桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第46回】

『芙蓉の人』(新田次郎)

開催日時 2009年1月24日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬 2階・和室(小)西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

物語は、野中千代子が我が子・園子を背負いながら、道灌山(現在の東京都荒川区西端の西日暮里から北区南東端の田端に広がる丘陵)から富士の峰を遠望するシーンから始まります。
時代は明治28年。日本は日清戦争などで殖産興業の国策を推し進めていました。そんな時代に、気象予測の精度を飛躍的にあげるために富士山頂に気象観測所を設置しようとした人物がいました。
その人物の名前は野中到(のなかいたる)。
千代子は到の妻です。
当時はまだ富士山は雲の上の聖地。特に冬の富士山に登った人はまだ誰もいなかった時に、一気に冬の富士山に登り、冬期を通じて滞在しようとした到の行動は一般の国民には無謀にも思える壮大な計画でした。

明治といえば、女性は男性の後に従って前には出ないもの。
家を守り、子供を育てることが妻であり母である女性の努めと普通に考えられていた時代です。
しかし、千代子は、むしろ当然のごとく、夫・到の富士山登攀の後を追って単身富士に登り、到と共に越冬を強行します。

野中到の思いは達成することができるのか。
なぜ千代子は強く行動できたのか。
そして到と共に生きた千代子の人生とは何だったのか。

いまだ日の陽りを浴びていない、110年余前の日本を生きた明治女性の生き方を共に学んでみたいと思います。

作者

新田次郎 (1912年6月6日 - 1980年2月15日)
本名・藤原寛人(ふじわらひろと)。小説家、気象学者。妻は作家の藤原てい。
長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)に彦、りゑの次男として生まれる。彦の兄に気象学者藤原咲平がいる。ペンネームは“新田の次男坊”から。霧ケ峰のふもとの角間新田の郷士の家系で、代々諏訪藩に仕えた。年寄りの炉辺談話は「諏訪の殿様」「武田の殿様」が多い。
次男正彦は数学者・エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表。登山好きの皇太子徳仁親王が愛読する作家としても知られる。
旧制諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現:電気通信大学)卒業。中央気象台に就職し、富士山測候所勤務等を経験する。1956(昭和31)年『強力伝』で直木賞を受賞。『縦走路』『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を拓く。特に富士山をテーマにした作品が多く、思い入れが強い。「第一の故郷が長野、第二が山梨」と話していた。歴史小説にも力を注ぎ、山梨を思う気持ちは武田三部作にも結実。1974年『武田信玄』等で吉川英治賞を受ける。1980年、心筋梗塞で急逝。没後、その遺志により新田次郎文学賞が設けられた。
「地べた」視線の作家との評価があるように、庶民の生活感覚で作品を描いた。

物語の主人公

野中千代子(のなかちよこ)
1871年9月 福岡県那珂郡警固村(現在の福岡市中央区)に生まれる。
能楽師梅津只圓の娘で、1895年夫の野中到を助け、厳冬期の富士山気象観測に挑む。
到との間に早世した娘・園子を除き6人の子をなした。
1923年2月22日:死去。

野中到(のなかいたる)
1867年(慶応3年)福岡県早良郡鳥飼村に生まれる。
1889年(明治22年)大学予備門(東大教養学部の前身)中退。
1892年(明治25年)母方の従妹である福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子(戸籍名・チヨ)と結婚
1895年(明治28年)1月・2月:富士山頂通年観測の準備のため2度の冬季登山を行う。
1895年(明治28年)8月30日:富士山頂に私財を投じて日本最初の富士気象観測所を建設。
1895年(明治28年)10月1日:気象観測を開始。 12日に千代子が登頂。
1895年(明治28年)12月22日:病気のため越年観測を断念し下山。
1901年8月:春陽堂より観測記録を含む著書『富士案内』刊行。
1923年2月22日:千代子死去。
1955年2月28日:到死去。

『芙蓉の人』野中千代子の生涯

主人公は富士山頂で初めて冬期気象観測を行った野中到・千代子夫妻。実在の人物です。『芙蓉の人』のタイトルからわかるように妻・千代子の生き様を中心に描かれています。
作品のタイトルは千代子が書き、報知新聞などに掲載された日記の題号「芙蓉日記」に由来すると新田次郎自身によって書かれているが、それと同時に「千代子夫人の当時の写真を見ても、『芙蓉の人』と云われてもいいほどの美しい人であり、心もまた美しい人だったから、この題名にした」と記している。
芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつける。
日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰(芙蓉峯)と形容されてきた。
千代子の生き様は、まさに芙蓉のごとくであったに違いない。

桂冠塾の当日は5名で行いました。 様々な視点での発言があり、大いに意見交換もできたように思います。

到と千代子の思い。

到が大学予備門(現在の東京大学教養学部)を中退してまで成し遂げようとした思いは、どこから生まれてきたのか。
そんな到を認めて支援する野中家、そして中央気象台。普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではないか。
野中家のポジショニング、そして到の人間的魅力にもっと迫ってみたい。

そして、そんな到を陰に陽に支え続けた妻・千代子。
本書の解説等では「明治を代表する女性」として野中千代子を絶賛するむきがあるが、どう見ても当時の平均的な明治女性ではない。
その人間としての資質、決意と行動はどこから生まれてきたのか。どのような人生を歩むと千代子のような女性に成長することができるのか。個々の場面での判断が極めて的確である。どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする姿は女性のみならず、人として素晴らしい生き方であり、多くの人が見習いたいと感じるだろう。そして必要とあれば、自らその能力を修得する努力を積み重ねていく姿に自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じた人も多いに違いない。
そしてそんな千代子を支えたのも、また家族であった。
千代子の決意を聞いた福岡の実家の両親も決して強行に反対はしなかった。
どう考えても、死と背中合わせの無謀な行為にもかかわらず、である。

どんな意味があったのか

物語にはいくつかの山場がある。
到が冬期観測を開始するまでの強い意志を持続させながら、堅実に準備を重ねていく千代子。
夫に遅れること11日にして、女性で初めて、しかも冬期の富士登頂を果たし、到の気象観測のサポートを始める千代子。
しかし高山病と思われる症状が続き、思うように手助けができない千代子。
喉頭の膿を取り除き、健康を回復、到のサポートに嬉々として従事する千代子。
高所環境によって次々に壊れた観測機器。それを自分のせいだと思い、笑顔をなくしていった千代子。
到の健康状態が悪化し気象観測の主役が千代子に移る。
弱音を吐く到を叱咤激励する千代子。
慰問者に危険な病状が知れた時の到が懇願するシーン。
救助隊によって救出される野中夫妻。そこで繰り広げられた千代子の思い、心からの訴え。
下山後の夫妻の巻き返し準備とその途上での千代子の死。
一人になった到が冬期富士山頂観測に触れなくなった思い。
そして、20数年後に富士山頂測候所が完成する...。

果たして、野中夫妻の行動はどのような意味があったのだろうか。

心に残る場面

私が心に残った印象的なシーンを2つ挙げておきたい。
ひとつは、気象観測機器が壊れたあとの千代子。
もうひつとつは、千代子が亡くなったあとの到である。

千代子の笑顔。奪ったものは何か。

観測機器が壊れたのは、もちろん千代子には責任などない。
しかし千代子が観測中に起きた出来事であったため、自らを責めるようになったのか、自信を失ったのか、次第に笑顔が消えていった。
そのとき到は初めて気がついたのだ。千代子の笑顔にどれほど救われていたのかという事実を。
千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富士山頂にひとりでいるのではないという気持ちになり、千代子のためにも自分のためにもしっかりしなければならないのだと思っていたのに、その千代子の笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感ずるのであった。

笑顔には力があると言われることがあるが、本当にそのとおりだと思う。
特に女性の笑顔には、勇気と希望を涌き起こす力があると感じる。
用意周到であった到が、こと自分自身の身体に関しては無謀であったことも千代子の指摘と機転によって救われる。一日12回の気象観測など常人には到底無理である。トイレのない居住空間もその最たるものだった。
千代子にはその無謀さゆえに、到が生命の危機に直面することを本能的に感じとったのだろうか。

そんな思いをした富士山頂観測も82日間で断念、下山することになる。
気象学の権威である和田雄治と渡り合うシーンは男尊女卑の日本社会と真っ向から対決する場面でもある。大きなテーマである。にもかかわらず、小説全体から見ると小さく感じるのは、千代子の人生そのものが、男とか女とか、そんな違いを超えてぐんぐん迫ってくるからだろうと思う。

夫婦で成し遂げた偉業

下山して数年を費やしながらようやく健康の回復をみる。
野中夫妻は再度の登頂のために準備を始めるが、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳で急逝。
「野中到は、千代子の死後は富士山頂の越冬気象観測については二度と口にしなかった」
最初は到個人の目標であった富士山頂の越冬気象観測は、生死に直面する苦難に直面し、野中到・千代子夫妻の共通の目標になった。その同志、戦友である千代子が死んだ今、到にとっては永遠に到達することのできない目標に変わったのだろう。昇華したといってもいいかもしれないし、センチメンタルな追憶の世界に入ってしまったのかもしれない。一般的に、妻に先立たれた男性は生きる意欲を失いがちだと言われる。こうしたところにも男性の弱さがあるのかもしれない。
後年、次男の野中厚氏が語っていたエピソードがある。
母が生存中のことでした。父に褒章の話がありました。富士山頂における冬期気象観測の功績に対する褒章だったと思いますが、父はもし下さるならば、千代子と共に戴きたい。あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったことがありました。
この話に、すべては凝縮されているのだと私は思う。

突き進む勇気。撤退する勇気。

下山、そして下山後の記述から野中夫妻、特に到は瀕死状態であったことがわかる。下山の決断がなかったら、おそらく生命を落としていただろう。
自らが誓った目的のために生死をかけて挑む。
しかし再起を期すために、一時の撤退を余儀なくされることがある。
その決断の是非はどこで問われるのであろうか。
蛮勇と真実の勇気。その決断はわずかな差にすぎないのだと思う。
その違いは、最後に勝つという執念によって決されるのではないか。
そう思いながら、最後に新田次郎の言葉を紹介して本作品の感想を締めくくりたい。
この小説を書く前には偉大な日本女性の名を数名挙げよと云われても、おそらく私は野中千代子の名を挙げなかっただろう。それは野中千代子をよく知らなかったからである。しかし、今となれば、私は真っ先に野中千代子の名を挙げるだろう。
野中千代子は明治の女の代表であった。
現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

主な論点

・千代子の気持ちの描写、心象風景の変化
・野中到はなぜ富士山頂観測にこだわったのか
・千代子を富士山頂に登らせたものは何だったのか ・決断に至った要因
・女性と男性の違い 求められるこれからの女性像とは
・真の男女平等とは 女性の真価 歪んだ男女同権を糺す
・封建社会と日本女性 千代子と義母・とみ子
・千代子を支援する実家の両親達
・富士冬期観測をめざしながら、日本の戦勝に気持ちを奪われる男達
・昔から富士周辺に暮らし、到と千代子を助け、支えた地元の人達
・野中到、千代子夫妻が成し遂げたものは何か
・死をも覚悟せざるを得ない極限に直面した際の自身の判断の妥当性を考える
・夫を助けるつもりで登頂した後、高山病(らしき)に罹り、助けることができない千代子
・貴重な観測機材が次々と壊れ、自分を責め、笑顔がなくなっていく千代子
・到が起き上がれなくなり、冬期連続観測の「記録の鎖」を必死で繋いでいく千代子
・極寒の富士山頂に何度も慰問に訪れる支援者達
・野中夫妻が生死を彷徨うまさにその時に生命の灯火を消した愛娘園子 夫妻に去来した思いは
・「野中夫妻は元気だったと云ってくれ」と懇願する到の思いとは
・野中夫妻の惨状を目の当たりにし、口止めされながらも事実を報告した熊吉たちの心情と行動
・沸き起こった「野中夫妻を見殺しにするな」の世論
・歴史に残る偉業とは何か 何が歴史に刻まれるのか
・その後、富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることのなかった野中到の思いとは
・「もし(褒章を)下さるならば、千代子と共に戴きたい」
・『芙蓉の人』を執筆した新田次郎の真情とは
・芙蓉の山 富士の魅力

参考データ


水銀気圧計の原理図
左図:水銀柱による圧力と大気の圧力が釣り合っていることを示す図。
右図:水銀気圧計の模式図。水銀槽の部分は拡大してある。赤は象牙の針を示し、水銀槽の水銀面と象牙の針の先端が接触するようにねじを回して調節する。
(「身近な気象の科学」(東京大学出版会)より転載)

左図に示すように、一端を閉じた長さ約1mのガラス管に水銀を満たし、開いた口を押さえたまま逆さにして、その口を水銀槽につけて指を離すと、水銀は水銀槽に落ちるが、約76cmを残してとまる。ガラス管の上部には真空の部分ができる。
これは水銀柱による圧力と大気の圧力が釣り合っていることを示している。大気の圧力(大気圧、気圧)が高いときは水銀柱も高くなり、逆に気圧が低いときは水銀柱も低くなる。したがって、水銀柱の高さを測れば気圧がわかることになる。

右図は水銀柱の高さを測りやすく作った実際の気圧計の模式図である。下端の調整ねじを回して、象牙の針の先端が水銀槽の水銀面にちょうど接触するように調整する。そのときの象牙の針の先端が水銀柱の高さの基準面となる。
次に、ガラス管の上のほうにある水銀柱の上端の高さを主目盛尺と副尺を使って、水銀柱の高さを0.1mmの単位まで測る。水銀は温度によって膨張・圧縮し密度が変わるので、温度補正を行なう。さらに重力も場所によってちがうので重力補正も行なう。
水銀柱750mmは1,000hPaに相当し、また1mmのちがいは1.33hPaのちがいに相当する。hPaはヘクトパスカルと読み、圧力の単位である。

富士山頂で野中到・千代子が使用した気圧計は水銀槽が小さく(逆に水銀の量が多く)、象牙の針の先端は水銀の中に埋没し、調整ねじを回しても現れなかったのである。

参考文献

『富士案内 芙蓉日記』(野中至・野中千代子)平凡社ライブラリー
『変わる富士山測候所』(江戸川大学土器屋由紀子ゼミ編)春風社

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