桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第38回】

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)

開催日時 2008年5月24日(土) 14:00~17:00
会場 石神井公園区民交流センター(2階・第二和室)西武池袋線石神井公園駅・徒歩1分

開催。諸々コメント。

ドイツが生んだ世界的詩人と問えば多くの人達がゲーテの名をあげる。それほどゲーテの名声は確固たるものになっています。 そのゲーテが25歳の時に発表し、その評価を一気に不動のものにしたのが『若きウェルテルの悩み』です。 この作品は主人公ウェルテルが友人に書き送った書簡という形で構成されています。 弁護士となったゲーテが小さな田舎町に赴いた時に出会った一人の女性シャルロッテ・ブッフへの激しい思慕の情がモチーフとなっています。 作品ではロッテという女性として描かれます。舞踏会で出会った彼女には既に婚約者がおり、その男性アルベルトはウェルテルの先輩の法律家。 寛容なアルベルトはウェルテルと親しい友人として接するがロッテへの思いに耐えかねたウェルテルは別の町の公使館に職を得て彼らの元から去っていきます。 新しい職では人間関係に悩み、そんな最中にロッテの結婚の報を聞いたウェルテルは放浪の旅に出る。 そしてその後の結末は...。

作家ゲーテ

ゲーテは1749年にドイツ・フランクフルトに生まれた世界的な名声を博している詩人、作家です。
作品を読んだことはなくても、その名前を知らない人は稀だと言っていいでしょう。 代表作には『ファウスト』が挙げられますが、今回は短編の中の名作といわれている本作品を取り上げました。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)

1749年8月28日~1832年3月22日。
ドイツ、フランクフルトに生れる。ライプツィヒ大学で法律を学ぶ。弁護士を開業。
1774年、ドイツ帝国最高法院で実務を学んだ時期に経験した恋愛をモチーフにして『若きウェルテルの悩み』を発表。大ヒットセラーになった。
その後も次々と詩集、戯曲、小説などを発表。ワイマル公国に招聘され、大公に信任を得たゲーテは大臣、内務長官、宮廷劇場総監督を歴任。
1831年、ゲーテ自身の人生を賭けた不朽の名作『ファウスト』を着想から60年の歳月を費やして完成させた。
1832年永眠。享年82歳。

作品のあらすじ

本作品を読まずに書評やあらすじだけを読んだ人の印象と、全編を読み通した人との印象は、かなり違いがあると感じています。 それは作品の底流に流れるゲーテ自身の思想が随所に織り込まれているからだと私は思います。
あらすじだけを追ってしまえば...

主人公ウェルテルは、ロッテという女性と出会い、その魅力の虜になる。舞踏会で出会った彼女には既に婚約者がおり、その男性アルベルトはウェルテルの先輩の法律家でもあった。
寛容なアルベルトはウェルテルと親しい友人として接するが、ロッテへの思いに耐えかねたウェルテルは別の町の公使館に職を得て彼らの元から去っていく。
新しい赴任先で人間関係に悩むウェルテル。そんな最中にロッテの結婚の報を聞いたウェルテルは放浪の旅に出て、結局ロッテ夫婦の住む街に舞い戻ってしまう。
次第に精神の均衡を崩していったウェルテルは回りの人達にその思いを隠すこともせず、自殺の道を選び、物語はジ・エンド。ロッテも最終章に至って自身の本当の気持ちに気づくが何もすることができなかった....。

そんな物語です。

ラブストーリーの底流にあるゲーテの思想

一読すると典型的なラブストーリー。
確かに当時を生きた民衆の感覚からみれば、純愛の心に純粋に生きるがために自殺という道を選ぶという選択肢は衝撃的であった。しかしそれも今からみれば定番と化した純愛小説だ...。
そんな評価をする人もいるかも知れません。

作品を構成する書簡ひとつひとつをゆっくりと読み進めると、ある事実に気づくはずです。
ラブストーリーという筋書きからみれば、あってもなくても大差ない手紙がいくつもあるという事実。
これらの手紙を通して語られるゲーテ自身の思いこそが『若きウェルテルの悩み』を名作に高めている大きな要因、魅力ではないかと、私は感じています。

「不機嫌」

一例として、「不機嫌」について書かれた箇所を挙げてみましょう。 7月1日付の比較的長くなっている手紙の一部分です。
不機嫌というやつは怠惰とまったく同じものだ。(中略) ぼくたちはそもそもそれに傾きやすいんだけれど、もしいったん自分を振い起す力を持ちさえすれば、仕事は実に楽々とはかどるし、活動しているほうが本当にたのしくなってくるものです。(中略)
自分をもはたの人をも傷つけるものが、どうして悪徳じゃないんでしょうか。(中略)
不機嫌でいてですね、しかもまわりの人たちのよろこびを傷つけないようにそれを自分の胸だけに隠しおおせるような、それほど見上げたこころがけの人がいるんなら、おっしゃってみてくださいませんか。
むしろこの不機嫌というものは、われわれ自身の愚劣さにたいするひそかな不快、つまりわれわれ自身にたいする不満じゃないんですか。
また一方、この不満はいつもばかげた虚栄心にけしかけられる嫉妬心と一緒になっているんですよ。
仕合せな人がいる、しかもぼくらがしあわせにしてやったんじゃない、さてそういう場合に我慢ならなくなってくる、そういうわけじゃありませんか。

実に身に迫る洞察だと私は感じました。
こうしたゲーテ自身の思想が底流を流れ、そしてウェルテルの行動の淵源となって作品に深く結びついている。これが『若きウェルテルの悩み』の作品としての欠かすことのできない深みとなっているのだと感じます。

人間ゲーテの真実

このほかにも、ウェルテルが回りの人達をどのように見ているのかという場面場面での描写、精神的に病を患ってしまった作男と「おまえがしあわせだったとき...」と語り、その人生の来し方に思いをはせる場面など、 細やかな心的描写とゲーテの思想が随所に織り込まれていきます。
そして圧巻は、ウェルテルが訳したオシオンの歌をウェルテル自身が朗読し、ロッテが自身の真実の思いに手が届くシーン。ここは今一度、実際にじっくりと読んでいただきたいと思います。

どこまでも、人間の心の底にある真実を見つめようとしたゲーテ。
幸福も不幸も結局は一人の人間の生命の底にある。
ゲーテは語る。
「人は誰でも生まれながらの自由な自然の心を持って、古くさい世界の窮屈な形式に順応することを学ばなければならないのだ。
幸福が妨げられ、活動がはばまれ、願望が満たされないのは、ある特定の時代の欠陥ではなく、すべて個々の人間の不幸なのである」

疾風怒濤期 『ウェルテル』の誕生

ゲーテはシュトラスブルク大学を卒業後、故郷フランクフルトへ戻る。
任官の試験を受けるが父親の願いであったフランクフルト市政に携わる仕事に就けなかった。弁護士の資格を活かして弁護士事務所を開設した。
弁護士の仕事は順調であったが、ゲーテは執筆活動に専念していく。
この頃ゲーテは作家ヨハン・ハインリヒ・メルクが主宰する『フランクフルト学報』で文芸評論を発表。
メルクは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』出版の際に大きな援助をしてくれる恩人となるよき理解者であった。
ゲーテは、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿『戯曲化された鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を執筆するなど、文学活動に没頭。
そんなゲーテに父は業を煮やし、法学を再修得させるため、1772年4月フランクフルト北方のヴェツラールの最高裁判所へと任官させた。
この赴任によって『若きウェルテルの悩み』が誕生する。

ロッテとの出会い

この地でもゲーテは、法律学ではなく文学に関心を持ち続ける。
ゲーテの当地での法学修得を伝える資料はほとんどない。ゲーテにとって、厳格な父の目の届かないヴェツラールの地は思う存分、文学に専念できる絶好の環境となった。
当地では、ゲーテにとって重大な経験に遭遇する。シャルロッテ・ブッフ(通称ロッテ)との恋、ヨハン・クリスティアン・ケストナー、カール・イェルーザレムなどとの出会いである。
これらの経験と出会い、彼らの行動が『若きウェルテルの悩み』のモチーフとなっていることは読者となった皆によくわかることである。
シャルロッテとの出会いは、友人たちの誘いで参加した舞踏会であった。
ゲーテは、15歳の彼女に一目惚れし、連日彼女の家を訪問するほど、熱烈な恋に落ちた。しかし、シャルロッテはゲーテの法律者としての先輩にも当たるケストナーの許婚であった。
しかしゲーテは彼女の魅力を振るい去ることができず、どんどんと思いが募っていく。
ゲーテは、彼女に何度も手紙や詩を送り、自らの愛を告白していく。
シャルロッテもゲーテの自分への愛の深さを知っていた。ケストナーはこのような事態に理性心で極めて寛大に振舞った。
友人のメルクからは、ケストナーからロッテを奪い取るべきだという強硬論さえ飛び出したという逸話が残っているが、ゲーテにはそうした行動をとることはなく、誰にも別れを告げることなく9月11日ヴェツラールを去った。
ゲーテにとって、わずか4ヵ月あまりの鮮烈な体験であった。

募るロッテへの思い。『ウェルテルの悩み』の誕生。

ヴェツラールを去ったゲーテは、フランクフルトへ戻り再び弁護士となる。
しかしシャルロッテへの思慕は日増しに募っていった。そんなゲーテに、シャルロッテとケストナーとの結婚が成立したという報が届く。
あまりの苦しさに耐えかねてに、ベッドの下に短剣をしのばせ、何度か自分の胸に刺そうと試みることさえした。しかし実際に死ぬことは当時のゲーテにはできなかった。
そんな状況のとき、ヴェツラールで知り合ったイェルーザレムがピストル自殺したという報が届く。原因は、彼は人妻を猛烈に恋したが、彼女に拒絶されたためそれを悲観しての自殺であった。
この友人の自殺によって『ウェルテルの悩み』の全体の構想が誕生することになった。

シュトゥルム・ウント・ドラング運動(独:Sturm und Drang)

18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動。『ウェルテルの悩み』 この名称は、ドイツの劇作家マキシミリアン・クリンガーの同名の戯曲に由来している。1767年から1785年までとする見解が主流だが、1769年から1786年、1765年から1795年とする研究者もある。
当時、イギリスの模倣でしかなったドイツ文学を鋭く批判。旧態依然とした中世的「神」の概念を払拭し、真に個性的なるもの、人間の内から湧きあがる生命本源の喜びを謳いあげようとした運動である。
この運動は、古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていく。
代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)などが挙げられる。
クラシック音楽では中期のハイドンが代表的である。
日本では「疾風怒濤」と和訳されたために「嵐と大波」という意味で理解されることも多く、本意が伝わっていない部分もある。ドイツ語から直訳すると「嵐と衝動」が正しいといわれている。

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