の題号はここからとられたものだ。井上靖さんはこの蒙古民族共通の伝承の語りにその源を見たのだ。

当日の参加者は3名と少なかったが、読後の関心は多岐にわたった。
※当日の論点からいくつか記述しておきたい。

領土拡大へ駆り立てた精神的源泉は何か?

井上靖さんは、成吉思汗が領土拡大に死力を尽くした源泉を血の証明に求めている。
これは蒙古民族の歴史を語る上で最も信頼されている、唯一といっても過言ではない『元朝秘史』(『モンゴル秘史』とも呼ばれる)の冒頭に記述されている民族発祥にまつわる伝承である。
成吉思汗自身が父と仰ぐエスガイの子どもなのか、それとも他部族の見知らぬ男の子どもなのか。その迷いはすなわち、自分は果たして蒼き狼の末裔なのかという命題に通じる。
成吉思汗は、男は50歳になった時に本当の姿が現れる、モンゴルの末裔は狼になるという言葉を信じて、自ら戦い続ける道を選択した。

自分自身が真の後継者なのか。
その証明は自らが戦い続けることで明らかになる。
強烈な、衝撃的な印象を受けたシーンである。

成吉思汗の歴史的評価

モンゴルを代表する文学者であるドジョーギーン・ツェデブ博士(モンゴル国立文化芸術大学・学長)も述べているとおり、成吉思汗の評価は二分されている。このことは成吉思汗だけのことではなく、歴史上に名を残している人物に共通する問題でもある。
現在の歴史は基本的に自国史観で編纂されていることも大きな要因であるが、現在に至るまでの国家統一をめぐる世界の歴史はまぎれもなく大量殺掠のうえに成り立っているという事実が大きいと私は思っている。
歴史の中で無血革命の重要性が大きくクローズアップされてきたのは、わずか数十年のことである。
インド独立の父であるマハトマ・ガンジー、黒人解放の指導者であるキング牧師などの行動によって、非暴力革命がやっと評価され始めたばかりといっても過言ではない。
日本においても、世界においても、英雄の活躍の名のもとに、数え切れないほどの人命が奪われている。明治維新において江戸城明け渡しが無血開城されたと言われたりするが、そこに至るまでやその後の紛争で多くの人命が奪われているのは紛れもない事実だ。
聖徳太子や室町、鎌倉の時代、織田信長や豊臣、徳川の時代を経て第二次世界大戦に至るまで、多くの人命が奪われてきた。
決して成吉思汗の行動を正当化するものではないが、ひとつの歴史認識として正確に事実を把握することも必要である。
その意味では、成吉思汗は紛れもなく侵略者の一面を持っていた。
それと同時に、誰もが安心して暮らすことができる境界なき広大な領土を築かんとして世界最大の国家を現出させた英雄であった。

行動の源泉は『蒼き狼』の証明だけだったのか?

行動の源泉について、別の観点でも考察しておきたい。
「モンゴル族であれば50歳で狼になる」として戦い続けたにも関わらず、50歳になった時の後継者の証明に関する記述が作品中に見当たらない。
「1212年、成吉思汗は大同府に於て50歳の春を迎えた」と始める文章から数ページの記述があるが大きな出来事もない。この年には大軍を動かさなかったという記述さえある。
井上靖さんほどの作家が、自身が提示した重要なテーマを書き忘れたとは考えにくい。
では、自分自身の本当の姿がわかるとした50歳を単なる通過点のようにしか記述されていないのは何故なのだろうか。
これにはいくつかの考察が加えられるべきであろう。
私なりの考えも提示したい。

【1】血統の照明は年齢で区切れるものではないと気付いた
ひとつは、50歳という期限で明らかになる真実ではないという考え方に成吉思汗自身が進んだという見方だ。
これは、自らと自身の後継者達に戦い続けることを宿命として課したことからも推測できる。物事とは常に変化し続ける。人生において、よりよき方向へ変化を続ければ人間的成長となり、悪しき方向であれば堕落といわれるだろう。宇宙そのものが変化を続けていることからも類推できるように、変化をしないで一定の状態を保ち続けることは不可能だと私は思う。
現在の学説では宇宙は常に成長し続けている。であるならば、そのリズムの一端を担う私達も成長し続けることは使命ともいえまいか。また成長し続けることが喜びと感じられる生命こそが自然の摂理にかなっているともいえる。
そうした意味においても、50歳で真実が確定するというのはある意味で不自然である。
いったん戦い始めた成吉思汗が、生涯闘い続ける道を選んだことは、宗教的理念を有していたと思われる彼にとって自然な結論だったのかもしれない。

【2】領土拡大の野望に複数の段階があった
ふたつめは、領土拡大の行動を一括してみるのではなく、いつくかの段階があったのではないか、という視点だ。あえて言えば様々な経験を経る中で「変貌した」と言えるのではないか。
成吉思汗の人生において、その方向性を決定づける出来事は場面場面で相当数にわたって現れている。
その中でも注目すべき事件がある。
それは「オトラル事件」だ。
この事件以前と以後では領土拡大の大義名分が明らかに違っているのではないかというのが私の視点だ。
現実的な状況として、成吉思汗、幼名テムジン(鉄木真)が戦いに入っていたのはなぜか。それは自分の家族の生活のためであり、モンゴル民族のためであった。
広大なモンゴル高原がありながら、悠々とした放牧生活が送れないのはなぜか。 それは部族間、民族間の争いがあり、多大な距離を置かないと安心した生活が送れないことに起因していた。そしてわずかな安穏があっても他民族の侵略にあって生命を奪われてきた歴史があったからである。
その阻害要因をなくすことを、テムジンは首長の後継者に生まれた自らの使命と定めたのだ。したがってモンゴル部族内の他氏族との戦いや韃靼などの周辺民族、そしてかつてのハーンをなぶり殺しにした金国への戦いには民族の存続繁栄をかけた大義名分があったのだと思う。

しかし、ホラズムへの開戦にはそうした民族存亡の大義名分は限りなく小さい。
その後の拡大志向の理由を考えてみても『蒼き狼』の証明だけでは納得しがたい面が出てくるように感じている。4代目のフビライに至るまで友好拡大の意向が重視されていたことも推測できる事象がいくつもある。
そうした考えを持ちながらも、信義に劣る者達へは容赦ない殲滅的行為を浴びせかける。老齢者や女子供に至るまで屍の山を築いていく。
この相反する精神を共存させられたのは何故だろうか。
オトラル事件を経て、成吉思汗の行動原理が大きく変質したと見るのが妥当ではないだろうか。

様々な視点・テーマ

他の視点として
・成吉思汗のもっていた人間観
・成吉思汗と後継者たちの歴史的評価
・モンゴル帝国の繁栄と衰亡
・女性たちの果たした使命
・成吉思汗・義経伝説
などもある。
この続きは別の機会に考えてみたいと思います。

成吉思汗(ジンギスカン・チンギスハン)

チンギス・ハン(1162年5月3日?~1227年8月18日)
モンゴル帝国の初代大ハーン(在位1206年~1227年)
モンゴル族の首長の家に生まれ育った成吉思汗(幼名・鉄木真=テムジン)は、それまで多くの部族が乱立していたモンゴル高原を舞台に、中国北部、中央アジア、イランを飲み込んでユーラシア大陸全土に広がるモンゴル帝国を築き上げた。チンギスハンの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。
とくに故国モンゴルにおいて、チンギス・ハーンは神となり、現在のモンゴル国においては国家創建の英雄として称えられている。ただし、1921年の社会主義革命後、1924年から1992年まで存在したモンゴル人民共和国の時期は、ソビエト赤軍の影響下にあり、チンギスハンの存在が否定された。
2002年5月3日には生誕840年行事を開催。
チンギスハン即位800周年にあたる2006年には60余の記念行事が開催され、一連の文化行事は国連において「文明間の対話のためのプログラム」に承認された。

『蒼き狼』をめぐる論点

▼『蒼き狼』を貫くテーマ
上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。
その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。
大いなる湖を渡りて来ぬ。
オノン河の源なるブルカン嶽に営盤して生まれたるバタチカンありき。
▼テムジン生誕の真実は?
▼チンギスハンの領土拡大の源泉はいずこから? 《井上靖氏の執筆動機》
歴史上の人物で書きたい欲望を起こさせるものは、私の場合は大抵その人物の持っている理解しがたいところである。
全面的に何から何まで理解しがたい場合は、もちろんその人物とは無縁であって、初めから書いてみたいと言うような気持は起こらないが、その反対に何かもよく判っている人物の場合もまたそれを書こうという気持はならないものである。
 成吉思汗の一生を書いてみようかという気持になったのは、その人物が一応理解できながら、一点判らない納得が行かぬところがあったからである。
 それは彼の征服慾の根源であり、その秘密であった。
▼チンギスハンは英雄か?侵略者か?
・ ヨーロッパ、ソビエト等から評価した自国史観
・ 侵略戦争における多大な人命が失われた事実
▼チンギスハンを支えた英雄たち
ジュチ  チャプタイ  エゲデイ  ツルイ  ムカリ  ジェルメ  ボオルチュ  ジェペ  スブタイ  カサル  ベルグタイ  チンベ  チラウン  ソルカン・シラ  シギ・トク  耶律楚材  長春真人  トオリル・カン  ジャムカ  ムンリク  ゴルチ 
▼チンギスハンの持っていた人間観とは
・ 体を従えるよりも、心を従えよ。心従うならば、体は何処に行かん。
・ 体が強靭でならば、一人に勝つ。心が強靭ならば、多くの人に勝つ。
・ 三人の賢人が同意する言葉であれば、いずこで述べてもよいが、そうでなければ、その言葉は信頼してはいけない。
・ 自身を知るがごとく、他人のことも知っていくべきである。
・ 帝深沈にして大略あり、兵を用うること神の如し(『元史』)
▼オトラル事件のもつ意味
▼1世紀を超える繁栄の源泉とは?
・ 腕力に長ける為政者は、自分の時代だけを栄えさせる。英知に長ける為政者は、後世をもサカエさせる。
・ 後継者に三男オゴディを指名《後継者指名にみるチンギスハンの為政観》
・ 創業は易く、守成は難し(『十八史略』)
▼モンゴル帝国の国家システム
・ 高度な製鉄技術
・ 鋭利な鉄製武器と鎧に裏打ちされた様々な戦法を駆使
・ 文字文化の導入
・ 盛んに行われていた翻訳活動→積極的に異民族の先進文化を取り入れる
・ 民族や出自にこだわらない人材登用
・ モンゴル史上初の成文法「ヤサ法」の制定
・ 信教の自由を保障
・ 国の為政者は本来、宗教的な人間でなければならない。
・ 信仰を通して、常に大いなる存在との繋がりを感じ、謙虚であれ。
▼元寇の歴史的評価
▼チンギスハンと後継者たちの歴史的業績
・ 駅や道路を造り、東西交流の扉を開いた。
・ 東西多国間の交易網を発展支援し、通商路の安全を保証した。
・ 外国人の学者・職人を評価支援し、これらの人々の活動を保証した。
・ 国際的な外交倫理の形成に貢献した。
・ 世界各国の軍備、戦術の整備に影響を与えた。
・ その後の統一強大国家建設のモデルとなった。
▼『蒼き狼』における女性の果たした役割
・ ホエルン
・ ボルテ
・ 忽蘭
▼モンゴル帝国衰退の要因とは
・ 地球規模の異常気象
・ チンギスハンの諭話「一つの頭に千の尾を持つヘビと、千の頭に一つの尾を持つヘビ」

作者:井上靖(いのうえやすし)

1907年5月6日、北海道旭川で生まれる。父隼雄は旭川第七師団勤務の陸軍軍医で、井上家の養嗣子。井上家は代々伊豆の医家で、曾祖父潔は初代軍医総監松本順の門下で、名医の評判が高かった。
6歳の時、妹が生まれるなどで人手が足りなくなり、一時的に伊豆に預けられるが、義理の祖母がかわいがり、離さなかったので、小学校時代をずっと湯ヶ島ですごす。
一年浪人して、当時、父の任地だった浜松の中学校に入学。
1927年、一年浪人して金沢の第四高等学校に入学。医者になるために理科を選ぶが、文科に転ずる。
1930年、九州帝国大学法文学部に入学するが、試験を受ければ卒業できるとわかり、上京。辻潤、高橋新吉などが立ち寄る駒込の下宿屋で気ままな生活をはじめる。三年に進む時、京大哲学科が定員割れで学生を募集したのを知り、京大に移る。
「サンデー毎日」の懸賞小説に応募し入選。当時、大学出新入社員の年収の半分にあたる賞金を手にする。半年ごとの募集に変名で応募し、毎回入選。小説が好評で新興キネマ脚本部に籍をおく。
1935年、卒業を延ばすために試験を放りだし、戯曲「明治の月」を書きあげる。「新劇壇」に掲載され、守田勘弥の目にとまり、その年の内に上演されるが、モラトリアム生活をつづける息子を心配した親の勧めで結婚。
翌年も留年するつもりだったが、新妻の懇願でやむなく卒業。
懸賞小説が機縁となって「サンデー毎日」編集部に誘われて毎日新聞大阪本社に入社。1937年、支那事変に召集されるが、翌年、病気除隊。毎日新聞学芸部に復帰。文章力を見こまれ、敗戦の日の記事をまかされる。
1948年、書籍部に移り、東京に単身赴任。ふたたび小説を書きはじめ、翌年「猟銃」が佐藤春夫の推薦で「文學界」に掲載。
1950年、第二作「闘牛」で芥川賞を受賞。小説の注文が殺到し、この年、『黯い潮』、『その人の名は言えない』と短編集『闘牛』、『死と恋と波と』、『雷雨』を刊行。翌年、新聞社を辞め、作家専業となる。
この後、多くの作品を発表。代表作に1958年『氷壁』、『天平の甍』、1959年『敦煌』、『楼蘭』、1960年『蒼き狼』、1962年自伝小説『しろばんば』、1963年『風濤』、1966年『おろしや国酔夢譚』、1981年『本覚坊遺文』などがある。
文化勲章、芸術院賞、芸術選奨、読売文学賞、毎日芸術大賞、新潮日本文学大賞、野間文芸賞など、数多く受賞。ノーベル賞候補になる。 1991年1月29日、死去。83歳。

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