桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第41回】

『黒い雨』(井伏鱒二)

開催日時 2008年8月23日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 第二和室  西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

物語のあらすじ

作品の舞台は昭和20年代の広島県小畠村。
一緒に暮す姪の矢須子の縁談のために苦労する閑間重松が主人公である。
年頃の矢須子のころには時おり縁談の話が持ち込まれるが「矢須子は原爆病患者」といううわさが広まってしまっているために、次々と破談になってしまう。
新たに持ち込まれた縁談に矢須子が乗り気らしいと感じた重松は当時の日記の写しを見せることで縁談先に事実を知ってもらおうと思い立ち、日記の書写を進めていく。
あわせて重松自身の日記の書写もはじめる。この日記の記述が原爆投下直後からの生き地獄の様を生々しく再現する。
重松本人は原爆に被爆し、肉体労働ができない体になっている。そんな体をおして書写をすすめてもうすぐ書き終えようとする頃に、重松も想像しなかった展開に...。

被爆者本人とまわりの人間達の人間模様には、原爆という人間性をはるかに超えた仕打ちの前には取り繕う余裕などありもしない。
『黒い雨』は小説であるが、実在した重松静馬という人物がモデルになっている。関心のある方は彼が残した『重松日記』も一読いただければと思う。

私達が生きる日本は今年で戦後63年を迎える。
戦争体験の風化が言われてどのくらいの年月が経っただろうか。平和慣れをした日本では人と人とが殺しあうことに鈍感になっているのかもしれない。近年の殺人事件が報道される毎に、そんな虚脱感におそわれるのは私だけではないと思う。
原爆投下と終戦記念日を迎える夏8月。
いま一度、戦争の真実を考える契機にもしていただきたいと念願している。

本作品誕生の経緯『重松日記』

今月の本は井伏鱒二氏の『黒い雨』です。人類初の原子爆弾投下、そして太平洋戦争終結から63年目の夏を迎えました。
『黒い雨』は原爆小説を代表する作品として有名です。

井伏氏は生前、この作品をルポルタージュとして書いたことを述べている。作品が生まれた経緯については、筑摩書房刊『重松日記』におさめられている相馬正一氏による「解説」が詳しい。
以下、相馬氏の解説を元に経緯を簡単に紹介する。

作品の主人公である閑間重松のモデルである重松静馬が、当時残していた当用日記のメモを元にノートに書き起こしたのが「重松日記」である。

重松氏が「重松日記」を書き残そうと思い立った直接のきっかけは原爆体験の風化への危機感であった。「重松日記」は本編2冊と続編2冊の計4冊から構成されている。詳細の紹介は今回の趣旨から少し外れるので割愛するが、本編を書き起こし始めたのが昭和20年9月。断続的に書き進めて、昭和24年春から本格的に執筆に着手、約2年間を費やしたという。記録された期間としては昭和20年8月6日から13日までである。

被爆の翌月から書き始めたことにはそれ相応の理由があった。
それは原爆投下による被害を事実よりも矮小化しようとする報道への危機感であった。アメリカメディアでは、原爆被害によって広島長崎は「今後75年にわたり不毛の地になるであろう」と報じていた。事実は人間の想像を越えた生命力によって75年よりも短い期間で復興を果たしたのだが、過剰に反応したのが当時、仁科博士らによって組織された災害調査委員会である。
彼らは、

1)原爆による放射能は爆発後一週間から10日後には全く無害になっていた
2)爆心付近で発生した放射能の強度は人体に有害な強度の数十分の一から百分の一にすぎない
3)爆発直後の一両日は強い放射能が存在したが短時間で減退したと考えられる

として、原子爆弾の被害は「爆発による直接の被害を除いては生物におよぼす被害はほとんどないものと推定される」という報告書を発表し、昭和20年9月16日付で新聞各紙が一斉に報道したのである。
どうしてこのような無責任な見解を公表できたのか、当時の日本の科学水準から推測しても断定的に無害と主張できるとは想像できない。冷静な調査分析が行なわれていれば、科学的推論が結論に至らなかったか、相当の放射能被害が推測されるという結論に至るのではないだろうか。裏返して言えば「結論まずありき」の方針が透けて見えてくる感じすらしてしまう。


重松氏は子孫のために、原爆の悲しみを繰り返さないために自分自身の手記が少しでも役立たないかという思いで日記を書き起こしたのであろう。後年、井伏氏に書き送った手紙からもそのことをうかがい知ることができる。

その後、重松氏は被爆した怪我の治療等が一段落した昭和34年頃から、8月14日、15日の記録の執筆を再開し、昭和35年1月10日に脱稿した(なお後記「被爆其後のことども」は昭和37年7月に書き加えられた)。

当時すでに釣り仲間として知り合いになっていた井伏鱒二氏に日記を見てもらおうと手紙を書き送ったのが昭和35年6月である。その中で、当時の原水爆禁止運動に失望し、手記を何らかの形で活かしたいと思ったことが書き綴られている(これが10年余り経ってから日記の記述を再開した大きな理由だったと推測される)。
その後の井伏氏との遣り取りについては同著『重松日記』に収められている「重松静馬宛井伏鱒二書簡」から推測することができる。 また同著には「広島被爆軍医予備員の記録 岩竹博」も収録されており、『黒い雨』を読むにあたっての最適の資料集になっている。
「重松日記」本体についても、そのままでも充分読み応えのある作品といえる。全編を読んでみると、井伏氏が『黒い雨』をルポルタージュだと自称しているのも納得がいくだろう。
事実は小説よりも圧倒的な説得力とドラマを展開するのだ。井伏氏が技巧を殆ど用いることなく、重松氏の体験を忠実に再掲したのが『黒い雨』である。

『黒い雨』あらすじ

できごと 原爆日記
第1章 閑間重松・矢須子の現在の状況
*8/6矢須子の行動
矢須子8/5,6,7,8,9
第2章 閑間シゲ子登場 重松ら3名の原爆症の状況、養鯉
横川駅プラットホームで被爆→駅構外へ
矢須子8/9
重松8/6
第3章 ひい爺さんの逸話
*横川神社(高橋紡績刷子女主人)→横川小学校→横川駅→三滝公園方向へ(兄と弟の再会)→宇品方向へ(高橋さんと別れて引き返す)→横川鉄橋へ(少年と一緒に、途中で別れる)→鉄橋を渡る→東練兵場→広島駅方向へ
重松8/6
第4章 広島にて戦時下における食生活 シゲ子の手記
第5章 好太郎さん宅に来客
*東連兵場→広島駅→女子商業高校横→陸軍被服支廟→大学グランゴ方向へ(隣組の宮地さん)→地方専売局→御幸橋→広島文理大学グランド(シゲ子と再会)→自宅跡
重松8/6
第6章 鯉の孵化池の相談
*自宅と周辺の状況(橋詰君)→グランド→矢須子を探しに宇品へ向かう途中で自宅へ(矢須子再会)→能島さんに挨拶→能島さんと御幸橋川下に→宇品の日本通運支店(握飯と沢庵漬と佃煮)→御幸橋(その間に自宅跡は焼失)→会社に向かう(爆心地を横断する)
重松8/6
第7章 *紙屋町停留所→匍匐前進で進む(矢須子左肘擦り剥く)→大牟呂さん旧家跡→西練兵場→護国神社(キグチコヘイのような)→堤に出る手前(巡査部長佐藤進さん)→相生橋に向かって川下に→歩いて川を渡る竹藪脇で眠る(水と胡瓜)足に痛みが出る→国道→山本駅→電車に乗って移動する 重松8/6
第8章 *車中で聞いた被爆者の話
・四十男
・嘔吐(と下痢)する乗客
・婆さんに席を譲った少年
・三十前後の女と五十前後の男と幸夫ちゃん
・麻シャツの男
・おかみさん風の女
*古市の工場にたどり着く
重松8/6
第9章 矢須子に手紙が届く
*工場従事の避難者・故郷に避難
*重松・死者のためにお経を覚えて坊主役を務め始める
*死者の火葬
重松8/7,8/8
第10章 *外来者の葬儀もはじめる(充田タカ)
*原爆投下直後のシゲ子の行動
*シゲ子と矢須子・自宅跡に非常時用品を取りに行く
*田中くん・会社に保管してあった軍食料を詐取される
重松8/8,8/9
第11章 *食料詐取事件の始末書
*3人の女の逸話(県立第一中学校・三次町の救護部隊・しかばね衛兵)
*重松・石炭手配に市内、宇品に向かう
*焼跡区域での凄惨な状況
重松8/9,8/10
第12章 *宇品缶詰の田代さんと再会
*石炭統制会社跡に行く
*被服支廟に交渉に行く
*8/6と同じ道で御幸町へ向かう→焼跡の中尾さんに慰問品を渡す
*人夫の六郎さんと荷物を運ぶ
*小畠村から2人の来訪者
重松8/10
第13章 *工場長と牛缶で食事・石炭交渉の報告
*蜜田サキの葬式
*2人の客人(シゲ子の実兄と矢須子の実父)が話す投下後の状況
重松8/11
第14章 *再度、被服支廟に向かう
*市内の状況、本川橋欄干の張り紙、植物の異常生育
*金庫からの回想
*被服支廟の交渉、不調に終わる
*甲神部隊の救護班、保さんと再会、行動を共にする
*焼け焦げた電車跡の貼り紙(壁新聞)ソ連参戦報じる
*逓信病院、仲三さん見つかる
*桑原邸(甲神部隊救護本部)
重松8/11
第15章 *テイ子さん、義弟を探す
*工場長に経過を報告する
*両足の指の痛み激しく、灸をすえる
*大野浦、大島タミ子さんの話
*大野浦国民学校の収容所
*小畠村での救護班招集の様子
*原爆症で死亡する人
重松8/12
第16章 矢須子の病状が急速に悪化
矢須子、発症前後の状況
『高丸矢須子病状日記』」7/25,26,27,28,29,30付
矢須子、九一色病院に入院
 

今も続く被爆の悲劇

本編については多くを語る必要はないだろう。
是非一人一人が何度も読み返しながら、重松氏、井伏氏の思いを、何らかの形で感じるものをつかんでほしいと願うものである。

本年4月、国による原爆症認定基準が大きく緩和された。
資料が不足しているため事実は確認できていないが、今までの基準では作品中の矢須子の場合は原爆症に認定されなかった公算が極めて高い。
いわゆる「残留放射線」による「入市被爆者」の原爆症認定問題である。
日本国は「矢須子」を原爆被害者に認定しない...衝撃的な事実だ。
『黒い雨』の悲劇のヒロインである矢須子は間違いなく原爆の被害者である。しかし国は「原因確率」等の審査基準を理由に入市被爆者の認定申請のほとんどを却下してきた。

何のための基準なのか。
基準が大切なのか、そこで苦しんでいる一人の人が大切なのか。
戦後63年にしてようやく気がついている。この程度が、私達の生命に対峙する現実なのだ。
基準が緩和されたとは言っても、今回の適用基準でも対象外にはじき出される人の中に間違いなく原爆症だと推測される人が残っているのも事実だ。
基準云々を論議する前に、目の前の一人の人を救っていける私達一人一人でありたい。
またそれが重松さん、矢須子(本名は安子)さんの体験を後世に活かすことにつながると信じたい。

井伏鱒二(いぶせますじ)

明治31年(1898年)2月15日広島県安那郡加茂村粟根に生まれる。井伏家は旧家で江戸時代から続く地主。5歳の時父が逝去し、祖父にかわいがられる。

1905年加茂小学校入学。
1912年福山中学校に進学。校庭に池があり山椒魚が飼育しており、処女作「山椒魚」のモチーフとなった。
中学校3年生頃から画家を志し、卒業後は3ヶ月間奈良、京都を写生旅行。そのスケッチを持って橋本関雪に入門を申し出るが断られて帰郷。
々からの兄の勧めがあり文学を志して早稲田大学に入学。青木南八と親交を結び、ともに文学部仏文学科に進む。岩野泡鳴や谷崎精二を訪ねるなど文学者との出会いを重ねる。1921年片上伸教授との確執(ホモセクシャル行為との説あり)で休学。約半年後に復学手続きををとるが片上教授の反対で退学が決まる。同年親友の青木が逝去、日本美術学校を中退。

1923年同人誌『世紀』に参画し「幽閉」を寄稿。
1924年聚芳社に入社、入退社を続ける。佐藤春夫に師事し文筆を磨く。
1927年『不同調』に「歪なる図案」を発表、初めて小説で稿料を得る。10月秋本節代と結婚し、阿佐ヶ谷(井荻村)に住む。
1929年『創作月間』に「朽助のいる谷間」、『文芸都市』に「山椒魚」(「幽閉」を改名)、『文学』に「屋根の上のサワン」を相次いで発表。
この頃「阿佐ヶ谷将棋会」(後の阿佐ヶ谷会)を結成し太宰治をはじめ杉並在住の作家達の交流の場を作った。
1930年に井伏初の作品集『夜ふけと梅の花』を発刊、。小林秀雄等が寄稿していた雑誌『作品』の同人となる。
1938年『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞し『文学界』の同人となる。
戦時中は陸軍に徴用され、開戦時に南シナ海上の輸送船にいた。 日本軍が占領したシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。

直木賞選考委員を1943年(第17回)から1957年(第38回)まで
芥川賞選考委員を1958年(第39回)から1962年(第47回)まで
新潮同人雑誌賞選考委員を1955年(第1回)から1968年(第14回)まで務めた。
1965年『新潮』に「黒い雨」(「姪の結婚」)を連載。この作品で1966年、野間文芸賞を受賞。同年に文化勲章も受章した。
1970年「私の履歴書(半生記)」を日本経済新聞に連載した。
1993年6月24日東京衛生病院に緊急入院、7月10日午前11時40分死去。
享年95歳。

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