桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第45回】

『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)

開催日時 2008年12月13日(土) 14:00~17:00
会場 練馬公民館 和室(小)西武池袋線・練馬駅 徒歩10分

開催。諸々コメント。

人間性とは何か?
生きることの目的とは?
人間の心根はどこにあるのか...
発表から42年を経てもなお色あせることのない名作を今年の最後に読んでいただきたいと思います。

作者

ダニエル・キイス(Daniel Keyes)
1927年8月9日、アメリカ合衆国ニューヨーク州に生まれる。
ブルックリンカレッジ卒業後の1950年から『マーヴェル・サイエンス・ストーリーズ』の編集などの仕事を経て高校の国語教師となる。
このころから小説を書き始め、1959年に『アルジャーノンに花束を』(1966年に中編を長編に改作)を発表、文名を得る。その後、『五番目のサリー』や実在の解離性同一性障害者ビリー・ミリガンに関する 『24人のビリー・ミリガン』、『ビリー・ミリガンと23の棺』などを著す。現在は教職を退き、作家生活を送っている。
フロリダ州ボカ・ラトン在住。

物語のあらすじ

主人公はチャーリィ・ゴードン。「彼(チャーリイ)」自身によって記録された「経過報告」という一人称で書かれた作品。
はじめは誤字脱字だらけの英語の綴り・句読法や文法で書かれており、経過報告の文章自体も、チャーリーの知能の向上に連れて徐々に正しくなっていく様子を表現している。
日本語訳ではひらがなに少しだけ漢字を混ぜたり、誤字や部首の正しくない字を当てはめるなど原文の印象を反映させるよう工夫が施されている。

精神遅滞の青年チャーリィは子供の頃、知能的には正常であった妹に性的な乱暴を働いたと家族に誤解され、母親に捨てられた。別れ際に彼女が発した「いい子にしていれば迎えに来る」という言葉を大人になっても信じている。
知的障害の為、幼児並の知力しか持っておらず、そのことでパン屋の従業員にからかわれたり、騙されいじめられていることや、母親に捨てられたという事実は理解できない。
彼は自身がスピナーと名づけたガラクタを眺めるのが趣味であった。誰にでも親切であろうとする、大きな体に小さな子供の心を持った、おとなしい性格の青年だった。
しかし彼には「りこうになりたい」という強烈な向上心が燃えていた。

ある日、彼はパン屋の仕事のかたわら通う精神遅滞者専門の学習クラス(担任はミス・アリス・キニアン先生)で、監督者である大学教授(スタラウス博士とニーマー教授)から、開発されたばかりの脳外科手術を受けるよう勧められる。
先んじて動物実験で対象となったハツカネズミの「アルジャーノン」は、驚くべき記憶・思考力を発揮し、チャーリーの目の前で難関の迷路実験で彼に勝ってしまう。
この手術の人間に対する臨床試験の被験者第1号として、彼が選ばれたのだ。

手術は成功し、チャーリーのIQは68から徐々に上昇。ついには185に達し、彼は超知能を持つ天才となった。
チャーリーは大学で学生に混じって勉強することを許され、知識を得る喜び・難しい問題を考える楽しみを満たしていく。
だが一方で、頭が良くなるに連れ、これまで友達だと信じていた仕事仲間に騙され、いじめられていた事、母親に捨てられた事など、知りたくも無い事実の意味を理解するようになる。

そんなチャーリィの激変によって誰もが笑いを失った。不正を追及したことでかつての仕事仲間は彼を恨むようになり、遂には手術を行った教授の間違いを手酷く指摘して仲違いをしてしまう。
周囲の人間が遠ざかっていく中で、チャーリーは手術前には抱いたことも無い孤独感を抱くのだった。
また、彼の未発達な幼児の感情と、突然に急成長を果たした天才的な知能のバランスが取れないことに加え、未整理な記憶の奔流がチャーリーを苦悩の日々へと追い込んでいく。
急激な知能向上に伴わない未発達な精神が自己中心的で凶暴な牙を剥こうとしてバランスを崩していくチャーリイ。
そんなある日、自分より先に脳手術を受け、彼が世話をしていたアルジャーノンに異変が起こる。
チャーリーは自身でアルジャーノンの異変について調査を始め、手術に大きな欠陥があった事を突き止めてしまう。
手術は一時的に知能を発達させるものの、性格の発達がそれに追いつかず社会性が損なわれること、そしてピークに達した知能は、彼が直面している知能の退行が必然であることを解明される。
その事実がチャーリイが得た超知能によって間違いないものであることが判明するのは皮肉としか言いようがない。
その過程で、実の父親マット(マシュウ)が営むブロンクスの理髪店に行くがチャーリイのことはわからない。
ブロンクス通りにあうチャーリイの生家を訪ねて実の母ローズと妹ノーマとも再会を果たす。母は痴呆が進んでいるのか彼の中に昔のチャーリイを見つけるが目の前のチャーリイを認めることができない。
会いたくなかったノーマに歓待され驚きが隠せないが、二人で会話する中で誤解していたこと、忘れていた真実が氷解する。
彼は失われ行く知能の中で、退行を引き止める手段を模索しつつも、知能が完全に後退した時のことを考えてワレンを視察するシーンは物悲しさすら漂ってくる。
忍び寄る知能退行の恐怖と戦いながら残された時間を人類の進歩に役立てようとするが、次第に苛立ちが多くなり、明晰な思考も靄がかかっていく。

そんなチャーリイを最初から最後まで支え続けるのがアリス・キニアンである。
彼は経過報告日誌の最後に、正気を失ったまま寿命が尽きてしまったアルジャーノンの死を悼み、これを読むであろう大学教授に向けたメッセージとして「アルジャーノンのお墓にお花をあげてください」と締め括る。
「本当の幸せとは何なのか?」そして「天才になる事は本当に幸せに繋がるのか?」というメッセージを学び、多くの人が涙した作品である。

作品の感想

この作品は1966年に発表され、同年のネビュラ賞を獲得した作品として知られています。日本ではユースケ・サンタマリア主演で舞台を日本に書き換えてテレビドラマ化されましたので日本ドラマ版に接したという方も多いのではないかと思います。
本作品の前身である同名の中編小説は1959年に発表され、同年のヒューゴー賞を獲得している。
ネビュラ賞、ヒューゴー賞は、アメリカで発表されたSF作品に贈られる栄誉である。
『アルジャーノンに花束を』の作者ダニエル・キイスはSF作家であり、SF雑誌に発表されていることからみても、本作品はSF小説として書かれたものには違いないと思うが、その範疇をあっさりと飛び越えてしまっている。

作品全体を通して、主人公チャーリー・ゴードンによる手記という一人称形式で書かれていきます。
チャーリーには知的障害があり、昼間はパン屋さんで働いていますが、同僚からはあからさまに馬鹿にされている。しかし(幸いなことに)チャーリイはそれは彼らの親切心だと勘違いしたまま、毎日を楽しく暮しています。
チャーリーにはひとつの心の支えがあります。子供の頃に母親に捨てられた時に彼女から言われた「いい子にしていれば迎えに来る」という言葉を信じていい子でいるように自分に言い聞かせながら毎日を暮しています。

そんなチャーリイの日常を根底から覆すプロジェクトが突然始まります。脳外科手術によって知能が驚異的に向上する、その人体実験第1号にチャーリーが選ばれたのです。すでに白(ハツカ?)ネズミによって動物実験も行なわれていて、そのネズミがアルジャーノンです。
最先端の脳外科手術によって、平均的な人間の知能をはるかに超えた超知能を獲得したチャーリイの生活は一変します。チャーリイ自身は知りたくなかった、周りの人達の言動の真意を知り、精神的ショックを受けます。そして彼を取り巻く周囲の人々の変化には何とも形容しがたい気持ちになってしまうのは私だけではないと思います。そして、その後チャーリイの身の上に次なる変化が....。

作品を読んだ多くの読者が身につかされる思い。それは幸せとは何か?
当然のことながら、多くの人はわかっている。知識があっても、知能が高くても、様々な分野で優秀な仕事ができたとしても、それは本当の幸せではないという事実を。
では、本当の幸せって何なのですか?
ちょっとやそっとでは答えられない人生の難問を、この作品は真正面からぶつけてくる。 チャーリイは純粋で、必死だ。
人体実験の結果として自分自身が廃人になるかもしれない恐怖を抱えている意味では、まさに必然としての死と直面しながら、残された時間をせいいっぱい生き抜く。

かかわる人達は、極めて自然な振る舞いとして描かれる。何か身近な体験があったのか、実写的といえようか。
人が社会的弱者に対して行いがちな蔑視、迷惑だといわんばかりの忠告苦言、人格の否定、逆に偽善的ともいえる過度な対応などが淡々と描かれると、心が痛くなってしまう。
同じ人間なのに、知的話題ができると周囲の評価が劇的に変化するあたりは、現在社会の風景というか、自分達の日常的光景とも言える。何とも形容できない複雑な思いがわいてきてしまうのは私だけではないと思う。

格差なき社会が言われて久しい。
障がい者にも優しいバリアーフリー社会も少しずつだが前に進んでいる。
しかし私たちが本源的に持っている「知的」なものへの探究心が、翻って差別的な感情の温床になってはいやしまいか。
いま一度、当たり前だと思っていた意識、感覚を見つめ直す時期に来ているのかもしれない。

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