桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第43回】

『長距離走者の孤独』(アラン・シリトー)

開催日時 2008年10月18日(土) 14:00~17:00
会場 石神井公園区民交流センター 2階・和室(2)

開催。諸々コメント。

今月は20世紀イギリス社会を舞台に描いた短編小説家アラン・シリトーの作品を取り上げます。
シリトーはイングランド中部の工業都市ノッティンガムに住む労働者階級の家庭に生まれる。
シリトー自身も工場労働者としての人生を送った。シリトーの作品はその時代を生きる労働者自身が労働者の視点で描き出した衝撃的作品として社会現象化したとさえ言われています。
本作品はシリトーがマジョルカ島で書上げた2編のうちのひとつであり、作家シリトーの評価を確固たるものにしました。
階級社会であるイギリスにおける下級労働者階級の劣悪な生活環境を赤裸々に描きながらも、権力や体制、上流階級に対抗して懸命に生きようとする庶民の心を活き活きとした筆致で再現していきます。

作品のストーリー全体を通して書かれているのは主人公スミスの心の中の独白と回想シーンである。
スミスは窃盗の罪で感化院に収監されている少年。体格を見込まれたのか長距離クロスカントリー選手に選ばれて毎朝走ることを楽しみにしている。
この走りながらの心の描写は群を抜いている。スミスに長距離走をやらせている感化院の院長には彼なりの思惑があるらしい。その思惑に対してスミス少年は彼なりの方法で抵抗を見せようとしてそれを実行する。
そしてその顛末は....。

何かにつけてぶつけようのない不満を抱えていた10代の少年の頃の思いをよみがえらせる人も少なからずいることと思います。そうした思いを生涯もち続けたのがアラン・シリトーだったのかも知れません。
※作品は集英社文庫、新潮社文庫などで入手できます。

作品の感想

この作品を一番最初に読んだのは中学生の時だった。社会の体制に反発する主人公の少年に著しい共感を覚え、喝采を贈ったことを鮮明に記憶している。
「長距離走者の孤独」というネーミングと共に、大人にわかってもらえない、自分自身が秘めている10代の多感な少年の心を描き出してくれたような思いだったのだろうか。

あれから30年余りが経過した。
その間、『長距離走者の孤独』はマイベストブックの一冊としてその地位を維持し続けていた。 今回の桂冠塾にあわせて再読した。その読後感はというと...正直に話すことにするが、「この作品って意外と平凡なものだったのだろうか」という認識に急降下してしまった。
たしかに、独特の語り口は読者をして一気に読み終えさせる力がある。
しかし有り体に言えば、社会に反発する10代少年を描いた青春小説ではないか。
作品の構成も3章立てでシンプルだし、大きなメッセージ性は見当たらない。
この作品を初めて読んだ時の感激というのは、やはり私自身が10代の少年だったからで、その後の社会経験を積んだ目からみれば際立った名作とも言えないのではないか。
・・・そんなふうにも感じてしまうほど、平凡な作品に映ったのだ。

しかし、それだけの作品だと断定するにはどこか違和感が拭えない。
なにか、なぜか、しっくりこないのだ。
このふわふわした感覚はなんだろうか。
そう思いながら、私は毎回の桂冠塾で行なっている定型の手順を踏むことにした。
それは、作者のプロフィールと作品の背景をまとめることである。

イギリス階級社会が内包する歪み

『長距離走者の孤独』が発表されたのは1959年。前年に発表した『土曜の夜と日曜の朝』と共にシリトーが結核療養中のマジョルカ島に滞在していた時の作品である。
シリトーの経歴と作品の時代背景を少し調べてみると、大きく2つの要素があることに気づかされる。
それは
1)世界を巻き込んだ戦争の時代
2)歴史の重みを持つイギリスの階級社会
 である。

特に『長距離走者の孤独』を読むにあたっては、イギリスの階級社会への認識を深めることが必須である。イギリス社会における階級とは日本人の私たちが考えている以上に、強大で浸透しきっていると考えるのが妥当なのだろうと私は思う。
ここが理解できないと、この作品が「社会体制に反発する若い不良少年を描いた青春小説」になってしまう。
『長距離走者の孤独』はイギリス階級社会が内包している構造的矛盾、絶望感を描き出しているのだ。
この作品が名作と称される由縁である。

社会に対する憤懣を今できる抵抗であらわす

しかし、ある一面、限界を感じさせる作品でもある。
それは、今感じている現実に積極果敢に立ち向かい、変革しようという意思の存在を感じないからかもしれない。不満や抵抗する純粋な気持ちが描かれているが、あくまでも社会体制の枠組の中での感情にとどまっている。
そこがどうしても好きになれない。反発するのなら、その気持ちをより創造的エネルギーに転換すべきであると思うのは私だけではないだろう。
ただ、当時の社会にあって作品を書き続けたアラン・シリトーの意志の強靭さは大いに評価されるべきだと思う。
主人公のスミス少年は大きなタイトルがかかった大会、イギリス全土の感化院の代表で争われる全英長距離クロスカントリー競技のボースタル・ブルーリボン杯を手にする直前に、走ることを止める。
それは彼が綿密に計画してきた反抗の切り札だった。
虚しさを感じる一面、痛快さを感じる、当作品のクライマックスといえるだろう。

何も変わらない現実の生活。非力の先に何かあるのか。

この一瞬だけは、明快に勧善懲悪の構図が現れてくる。
少年時代に読む読まれる作品には、どうもこの形が多いのかもしれない。
しかし読み終わってみれば、スミス少年は感化院を退院(出所)したあとも、窃盗を中心とした生活を改めることは、当然ながら有り得ない。一撃を食らったはずの体制側の人々にあってはもちろん、何の変化もない。
しかし、それが現実の生活なのであろう。
人生を一瞬で転換できるような、劇的な出来事というものは一生の中で一度も起こらないのかもしれない。大きな力の前で自分自身の非力さを痛感することも多い。
具体的な解決方法などまったく思いつかない....そんな状況にあっても一歩ずつでも、前へ前へと進むことができる人が偉いのだと、私は思う。

アラン・シリトー作『長距離走者の孤独』は、やはり名作である。

1900年代のイギリス社会

■帝国主義の終焉と2度の世界大戦
20世紀は、2度の世界大戦とその後の冷戦、植民地の独立などにより、何度も政治的なパワーバランスの大きな変化が訪れた。
19世紀まで大航海時代の威光そのままに植民地支配の栄華を誇っていた大英帝国は、世界各地に広がった民族独立の波には逆らえず、その領土は急激に縮小した。
一方、第二次世界大戦後の世界は、2度の世界大戦を勝利に飾ったアメリカ合衆国の時代を迎えた。アメリカは西側諸国での超大国となり、資本主義諸国をその勢力下においた。
また曲がりなりにも、キング牧師の闘争に代表される黒人公民権運動を経て、自由主義圏の盟主に君臨し、イギリスの影響力は次第に弱体化していく。
一方、東側はソ連が盟主となり、東西冷戦の時代を迎えていった。

〔シリトーの時代の戦争〕
日露戦争(1904年 - 1905年)
バルカン戦争(1912年 - 1913年)
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)
シベリア出兵(1919年 - 1924年)
日中戦争(1937年 - 1945年)
スペイン内戦(1936年-1939年)
冬戦争(1939年 - 1940年)
・継続戦争(1941年 - 1944年)
第二次世界大戦(1939年 - 1945年)
第一次中東戦争(1948年 - 1949年)
朝鮮戦争(1950年 - 1953年)
アルジェリア戦争(1954年-1962年)
インドシナ戦争(1946年 - 1954年)
第二次中東戦争(1956年)

■世界経済の発展
アメリカ合衆国やイギリスでは、世界恐慌に見舞われた1920年代末からケインズ主義が主流となった。構造不況下において、公共事業による雇用確保や景気回復を図り、部分的に福祉やセーフティネットの構築などの社会民主主義的政策を導入する混合経済を志向し、大きな政府を目指すことになる。
一方、東側陣営に属する北欧諸国は、社会民主主義的諸制度を整備し福祉国家を志向し、一定レベルの工業化、経済発展を実現していた。西側諸国が志向した混合経済は大きな経済発展を勝ち取ることができた。しかしその後の石油恐慌によって再び大恐慌の時代を迎えた。

■歴史の重みを持つイギリス階級社会
イギリスは、歴史と伝統を重視する国であるが、その中で、1億総中流といわれる日本人には理解し難い社会階級が厳然として存在している。階級を超えた積極的な交流はなく、通う学校、愛読する新聞から、出入りするお店、嗜むスポーツまで違うといわれる。
その社会階級は
① 上流階級 (Upper Class)
② 中産階級(Middle Class)
③ 労働者階級(Working Class)
の3つに大別される。さらに、中流階級を上層、中層、下層の3つに分けた5分割方式がイギリスの階級制度を考える際によく使われる概念になっている。

「上流階級」としては、1066年にイングランド王位に就いたウィリアム1世に随行してフランスから渡ってきた者たちなど、封建社会の中で領主であった中世貴族や、16世紀のヘンリー8世の時代に貴族に叙せられた新しい貴族たちの末裔がいる。
いずれも身分は世襲制で、上院に議席権を持つ。位階は上から、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順である。上院に議席議席権は持つが世襲でなく、一代限りの貴族の称号は、その社会的功績に対して与えられる。
次に、世襲貴族に準ずる階級として「ジェントル」と呼ばれる大土地所有者がいる。
18世紀以降、資本主義社会の発展の中で貿易や産業経営の中で財をなした資本家階級を加えた人達がイギリスの上流階級を形成する。

それに対して、産業革命以降の経済的発展は、肉体労働の必要のない中小企業経営者や、医者、弁護士などの上層ホワイトカラーに代表される中産階級を生んだ。
この階級は上流階級とともに、政治的には保守党を支持し、その子弟をイートンやラグビーなどの名門パブリック・スクールから、成績が優秀なものはオックスフォード大学やケンブリッジ大学へ進学できる社会階級である。

その下に位置する労働者階級は、基本的に額に汗して働く以外の収入を持たず、時としてスラムとも呼べるような地区に住み、劣悪な生活環境にも甘んじなければならなかった。
日本なら貧しい家庭の出身者でも、優秀でありさえすれば、一流大学へ進学し、国家官僚や医師や弁護士になる道が大きく開かれているが、イギリスでは、各階級は極めて閉鎖的であり、階級間の移動は非常に少ない。
したがって、労働者階級の若者にとっては、将来は決して明るいものではなく、一旗揚げようと思えば、かつてならインドなどの植民地へ渡り自らの運を試し、1960年代以降はギターを抱えてロックをやるビートルズのようないき方が脚光を浴びた。
こうした点が日本の社会構造と大きく異なる。最新の状況は定かではないので、現代の状況を存じ上げている人がいれば是非レクチャーいただきたいところである。

作者:アラン・シリトー(Alan Sillitoe)

イギリスの作家。1928年に労働者の息子としてノッテンガムに生まれる。
19歳で空軍の無線技師になるが、肺結核に罹り療養中に創作を開始する。
1958年に労働者階級の生活を労働者の視線で描いた『土曜の夜と日曜の朝』で一躍有名に。1959年に『長距離走者の孤独』を発表。前作を上回る傑作と評され、ホーソンデン賞を獲得した。2作とも療養中のマジョルカ島で書上げた。
シリトーの文壇への登場は、『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』のキングスレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなど、「怒れる若者たち」(Angry Young Men)と呼ばれる一派と時を同じくしていたため、そのメンバーの一人と見なされることが多い。
しかし「怒れる若者たち」の中心作家はオックスフォード大学出身者であり、であり、工場労働者階層のシリトーとは異質であった。
反体制を叫ぶ「怒れる若者たち」の怒りは、体制の改革と共に消えたが、シリトーはその後も執筆を続けた。
シリトーの怒りは、下級階層の庶民を不当に搾取する支配階級の向けられた。しかしシリトーが描く主人公達の行動は、積極的に体制を変革しようとはしない。
ある人の表現を借りれば、それは「反体制的」反抗ではなく「非体制的」反逆と呼べそうなものである。
代表作『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』は、1959年、1960年に映画化され、いずれもアカデミー賞などを賑わせた。

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