桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第37回】

『こころ』(夏目漱石)

開催日時 2008年4月26日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館(第二和室) 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

今回取り上げる作品は夏目漱石の『こころ』。日本人なら誰もが知っている夏目漱石。彼の代表作のひとつが『こころ』である。
作品は
「上 先生と私」
「中 両親と私」
「下 先生と遺書」
の三章から構成されている。作品の主題が最も反映しているのが「先生と遺書」であることは漱石自身も記述している。
生と死が大きなテーマとして描かれる本書。遺書という言葉からもわかるとおり、主人公の「私」が先生と呼んでいる人物の死は自殺によってもたらされた。その自殺は過去に自殺した人物とそれにまつわる出来事、心の葛藤に起因している。
生と死という人生における根本的命題に、この作品はどのように迫っているのだろうか。
果たして夏目漱石の作品とはいかなる評価がなされるべきか。
書店を見ると「文豪・夏目漱石」という言葉も踊っている。
その実態はどうか。
以前より、この点について、私は大いなる疑問を持っている。
日本における一人称小説の第一人者とも言われる夏目漱石の作品をじっくりと読んでみたいと思います。

日本を代表する文豪「夏目漱石」

夏目漱石は千円札の肖像画にも使われた日本を代表する小説家と言われている(現在の千円札は野口英世に変わっている)。
その漱石の代表作の一つが『こころ』である。
この作品は後期の三部作を構成する作品でもあり、漱石の心象風景を端的にあらわしているとも見られている。多くの日本人が中学校の国語の教科書等で目にし、読書感想文を書いたりしたことがある作品だと思います。

『こころ』あらすじ


上 先生と私

鎌倉の海岸で「先生」と出会った「私」は、先生の自宅を訪ねるようになる。
先生は仕事をすることもなく、人との交流もない。雑司が谷にある友人の墓に深い因縁があるらしい。
一方、私の故郷では父親が腎臓病を悪化させたため、一時帰国する。
幸い生死を彷徨うようなことはなく、私は卒業論文に取り組む。財産の処分をよく行なうように助言する先生の過去には深い因縁があるようだが、今は話せない、適当の時機がくれば必ず私に話すという。
先生の助言を得ながら卒業論文を仕上げて無事卒業した私は職に就くこともなく、故郷に帰省することにした。

中 両親と私

帰省した私は、小康状態を続ける父親のそばで過ごす。
親族を集めて卒業祝い宴の準備が進められるが、明治天皇の崩御の報が入り行なわないことになる。
その間、就職を依頼しろという両親の勧めもあり、先生に書簡を送るがなかなか返信が届かず「ちょっと会いたいが来れるか」との電報が届く。
乃木大将が明治天皇に殉じて自害。
父親の容態は徐々に確実に衰弱していく。余命いくばくかとなり、子供達が集った最中、私の元へ先生からの手紙が届く。遺書だった。
私は東京行きの汽車に飛び乗り、先生からの手紙に目を通す。

下 先生と遺書

先生はこの手紙(遺書)を書き出すに至る経緯を述べた後、両親を亡くした10代後半から書き起こす。叔父の横領と決別。未亡人と娘(御嬢さん)の住む家に下宿した経緯を綴り、その後その家に経済的に行き詰った友人Kを同居させる。
家族の温かさに触れ精神的に開かれていくKが御嬢さんに恋しているのではないかと疑心暗鬼になる私の心象風景が描かれる。
ついにKから私に御嬢さんへの思いが告げられるが、私は自分の気持ちを明かさず、Kに精神的打撃を加えることを画策。望みどおりにKを打ちのめした私は即座に未亡人に御嬢さんとの結婚を申入れ、受諾される。
その数日後、未亡人からその事実を告げられたK。通常を変わらぬ生活を送るが夜半自室にて自殺する。
私は、実家から事実上勘当されたKの葬儀を全て行い、生前Kが口にしていた雑司が谷に墓を建てる。2ケ月後私は大学を卒業し、卒業から半年後に御嬢さんと結婚した。
私は妻にも誰にもKとの経緯を話すことなく現在に至った。明治天皇の崩御に際して妻の言葉の殉死が意味を成してきて、この手紙を書き終えて自殺することにした。

少なくない矛盾点

今回改めて読み返してみて、正直なところ少なからずの違和感を感じた。
一例を挙げると、読み通した最初の読後感では「先生」の奥さんが「下 先生と遺書」で描かれている御嬢様と一致しなかった。どうしてなのだろうかと強く疑問に感じた。
何がひっかかるのだろうか。気持ちを整理しながら考えると大小いくつか納得の行かない点がみえてきた。
事実関係や文脈の矛盾点の一例を挙げてみる。

(1)先生の奥さんはKの墓に行ったことがあるのか、ないのか
「上 先生と私」の六章の終わりではその墓には「自分の妻さえまだ伴って行った事がない」と明言しているにも関わらず、「下 先生と遺書」五十一章で、先生の奥さんは自らKのお墓参りに行こうと言い出して二人で墓を見舞っている。

(2)先生から私へ送られた手紙の数
「上 先生と私」の二十二章で「私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない」として、父親の病気見舞いの際の旅費借用の礼を述べた手紙への返事と最後の長文の手紙のみだとしている。
しかし同じ「上 先生と私」九章では先生の夫婦仲の良さを記述する中で「私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている」「日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った」と少なくとも別に2通存在しており、二十二章との記述と矛盾を起こしている。

上記2点は明らかな矛盾である。
一部の文学研究者は、夏目漱石ほどの文豪が誤謬を犯すわけがないと確信しているのか、間違いだと言ってしまえばそれ以上の思索は断絶してしまうとして、1点目は奥さんが言い出して一緒に行ったのだから先生が伴っていったという事実はないと解釈できる、2点目は旅行先からの手紙は先生からではなく奥さんが書いてよこしたのだろうという「文学的解釈」を施している者がいた。書籍として出版している輩さえいて、私も実際に読んだが...。
あきれてしまう。何を言わんかという感じだ。
こんな屁理屈で文学研究をしているつもりだろうか。地に落ちたものだ。

その他にも、臨場感を出そうとしているのか、ありのままを描くのが漱石流だというのだろうか、全体の文脈と関係ない展開、記述も多い。正直な感想として、文字数を増やすためにだらだらと書いているのではないかという印象を持った箇所も複数ある。

『こころ』の主題

そもそも漱石は『こころ』で何を描きたかったのだろうか。
書評や作品の紹介文では、学生時代に親友(作品を少し読むと必ずしも親友と呼べるかどうかは疑問があるが)Kを自殺に追いやったという自責の念に苛まれながら、遁世の生活を送る「先生」が、明治天皇逝去と乃木大将自害によって自殺を決意し実行した...そのようなストーリーが書かれている。
それを学生である「私」が見続けて文章にしたというのが作品の概要のように思われる。

作品が発表されたのは大正三年の4月から8月。朝日新聞の契約作家であった漱石の手によって110回にわたって連載小説として発表された。
明治天皇崩御後さほど経過していない時期でもある。作品後半の内容は実際に起こった天皇への殉死という形のため話題性も高かったと思われる。
時代を経た私達が読むと「なぜ先生は自殺を選んだのか」という重大なテーマへの思索を追求してほしいという気持ちが沸々と涌いてくるが、漱石は
「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私が自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」
「あるいは箇人の有って生まれた性格の相違といった方が確かも知れません」
と記述し、その先の思索を終わらせている。
様々意見もある点だと思うが、私個人としては「それならなぜこの話題を描くのか」という疑問というか、不満が残る。

「先生」と呼ぶ意味

主人公である私が出会ったこの人物を「先生」と呼ぶ点についても、当初、漱石は甚深の意味を持たせようとしたのだろうか。
作品の書き出し「上 先生と私」一章の第一段落で、その人を先生といいたい、よそよそしい頭文字などはとても使う気にならないと、記述している。
作品を読み進めると誰にでもわかるが、そう言われた当人の「先生」は人生最後の手紙で、人生に大きな影響を与えた子供の時からの友人を「K」と頭文字で呼んでいる。
この記述を行なうことを念頭に置きながら、小説の書き出しにこの一文を置いたことは想像に難くない。
しかし、こうした点についても漱石自身が思索を深めた記述を行なっていないので詳細は全く不明だ。

作品の感想

とかく教科書等を通じて「下 先生と遺書」での心理描写を部分的に読まされてきた感がある私達である。
読み通してみると、確かに読みやすくて、次へ次へと読み進めることができる。その意味では漱石の筆力は尋常を超えたものだと感じる。
しかしそれと同時に、生活と文筆生活を保障するためとは言え、朝日新聞の契約作家となった代償はあまりにも大きかったのではないだろうか。
前述の作品内の矛盾もほぼ毎日の長文書き下ろしを考えれば完全なケアレスミスだろうし、致し方なかったのではないかと推察する。
一方で、第一次世界大戦へと突き進む軍国日本にあって、日本人による質の高い文学を創出した功績はあまりにも偉大だ。
ただ問題視すべきは、単行本として出版する際に殆ど校正を行なわなかった点だろう。世間に文章を発表する者として、もう少し責任を持ってもよかったのではないか。
そういうと「いやいや漱石は則天去私の精神で書いたのだ」という声も聞こえてきそうである。

作品の感想

すでに他の方々も指摘していると思うが、当日のディスカッションでも「この作品は『下 先生と遺書』だけにすればもっと締まってよく作品になるのでは」という意見が出されていた。
上中下の文字数のアンバランスさも誰もが気になる点だろう。
この点については、この新聞連載の後に予定していた志賀直哉が急遽執筆を断ったために、次の執筆者を探すまでの間書き続けないといけない事情が発生し、当初よりも、「下 先生と遺書」の部分が長くなった。
これはこの遺書が400字詰原稿用紙換算で300枚余りになるにも関わらず、「中 両親と私」(この第二部がどのような意味を持たせたかったのかも今となっては少なからず疑問である)の終盤(十七章)で、この手紙は四つ折りに畳まれてあったと記述している。
さすがに原稿用紙300枚を四つ折りにはできない。
「中 両親と私」を書き終えようとする時点では「下 先生と遺書」は現在の文字数よりも相当短いことを想定していたことが容易に推察できる。
いくつかの観点でみてみると、ふと自然な気持ちで思った。
「夏目漱石は本当に大文豪と呼べるだろうか」。

それともうひとつ蛇足で。
日本銀行のお札に載せる偉人って誰がどこで決めているのだろう。
とっても疑問だ。

『こころ』と夏目漱石 いくつかの論点

『こころ』のテーマ、モチーフとは何か
作品を通じて感じる校正の荒さ
文脈的な明らかな矛盾をどのように考えるか
夏目漱石にとっての文学とは
夏目漱石が有する哲学、信念、生き様とは何か
果たして、夏目漱石は文豪なのか
奥さんの感情の変遷はどうなのか

作者:夏目漱石(なつめそうせき)

慶応3年1月5日〈旧暦〉(1867年2月9日~大正5年(1916年)12月9日)〈新暦〉
小説家、評論家、英文学者。本名、金之助。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の大文豪である。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。
帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊つちやん」「倫敦塔」などを書く。
その後朝日新聞社に入社し、専属契約の作家として「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。晩年「則天去私」の心境を語ったといわれる。終生、神経衰弱と胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

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