桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第47回】

『歴史とは何か』(E.H.カー)

開催日時 2009年2月28日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬・第二和室 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

今回取り上げる本は歴史を学ぶ人にとっては古典ともいえるエドワード.H.カー著『歴史とは何か』です。
当初は塩野七生著『ローマから日本が見える』を予定していましたが、歴史認識や論述の流れに少なからずの違和感もあり、より根本的な歴史認識を考える意味でも『歴史とは何か』をテーマにしました。
本書は1961年1~3月にケンブリッジ大学で行われた連続講義の内容をまとめて出版されたもの。半世紀近くが経過した今でも多くの読者を持つ名著です。
カー氏は冒頭から「事実」と「歴史事実」の関係について論及していきます。「歴史は歴史家が作る」という聴講者の関心を惹きつける表現を用いながら、後世の人々が知る歴史的事実とは何がしかの基準によって取捨選択が行われた、ファクタリング後の造形物であることを指摘しています。
その後、社会と個人の関係、歴史と科学と道徳の関係についてふれながら「歴史における因果関係」に論を進め、歴史の研究は原因の研究であると展開していきます。
最後に、今後の歴史研究を展望し「それでも-それは動く。」とのフレーズで本書を締めくくっています。 「歴史は、現在と過去との対話である」という一節は有名になっていますが、カー氏はその先に「未来」との対話も視界に入れていたことが第5章で論じられます。
先行き不透明で10年先すら予測できないとまで言われる現代。
「暴走する資本主義」に象徴されるように、理念不在の時代に突入しています。かつては2大潮流とされていた一翼の社会主義(共産主義)は早々に崩壊し、その後急激な勢いでに世界を席巻したグローバル資本主義の顛末は、100年に一度と言われる世界経済恐慌によって完全否定されようとしています。
いま私達は何を基準に判断し、いかにして目下の課題に取り組むべきなのか。その思索のひとつとして、いま一度歴史認識の古典を読み返してみたいと思います。
※なお本書は岩波新書で刊行されています。

作品の感想

社会科学系の書物を読むという習慣には個人差が大きいのでしょうか(^_^;)今回も「まったくページが進まなかった」等の声が続出しました。
「今回も」と書きましたのは、『社会科学における人間』『世論』などを取り上げた回で同様の感想があり、そのときの印象が残っているからですが、桂冠塾の中でも社会科学系の本は比較的少ないなぁと感じてもいます。 そうした状況のなかでも参加者は素晴らしい集中力を発揮していただき、難解な言い回しをひとつひとつ確認、議論を展開していただきました。
特に『歴史とは何か』のストーリーの中で“難解”と感じたのは問題提起に対して必ずしも答えを提示しているとはいえない箇所があることではないかと思います。
本書は1892年生まれのE.H.カー氏が、1961年1~3月にケンブリッジ大学で行った連続講演を中心に、BBC第3放送での講演を加えて発刊されたものです。
当時の歴史学のトレンドへのカー自身の考察を基調としながら、「歴史」に関わる様々な疑問、テーマを提示し、カー自身の見解を述べていくというスタイルで構成されています。その内容から歴史学の入門書として、戦後日本では各大学でテキストとして取り上げられてきた経緯を持ちます。

個々のテーマについてはWebサイトを参照いただければと思いますが、カー氏は本書で、歴史を学ぶ上での疑問点を丁寧に解説していきます。
章毎にカー氏の論点をまとめてみます。

【1】歴史家と事実

冒頭から、歴史的事実ということの認識についての論点を展開。
「事実の羅列が歴史である」という19世紀に主流となった考えを意識的選択の面から反論します。
そしてその意識的選択を行う人達(歴史家)を知り、さらにその歴史家の人格や思想を形成するに至った社会的背景等を知ることが歴史を学ぶ上で不可欠であることを主張。 現代を生きる私達と過去に行われた事実との対話が歴史の真髄であり、相互作用の不断の過程であるという一つ目の結論を提示します。

【2】社会と個人

次に、そうした取り上げるべき歴史的事実とは個人に焦点を当てるべきか、社会に注目すべきかという論点に言及。
当時の欧米社会が個人主義に傾倒しすぎている点に警鐘を鳴らしながら、個人と社会は不断の関係にあり、歴史は両者が相互に影響しあう中に存在することを主張。
今置かれている社会の意向が歴史家の歴史的事実の選択に大きく影響することを事例を通して指摘します。
そのうえで「歴史は個人の行動をどう取り扱うべきか」というテーマに言及しますが、この点についてカー氏は直接の答えを提示していません。おそらくですが、カー氏自身も模索の段階だったのではないかと思われます。
その回答の代わりにC.V.ウェッジウッド氏の言葉を紹介し、2つの命題を提示したのち、 「個人の人間の行動の研究は彼らの行為の意識的動機の研究である」という点について2つの視点から自身の歴史家としての経験を紹介します。
一つは「歴史は相当の程度まで数の問題である」
もうひとつは「人間の行為は行った本人も意図しなかった結果を生むことがある」ということです。
これは社会科学についてまわる宿命的問題とも見なさされている命題です。 どこまで自然科学のような法則性が見出せるのか、また社会科学的法則が提起されたとしてもそのほかの不確実要素が多く、結果を予測できないものを法則と呼んでよいものか。
この点についてカー氏は明言を避けて読者に判断、思索を促しているようにも感じます。
またこの論説の流れの中で突出した人間の行動、反逆者と偉人についてのカー自身の見解も述べられています。

【3】歴史と科学と道徳

そののちに、歴史と科学、歴史と道徳の問題に踏み込んでいきます。
歴史と科学の関係については、前段での論調を踏まえながら「歴史は科学である」との自説を展開します。
その途上での想定される5つの反論への論証が行われています。
1)歴史は主として特殊なものを扱い、科学は一般的なものを扱う。
2)歴史は何の教訓も与えない
3)歴史は予見することができない
4)歴史は主観的になる
5)歴史は科学と異なって宗教的、道徳的問題を含む
という5点に対しての反論です。

その後、歴史と道徳を論じます。
ここで論じている道徳とは宗教そのものであって、一般的日本人が捉えている道徳の感覚ではありません。
ここに至って従来の科学が自らを規定してきた呪縛を明確に糾弾します。
そして「道徳的(宗教的)判断基準なくして歴史は成り立たない」という主張を展開しています。
また、人文学と歴史の関係についても論じます。
これらの結論として「求めるものは科学者も歴史学者も同一のものであり、それは自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増大させることに他ならず、その根本として『なぜ』と問いかけることが大切である」と主張していきます。

【4】歴史における因果関係

そうした歴史研究の方法論として、「原因の研究」を掲げます。
その中で留意すべき点として「単純化」「多様化」を指摘。それぞれの重要性と危険性に論及します。
歴史家が事件の原因を挙げる際の手順として、第一に一つの事件に対して経済的、政治的、思想的、個人的さらには長期的、短期的のいくつか原因を挙げます。
次に諸原因を秩序立て、上下関係を設定。ここに歴史家の解釈が加わる。
諸原因には合理的原因と偶然的原因があるが、後者は一般化を生み出さず我々に教訓をあたえない不毛なものであると論じます。
また著者が「クレオパトラの鼻」とよぶ自由意志の論理は原因を考慮しておらず「ヘーゲルの姦計」と呼ぶ不可避性も非歴史的な反応であるとしています。
そして、決定論的歴史観、歴史研究における未練学派に触れながら、「なぜ」という問題と共に「どこへ」行こうとしているかが重要であると主張します。
「ロビンソンの死」の論述はわかりやすく、その本質を述べています。

【5】進歩としての歴史

歴史の解釈においては、過去に対する建設的な見解が必要であるとし、未来に向かって常に進歩していく中に歴史も存在することを論じます。
歴史は生物学的進化ではなく、獲得された技術が世代間で受継がれていくことを通じた進歩であり、明確な始まりや終りがあるのもでもない。それは必ずしも連続性を保ったものではなく、逆転や逸脱、中断の中で続けられてきた努力でもあると主張。
進歩とは必ずしも意図的な行為の結果ではなく、物的資源及び科学的知識の蓄積の結果だといえる。そして再び歴史における客観性に言及。
歴史における方向感覚があることが過去の事実に秩序を与え解釈することができる。この過程が進歩そのものである。歴史とは過去の諸事件と次第に現れてくる未来の諸目的との対話であるとしています。
そして、歴史的判断の究極の基準は未来にある。
歴史は過程である。客観的歴史家というのは未来への理解が進んでいる者であり、事実と解釈、過去・現在・未来の関係性を理解している者なのだと論じていきます。

【6】広がる地平線

過去から現在に至るまでの「歴史」の変遷に関してのカー氏自身の解釈が講じられます。
キーワードは「自己意識」
デカルトに始まった自己意識は、ルソーにおいて自己理解と自己意識の未知の深遠を切り拓き、自然の世界と伝統的慣習のコンプレックスを廃し、人間の理性と自然法則に発する規則性を求めた。しかしこの時点では未だ人間自身が法則を作ってその下に生きるという権利を意識していない。その後、ヘーゲルとマルクスによって自然法則を支持する決定論と意識に重きを置く主意主義の統合が主張されるに至った。 もうひとつの大きな潮流はフロイトである。
人々は自分の行動に十分な説明ができるとは限らない、個々の人間の歴史的地位や視角を決定している国際的社会的背景、過去観を形成している未来観の吟味を推奨した。
そして現代は歴史的転換の時である。無意識から自己意識へと時代は進んでおり、意識行為によって経済的統制は出来るというカー自身の主張を展開しそのことは進歩と呼んでいいとしている。
理性の濫用に警鐘を鳴らしつつ、欧米中心からアジアやアフリカが世界史的展望の重みが増すだろうとしている。
最後に今後の歴史研究を展望しつつ、この言葉で本書を締めくくっています。
世界は動きつづけるのだ。
「それでも--それは動く。」

歴史とは何か

全体的に、多くの疑問点や論点について誠意をもって答えようという姿勢が見られ、良書と言えるでしょう。 ただ、一問一答形式ではありますが、カー氏自ら提示した疑問に対して回答を用意していない箇所もいくつかあり、理路整然と読み進めようとすると多少混乱してしまうかも知れませんので、その点は要注意です。

本書の最大の貢献は、ストレートに「歴史とは何か」を問いかけている点にあります。
当日の参加者からも意見が述べられていましたが「歴史は学ぶもの」「重要な歴史的事実は覚えていくべきもの」として疑問を持っていなかったという人が、意外と多いのではないかと感じています。
確かに、意図的な取捨選択の結果が歴史的事実の正体であるという程度の認識は殆どの人が持っていると思います。
では、その意図的取捨選択がどのような経緯でなされるのか?
「意図的」という表現には多分に「悪意」が含まれて話されますが、悪意の存在の有無に関わらず取捨選択は為される。それは物理的な制約も含まれることは当然でもある。
そして、そうして編纂された歴史的事実は一人歩きを始める。
取り上げられることのなかった事件出来事は後世の人達への影響は何もなくなる。
ここに、大切な視点がある。

現在、時おり、TV番組等で「知られざる歴史」とか「歴史の真実」とかいったテーマが多くの現在人の関心を集めていることと決して無関係ではないだろう。

歴史とは何か。
カー氏自身も本書の中で、自身の考えを展開しつつも、断定的な定義を行っているわけでもありません。「過程」「進化」「未来との対話」等のキーワードを多用していることからもわかるように、常に変化し続けるのが歴史なのだという認識なのだと思います。

歴史とは何か。
そう問い続けることが、人類の、また自身の人生の未来へ向けた羅針盤となることは間違いないと、私は感じています。

【実例】ロビンソンの死

ジョーンズがあるパーティでいつもの分量を越えてアルコールを飲んでの帰途、ブレーキがいかれかかった自動車に乗り、見透しが全く利かぬブラインド・コーナーで、その角の店で煙草を買おうとして道路を横断していたロビンソンを引き倒して殺してしまいました。 混乱が片付いてから、私たちは―例えば、警察署―に集まって、この事件の原因を調査することになりました。 これは運転手が半ば酩酊状態にあったせいでしょうか。この場合は、刑事事件になるでしよう。 それとも、いかれたブレーキのせいでしょうか。 この場合は、つい一週間にオーバーホールした修理屋に何か言うべきでしょう。 それとも、ブラインド・コーナーのせいでしょうか。この場合は、道路局の注意を喚起すべきでしょう。 われわれがこの実際問題を議論している部屋へ二人の世に知られた紳士-お名前は申し上げますまい-が飛び込んできて、ロビンソンが煙草を切らさなかったら、彼は道路を横断しなかったであろうし、殺されなかったであろう、したがって、ロビンソンの煙草への欲求が彼の死の原因である、この原因を忘れた調査はすべての浪費であり、そこから導き出された結論はすべて無意味であり無益である、と滔々たる雄弁をもってわれわれに向かって話し 始めました。 それなら、われわれはどうすればよいのでしょうか。 われわれは流れるような雄弁を辛うじて遮って、この二人の訪問者を鄭重に、しかし、力を込めて扉口へ押して行き、この人たちを二度と入れてはいけないと、と門衛に命じて、われわれの調査を続けるでしょう。 それにしても、われわれはこの闖入者に対してどんな答えを持っているのでしょうか。 もちろん、愛煙家であったから、ロビンソンは殺されたのです。 歴史におけるチャンスと偶然とを信じる人々が言っていることは、いずれも申し分なく真実であり、申し分なく論理的であります。 そこには『不思議の国のアリス』や『鏡の中の世界』に見られるのと同じ種類の容赦ない論理があります。 しかし、私はこの作者のオックスフォード風な学識の見事な結晶を賞賛する点において何人にも劣るものではありませんが、 それとは違った自己流の論理を別室に保存したいと思うのです。 これらの作品の作者であるダッジソンの流儀は歴史の流儀ではありません。
(【4】歴史における因果関係「ロビンソンの死」より)

章立て

Ⅰ 歴史家と事実
・ 歴史とは何か
・ 事実尊重の時代
・ 歴史的事実とは何か
・ 歴史的事実が生まれる過程
・ 無智の必要について
・ 文書が語るもの
・ 19世紀の歴史観
・ 歴史家が歴史を作る
・ まず歴史家を研究せよ
・ 想像的理解の必要
・ 現在の眼を通して見る
・ 懐疑主義とプラグマティズム
・ 歴史家の仕事ぶり
・ 歴史的事実と歴史家

Ⅱ 社会と個人
・ 社会を離れた個人はいない
・ 個人崇拝の時代
・ 過去は現在を通して
・ 保守主義者ネーミア
・ 時代の流れと歴史家
・ 歴史の産物としての歴史家
・ 歴史研究の対象
・ 個人の行動をどう扱うか
・ 歴史における数の重要性
・ 人間の行動が生む不測の結果
・ 叛逆者をどう見るか
・ 偉人をどう見るか

Ⅲ 歴史と科学と道徳
・ 歴史は科学であること
・ 歴史における法則の観念
・ 道具としての仮説
・ 科学と歴史の間
・ 一般化の意味
・ 歴史と社会学の関係
・ 歴史の教訓について
・ 未来に対する予言
・ 歴史研究の主体と客体
・ 物理学的世界との類似
・ 歴史における神について
・ 歴史家は裁判官ではない
・ 道徳的判断の規準
・ 死骸の山を越えて
・ 超歴史的価値があるか
・ 価値の歴史的被制約性
・ もっと科学的に

Ⅳ 歴史における因果関係
・ 歴史の研究は原因の研究
・ 原因の多様化と単純化
・ ポッパーとバーリン
・ 自由意志と決定論
・ 思想上の「未練」学派
・ クレオパトラの鼻
・ 歴史における偶然とは何か
・ ロビンソンの死
・ 現実的なものと合理的なもの

Ⅴ 進歩としての歴史
・ 過去に対する建設的な見解
・ 歴史における進歩の概念
・ 生物的進化と社会的進歩
・ 歴史の終りということ
・ 進歩と非連続性
・ 獲得された資産の伝達
・ 歴史における方向感覚
・ 過去と未来との対話
・ 「存在」と「当為」
・ 「最も役に立つもの」
・ 真理の二重性

Ⅵ 広がる地平線
・ 現代の新しさ
・ 自己意識の発展
・ ヘーゲルとマルクス
・ フロイトの重要性
・ 現代の歴史的転換
・ 理性の役割の拡大
・ 理性の濫用をめぐって
・ 世界的バランスの変化
・ 地平線は広がる
・ 孤立するものは誰か
・ それでも-それは動く

作者:E・H・カー

Edward Hallett Carr, 1892年6月28日-1982年11月5日。 イギリスの歴史家、政治学者、外交官。 ケンブリッジ大学を卒業後、1916年から1936年までイギリス外務省に勤務。退職後、ウェールズ大学の国際関係論講座の教授職に就任。 第二次世界大戦中はイギリス情報省職員および『タイムス』紙の記者として活動。戦後は、その親ソ的な立場が災いし、一時的に英国の学界とは距離を置く。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの研究員として学究生活に入った後は、もっぱらロシア革命史の研究(全14巻)をライフワークとする。

1939年に刊行した『危機の20年』は、法律的・道義的アプローチが支配的であった国際関係論においてパワーの重要性を強調する現実主義の立場を説いた本として知られる。しかし同時に、反リアリズム的主張もまた同書に存在しており、本書の多様な側面を指摘する研究者もいる。
一方で、同書の影響力は、国際関係論における「カー=『危機の20年』」と言う図式を生み出した。その結果、カーが戦間期から、大戦中、50年代にかけて執筆した国際関係論に関する書籍・論文・新聞記事・レビュー・Timesにおける記事には、あまり関心が持たれてこなかった。

なお、『歴史とは何か』で彼が述べた「歴史とは現在と過去との対話である」という言葉は、戦後日本において特に有名になった。

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