桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第39回】

『三国志』桃園の章・群星の章(吉川英治)

開催日時 2008年6月28日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 第二和室  西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

『三国志』の世界。
それは今から約1800年前の時代。中国を治めていたのは後漢の皇帝達。
汚職が横行し政治腐敗は常態化してしまった悪世にモラルを失った一部の庶民は黄巾賊と化し中国全土で略奪暴行が繰り広がられ、力なき庶民は貧しさと飢えに苦しんでいた。
世も末かと思われた時代に、闇夜を照らす彗星のごとく若者達が登場する。そしてそれぞれの理想と目標を掲げて自身の思い描く理想郷の建設を目指して戦いを繰り広げていく。
『三国志』の始まりである。
そして魏、呉、蜀の三国が覇権を争う時代、群雄割拠の『三国志』の世を迎え、そして栄枯盛衰を繰り広げていく。

彼らは何を願い、何を実現しようとしたのか。そうした古(いにしえ)の英雄達の精神はいま私達に何を訴えるのか。
日本人に三国志の精神を伝えた名著・吉川英治作『三国志』のエッセンスを共有してみたいと思います。

三国志の世界【概要】

「三国志」とは、魏・呉・蜀の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。
この時代の曹操・孫権・劉備らが合い争ったことは一般にも良く知られている。
その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として大成した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。

三国志の世界【あらすじ】

三国時代は今から1800年前の西暦200年ごろに中国大陸で起きた、内乱の時代。
184年の黄巾の乱から280年に呉が滅びるまでの約100年間。漢王朝が衰退して、各地で群雄が割拠して、そのなかから生き残った人が作った国が、魏呉蜀の3つの国である。
魏は曹操、呉は孫権、蜀は劉備が事実上の建国者。
紆余曲折の後、中国大陸の北半分をほぼ手中に収めた曹操。南部分は孫権の起こした呉が実権を支配していた。
青雲の志をいまだ達し切れない劉備玄徳は「三顧の礼」をもって諸葛孔明(諸葛亮)を自陣に迎え入れる。劉備と運命を共にする決意をした諸葛孔明は「天下三分の計」で、最初に曹操を倒し、その後に孫権を倒して天下統一することを提案。劉備はその策を受諾する。
そのときまだ国を持たない劉備は、関羽、張飛、超雲、諸葛孔明など、名だたる武将が配下にいたが、曹操の攻撃に大敗北。
曹操は、その勢いで残るは大陸の南東にある孫権の呉を壊滅しようとするが、劉備と孫権が手を取りあい、圧倒的優位にあった曹操を「赤壁の戦い」で見事に打ち破った。

勢力を盛り返した劉備は息を吹き返し、蜀(現在の四川省)を支配し、諸葛孔明が想定していた「三国鼎立」の形を成立させた。2つの脚ならすぐに倒れる。しかし3脚にすることによってお互いが拮抗することになり、圧倒的に劣勢であった劉備は、その力が拮抗しているうちに戦力を整えることに成功し三国時代に突入した。

蜀には、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠などの猛将のほか、諸葛亮やほう統という智将もおり、人材は豊富であった。土地も肥沃で蜀はよく栄えた。しかし三国の中では蜀は劣勢。桃園の誓いで義兄弟になった劉備・関羽・張飛は、関羽が呉の将軍呂蒙に殺され、張飛も部下に寝首を掻かれ、劉備も呉の陸遜に破れ、3人は漢王朝復興の夢を果たすことなく死んでいく。
その夢を継いたのが諸葛孔明である。綺羅星のごとく並び立っていた人材もいつか消えていた。
それでも魏との戦いに打って出た諸葛孔明は「五丈原の戦い」のさなかに病死してしまう。その後の蜀は転落の一途を辿るが、蜀(四川省)は山深い土地で天然の要害。魏や呉が積極的に攻めることはなかなかできず、姜維の奮闘もあり、かなりの期間持ちこたえたが結局、魏に滅ぼされた。

三国になった時点で、人口も多く栄えていた中国の中央部(中原)を制覇していた曹操の魏は、長江を越えて孫権の呉を攻めたり、山深い劉備の蜀を攻撃する必要がなかったという見解もある。
そんな状況の中で、圧倒的に不利な蜀が魏に対して戦いを挑んだというのが三国志の構図であるという見方も優勢である。

三国志の世界【当時の勢力】

魏 人口2800万人 兵士数30万人強
呉 人口1060万人 兵士数10万人
蜀 人口 630万人 兵士数 5万人

作者

吉川 英治(よしかわえいじ)1892年8月11日~1962年9月7日
1892年8月11日、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営み、横浜で牧場を拓く。イクとは再婚で、兄・正広がいた。
英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し塾を経営。貿易の仲買人を始め、横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が支援者の高瀬理三朗と対立し、裁判で敗訴、刑務所に。出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。
山内尋常高等小学校に入学。騎手の馬屋に近く、騎手になりたかった。
10歳の頃から雑誌に投稿、時事新報社『少年』に作文が入選。家運が衰えと異母兄と父との確執が重なり小学校を中退。職業を転々としつつ独学した。
18歳の時、年齢を偽って横浜ドックの船具工になるが作業中に重傷を負う。
1910年に上京、象眼職人の下で働く。浅草に住み、このときの町並みが江戸の町を書くにあたって印象に残った。
このころ川柳をつくり始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加。
1914年「江の島物語」が「講談倶楽部」に3等当選。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。
1921年に母が没し、翌年東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ「親鸞記」などを執筆。
関東大震災により同社が解散、作品を講談社に送りさまざまな筆名で発表し、「剣魔侠菩薩」を「面白倶楽部」に連載、作家として独立。
1925年より創刊された「キング」に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。
「英治」のペンネームは、元々は本名の「英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が誤って「英治」としてしまったのを本人が気に入り、以後ペンネームとするようになった。
「キング」は講談社が社運をかけた雑誌であるが、新鋭作家吉川英治は期待の星で「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表、多大な読者を獲得した。
執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、作品も多く映画化された。

こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーに。これを危惧し、印税を新居に投じ、さらに養女をもらい家庭の安定を図った。
「万花地獄」「花ぐるま」といった伝奇性あふれる小説や、「檜山兄弟」「松のや露八」などの維新ものを書く。
しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年の春に家出を半年ほど実行し、この間「かんかん虫は唄ふ」などが生まれた。
1933年、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌「衆文」を創刊、純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始、白鳥省吾、倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。
1935年「親鸞」を発表。同年8月23日連載を始めた「宮本武蔵」が新聞小説史上かつてない人気を得た。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となった。

1937年、やすと離婚、池戸文子と再婚。1939年2月「新書太閤記」を連載開始。
7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。
「宮本武蔵」終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1945年の終戦後、その衝撃から筆を執ることができなくなった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、「高山右近」「大岡越前」で本格的に復活する。
このころ、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。
1950年より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞を受賞。また文藝春秋からの強い要望で、1955年より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。
「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載。「私本太平記」は、従来逆賊とされてきた足利尊氏の見方を改めて描く。
1960年、文化勲章。
「私本太平記」の連載終了間際に肺がんにかかり、翌年夏にがんが転移。
1962年9月7日、肺がんのため国立がんセンターで死去。70歳。従三位勲一等、瑞宝章を贈られた。
東京の青梅市に吉川英治記念館がある。

吉川英治の『三国志』の世界

作品は文庫サイズで全8巻。今回は「桃園の巻」「群星の巻」を中心に進めてみたいと思います。
作品の導入部分になるこれらの章では、義憤に燃え、民衆を救わんと立ち上がった劉備玄徳、関羽、張飛らが、直面する悪である黄巾賊と戦いを始めます。
劉備らを馬鹿にし、軽んじたのは同じ志を持っているはずの官軍、皇軍の将軍達、権限を持った役職者でした。
官位に胡坐をかき、私利私欲を貪る一方で、官位官職がないというだけで玄徳らを虫けらのように扱う。
その姿に、劉備達は同志のなかに潜む師子身中の虫の生命に自身の生命が引きずられそうになるのを、自身の決意を思い返しながら、必死に思いとどまります。
その姿には、私達の現実の葛藤を髣髴とさせられます。
時代を超え、国を超えて語りかけてくる、人生を賭けた人間達の思い。その決定した思いを感じながら読んでいただきたいと思います。

「天命」の下で生きる英雄たち

時代は今から1800年ほど前。
日本においてはやっと邪馬台国の存在が認められる頃で、大和朝廷が歴史に登場する以前の時代である。
当時の日本の状況はよくわからないのが実態で、詳細な歴史などもちろん判然としない。日本人にとっては、そんな太古の時代に三国志の世界が繰広げられているのことに大きな驚きを覚えずにはいられない。

皆さんは『三国志』という作品にどのようなイメージを持っているだろうか。
魏・呉・蜀が覇権を争った壮大な大河物語。
劉備玄徳を中心とした信義の世界を描いた物語。
諸葛孔明が活躍する知略攻防の世界。...
こんなイメージが多いのではと思う。そういう私も同様のイメージを持っていたが、今回一気に読み通した読後感は、全く違うものに変わった。

人智の及ぶ限界というか、高き理想を継承し実現することの困難さといえばいいのか、世の常ならざるあわれをひしひしと感じざるを得ない。そんなある意味でやるせない思いが広がった。
諸葛孔明はそうした状況を「天命」「天意」と呼ぶ。
当時の中国、漢民族の奥底にある思想を垣間見ることができるのも「三国志」を読む楽しみ。特に印象的なのが星をはじめとする天文によって将来を予見しようとする思想だ。
しかしそれを神通力とか妖術だと短絡視しないところが「三国志」のおもしろさだ。逆に妄信的な思想はことごとく退けられている。
言い換えれば自然界の摂理、法則をよく知ることが勝利の秘訣と説かれているとも読むことができる。現代にも通じる考え方である。

天下泰平の世の中を目指して

物語の後半は、亡き劉備玄徳の遺志を受け継いだ諸葛孔明が、天下万民が天子の元で安心して暮せる国家の創出に全生命を賭けて戦いを挑み続けるシーンが続く。
しかしその壮大な挑戦に綻びが生じる。それは、恣意的で自己中心的な人間の弱さ、ずるさからだ。
ここで勝利していれば大願は成就できたはずという緊迫した場面で、だれか一人が自分の利害に固執し、堕落した自分自身の生命に流され、本来の目的を忘れて、団結の呼吸を乱し、そこが敗北の因となっていく。
諸葛孔明は、どんなにか、歯軋りを繰り返したことであろうか。

人こそ、すべての出発点であり、終着点である。
そのためには、人(人材)が綺羅星のごとく涌き出で続けるのか、病んだ歯がぼろぼろと抜け落ちていくようにいなくなってしまうのか...。
蜀の滅亡は、劉備玄徳の息子・劉禅の姿に如実に象徴されている。

大義を忘れ、蠢き出す権力と私利私欲。何が大切なのか。

今回の桂冠塾では「桃園の巻」「群星の巻」を中心に読み進めていただいた。
諸葛孔明も登場する前であり、魏呉蜀が天下三分の計でにらみ合うずっと以前が舞台である。黄巾の乱から始まり、桃園の誓いが行なわれ、董卓が暴政を行い、曹操がそれを伐つというあたりまでである。
群雄割拠する英雄の中で劉備玄徳はどちらかというと、まだまだ影が薄い。曹操も決してスマートで智謀に長けたという感じではなく、感情的で短絡的な行動が目に付いてしまう。
黄巾の乱も、発起した際の大義名分は徒党を組んだ当初からどこかに消えうせている。
それもあまり疑問を差し挟むことなく淡々と書かれている印象だ。人は大きな権力や人を動かせる立場に立つと、生命の底に潜む悪性を昂然とあらわすのだろうか。
「三国志」の世界は出来事を淡々と記述することで、人間の生命の持つ傾向性、生命そのものの本質を赤裸々に描き出し、読む人にそのことを気づかせてくれるのかも知れない。
そんな状況だからこそだろうか。朴訥として人間味くさい劉備玄徳が、次第に人望を集めていく展開に。
人の世にあって何が大切なのか、つくづくと考えさせられる。

語りだすとまだまだ尽きることがない。
人生の色々な場面で、何度となく読み続けていきたい一書である。

運営

桂冠塾プロジェクト
東京都練馬区東大泉5-1-7
毎月1回
オンライン開催