桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第42回】

『兎の眼』(灰谷健次郎)

開催日時 2008年9月23日(火・祝)14:00~17:00
会場 石神井公園区民交流センター 2階・和室(1)

開催。諸々コメント。

今回取り上げた作品は『兎の眼』。現代児童作家である故人・灰谷健次郎氏のデビュー作です。

作品が発表されたのは昭和49年7月。当時はまだ小学生だった私がこの作品に出会ったのは高校生になってからでした。
高校生になったばかりの私は同じ灰谷健次郎さんの作品『太陽の子』を読み、次いでこの作品を手にしました。
『兎の眼』は多感であった10代の少年に、人の心の深遠さ、人と接することとは何かを考えさせるには充分すぎる衝撃でした。

作品の冒頭はショッキングです。
小谷芙美先生が担任をするクラスの児童・鉄三が一匹のカエルを真っ二つに引き裂いて内蔵がちらばり、もう一匹のカエルを左足で踏み潰したシーンから始まります。
鉄三は町のゴミ処分場(焼却場)の中に住む小学1年生。バクじいさんと呼ばれているお祖父さんと二人暮し。鉄三がなぜそのような行動をとったのか...。
その行動の原因を突き止めることなく、その場がやり過ごされます。そして2ケ月後に事件が再び起こり、鉄三の行動の理由がわかっていきます...。
私が作品と最初に出会ってから30年が過ぎました。
当時、教員を目指そうとしていた少年は教職課程を経ることもなく、一介の経営者として社会の一遇で奮闘する毎日を送っています。
そんな状況にあっても人と接することの大切さを痛感することには、小谷先生、足立先生たちと何ら変わりはないと感じます。
人と人との関わりが劇的に変化している現代にあって、教育とは何か、人との関わり合いとはなにかを考える絶好の一書ではないかと思います。
作品の後半で足立先生がつぶやく一言を、遠い昔に読んだ記憶とともに思い起こしました。
「おまえたちが大きくなったら、どんな世の中になるんやろなァ」
果たして作品発表から34年経った現在の社会は、当時からどんなふうに変わったのでしょうか....。

評価が分かれる灰谷作品の代表作

この『兎の眼』は賛否が真っ二つに分かれる作品ではないかと思う。
それはすなわち灰谷作品への評価が分かれるということにもなるだろう。
灰谷氏自身が認めているように『兎の眼』は欠陥のある作品だと思う。 プロットの一貫性に欠ける箇所や挿入されている逸話の果たす役割が不明瞭だったり、弱すぎるように感じる箇所がいくつかある。
登場する人物の個性もやや芝居がかったきらいがあり、現実離れしている感が否めない。 参加者からも「後半に展開されている登校ボイコットのくだりは必要なかったのではないか」という意見も出されていた。物語の終わり方も大雑把な感じを受けると思う。

一例として小谷先生の言動について一言触れておくと...。
大学を出て間もない小谷先生が今後どのような教育者として進んでいくのか、読者としては非常に気になるところだ。
小谷先生の子どもたちに対しての姿勢と、夫に対する姿勢の格差には多くの読者が違和感を感じるのではないかと思う。 この点についても当日の話題となったが、子どもたちに接する時のような根気強さと対話する心を、なぜ夫に対して発揮しないのか。小谷先生自身の思いを夫に語るシーンが全く描かれていない。
それどころか最初から「私の気持ちなどわかるはずがない」という諦めの心で一貫して夫と接している。これでは悲劇的な結末を想像するしかなくなる...。
灰谷氏が子どもに対する姿勢として多くの読者に訴えるものは、男女間、夫婦間には必要ないというのでしょうか。
確かに時代の違いを大きく感じさせる作品でもある。 作品が書かれ、私が始めて接した昭和50年前後の劣悪な生活環境にも愕然とさせられます。

大人が読む児童作品

この作品が注目された大きな理由の一つに「大人が読む児童作品」であることが上げられていた。
言い換えればそれまでは大人が読んで耐えられる児童作品というものが乏しかったということになる。

灰谷作品の賛否が分かれる理由には現実に行なわれている教育現場での問題を取り上げていることも大きく影響しているように思う。
それゆえに時代を経てみれば急激に陳腐化してしまうテーマだったりもすることも多いのだろうと思う。それが堀江祥智氏も指摘しているように、この作品が乗り越えられていく運命にあるといえる由縁だとも感じる。

社会の歪みをそのまま描いた

また、教頭先生や校長先生だってそれぞれの職務を全うしようとしている真面目な人たちだ。それを勧善懲悪的構図に押し込めて、足立先生たちに喝采をおくるような、単純な話にしてしまっていいのだろうか。
そのような指摘をされてしまう作品でもあるが、それでも、こうした現在進行中の教育現場での課題を児童文学の域にまで引き上げた灰谷氏の功績は大きいと私は思っている。

障がい者であるみな子ちゃんをめぐる子供達とその親達の気持ちの変化には、劇的なものがある。「そんなうまくはいかないよ」という現場の声ももちろんあるだろうが、そうした現実を踏まえてでも強く語りかけてくる声が聞こえる。
ごみ処理所の生活も同様だ。
「ごみ」というみんなが出している生活の敗残物にもかかわらず、いったん自分達の手を離れると思いをめぐらさなくなる。そればかりか自分勝手な主張を滔々と述べて結果的に弱者を排斥しようとしてしまう。
いま大きな社会問題となっている自己中心的な人間の行為を「モンスター●●」と呼んだりしているが、その生命的病理はずっと以前から巣食っていることを見事に描き出している。

それでも、10代だった私は純粋に感動した

いままで述べてきたような感想等も当日の参加者の間で語られた。
そうした作品としての意見、評価が多々ありながらも、読み進めている時の、そして読み終わった時の心の底から、ある種の感動に似た感情がこみ上げてくることを私は隠すことができない。

私が『兎の眼』を初めて読んだのは高校1年生の秋だったと記憶している。 当時、通っていた高校で文藝部に所属していた私は1級上の先輩が読んでいた灰谷健次郎氏の『太陽の子(てだのふぁ)』(※第2回桂冠塾で取り上げました)を薦められて読んだ。
今までにない衝撃を受けた。
まだ社会や複雑な人間関係、教育というものを経験していなかった高校生の私にとっては未知なる感覚であった。その衝撃のままに続けて手にしたのがこの『兎の眼』であったと記憶している。

対(つい)の人間として共に生きる道

あれから30年が経った。
今回ひさしぶりに読み返した。
30年前と全く同じ感情が沸き起こってきたとは、言わない。がしかし、そのときの感激がふつふつとよみがえってくると同時に、複数の視点で物語をみている自分が、そこにいた。

あれこれ言うこともできるが、やはりこの作品を読むと「まだまだ人としてやることが残っている」という気持ちになる。「子どもと共に、成長する人の姿は素晴らしい」と、単純に、純粋に感じるのだ。
灰谷氏が「幼い魂の抵抗-『兎の眼』の意味するもの-」と題したエッセーで語っている。
『兎の眼』は一言でいえば、自立しようとする幼い魂が、意識的であれ無意識的であれ、その自立を妨げようとするものに対して挑んだ抵抗の譜であり、 教師が子どもたちの奥深くしまいこんだやさしさを探る当てたとき、はじめて対(つい)の人間として共に生きる道を発見できたという物語である。
このことは教師だけの問題では、決してない。
子を持つ親の世代一人一人の問題であり、次代を担う後継の友に何かを託したいと願う私達一人一人が直面する重要なテーマである。

『兎の眼』が提示するテーマとは

・小谷先生の成長
・鉄三のこと
・ハエに関わる事件と真相
・ハエに対する気持ち
・塵芥処理所に住む大人と子どもたち
・春川きみが月謝をとって勉強を教える
・処理所の子どもたちと先生との関わり方
・浩二くんが給食当番をするか問題
・徳治のハト騒動
・ハエを通した小谷先生と鉄三の関係の変化
・諭がこじきごっこ
・足立先生の授業「わるいやつ」
・ハエを通して字を学び、スケッチ描写する鉄三
・子どもたちの宝物
・鉄三とバクじいさんと食事する
・バクじいさんの半生
・伊藤みな子が来る
・みな子をめぐる親の反応
・みな子を中心に変化するクラスの子どもたち
・鉄三の「ハエの研究」
・子どもたちが提案したみな子当番
・鉄三の活躍と事件
・みな子をめぐる教師達の対応
・クラスの子どもたちの親の変化
・みな子がクラスを去っていく
・鉄三 ハム工場で大活躍
・色を塗られたヒヨコ
・小谷先生 泥棒に入られる
・子どもたちのお見舞い
・野犬狩りトラック襲撃事件
・野犬檻修理代金のために廃品回収(クズ屋)をする
・せっしゃのオッサン
・小谷先生の授業
・処理所移転問題が勃発 子どもたちの同盟休校
・処理所に勉強を教え行く
・6歳のハエ博士誕生
・駅前でビラを配る先生達
・処理所移転と同盟休校問題をめぐる臨時PTA総会
・小谷先生の家族の会議
・浩二の家族 引越に応じる
・足立先生ハンストをはじめる
・浩二 登校する
・浩二の家族 戻ってくる
・署名が校区内の過半数に 交渉の場に向かう
・小谷先生と夫
・足立先生の生き方と評価

作者:灰谷健次郎(はいたにけんじろう)

1934年10月31日 兵庫県神戸市で父「又吉」、母「つる」の7人兄妹の3男として生まれる。
神戸市立垂水中学校卒業後、家が貧しかった為高校進学を断念。働きながら定時制高校商業科(神戸市立湊高等学校)に通った。
1954年4月 教師になれば、ひまができて小説が書けるという気持から大阪学芸大学(現国立大阪教育大学)に入学。この頃から小説を書き始め、放蕩癖が始まる。睡眠薬を飲み始め、量が増えていく。
1956年 22歳の時、神戸市立学校教員になる。作文教育にうちこんだ。児童詩誌「きりん」を知る。詩誌「輪」の同人となり詩人として活躍。
1967年4月2日 長兄吉里が自殺(健次郎33歳の時)。翌年母つるが死去。精神的打撃を癒すため、ヨーロッパ、地中海、中近東、インドを放浪する。1972年5月、17年間続けた小学校教師を退職。沖縄を経て東南アジアを旅する。
1974年(昭和49年)『兎の眼』を発表。
1979年(昭和54年)『太陽の子』を発表。両作品ともにドラマ化、映画化された。
1980年 46歳の時、淡路島に移り住み、米、麦、豆類、芋類などを自然農法で栽培しながら自給自足の生活を始める。
1983年4月 坪谷令子らと太陽の子保育園を開園。
1991年 57歳の時に沖縄県渡嘉敷島へ移住。
1997年(平成9年) 新潮社から版権を引き上げる。 ライフワークとして『天の瞳』を執筆を続けるが、2006年(平成18年)11月23日、食道がんのため死去。
享年73(満72)歳。

ご参加ありがとうございました

今回は私を含めて3名という寂しい参加人数でした。月例の土曜ではなく、祝日に開催したことで欠席になってしまった方もおられました。
会場予約と他の予定が重なるなどの理由による日程決定だったのですが、やはり土曜実施を堅持しなければと反省をした今回の開催でした。
今回、遠路千葉県から初参加していただきました奥山さん、ありがとうございました。

運営

桂冠塾プロジェクト
東京都練馬区東大泉5-1-7
毎月1回
オンライン開催