桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第48回】

『平気でうそをつく人たち』(M.スコット・ペック)

開催日時 2009年3月28日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬・第二和室 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

今回の本はM.スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち-虚偽と邪悪の心理学-』です。
「虚偽と邪悪の心理学」の副題がつけられた本書は1983年に出版されています。 初版から20年近く経過した本ですが今読んでも様々な示唆に富んでいるように思います。
ペック氏は『愛と心理療法』のベストセラーをもつ現代アメリカを代表する心理学者、心理療法士。
本書も発売当初から大きな話題となりましたが、「はじめに-取扱いに注意」の冒頭の「この本は危険な本である」の一文は特に有名に。
原題は『People of the Lie』であり直訳すると「うそをつく人達」となるので「平気で」という邦題の表現は意訳と言えるが、読者の関心を惹く絶妙のタイトルになっています。

なぜ人はうそをつくのだろうか。
また、日常的にうそをつくことに罪悪感を感じない人とそうでない人との違いはどこから生まれているのだろうか。
昨今の政治家の強弁ともいえる記者会見などはその端的な一例といえるが、それよりももっと身近な知人達にその姿をみることが多くなったように感じるのは私だけだろうか。
本書の目的は邪悪な人間を糾弾することではない。
また書かれている主張や分析が正しいと断定することも危険かもしれないが、私達一人一人がより良き生き方を模索する途上の問題提起になるのではないかと感じている。

ケーススタディの登場人物

① 脅迫神経症患者 ジョージ
② ボビーとその両親
③ ロジャーとその両親(R夫妻)
④ ハートレーとサラ(夫婦)
⑤ 有能な教師 アンジェラ
⑥ クモ恐怖症 ビリー
⑦ シャーリ―ン
◆ ソンミ村虐殺事件

誰が邪悪なのか。何が邪悪なのか。

当日話題にもなりましたが、ケースタディとして紹介されている事例を精査してみると「誰を邪悪だと指摘しているのか」「その人物のどの行動、思考が邪悪とされているのか」が曖昧に見えてくるケースがあります。
例えば第一章で紹介されているジョージのケースはその典型でしょう。
何をもってジョージが邪悪と指摘されているのか。
・自分自身の強迫神経症の症状から抜け出すために悪魔と契約したことが邪悪なのか。
・悪魔という、神と対立する考えをもったことが邪悪なのか。
・ジョ-ジ自身が信じていない悪魔という空想をしたことが邪悪なのか。
・悪魔という考えが架空だから邪悪なのか。
・強迫観念と対峙する罰を悪魔との契約に盛り込んだことが邪悪なのか。
・その悪魔との契約に自分の息子の生命を盛り込んだから邪悪なのか。
・悪魔という忌み嫌うべき存在を空想することで現実の葛藤から逃げたから邪悪なのか。

この点に関して、スコット・ペック氏の記述は極めて曖昧である。感情的といえるかもしれない。
示唆的に「伝統的なキリスト教的宗教モデル」に基づいて「神と悪魔のあいだの大きな戦い」であると書いていることから類推すると、悪魔という概念に組み込まれたことを問題視しているように思える節もある。
しかしそれは心療内科的な見地から「邪悪」を科学的に研究するという趣旨からは逸脱しているのではないか。人が邪悪な考えを持ったからといって、そのこと自体を非難したり否定することは現実を見ていないように感じる。
人は時として、誰でもそうした考えをもつことがあるのではないだろうか。
少なくとも上記ジョージ氏のケースでは被害を受けた他者は存在しない。
彼自身の心の中の葛藤の域を出ない。
現実の社会には悪影響を与えていない。
しかもジョージはその精神的遣り取りによって精神的不安定さから抜け出すことができている。これは誰でも空想しうる出来事であり、邪悪といえないのではないかという指摘もあるだろう。

「邪悪な人」は身近にいる

第二章以降のケースは、ジョージに比べると邪悪な人物、行動の特定は比較的に明瞭である。
しかし本文でも指摘されているように依然として邪悪の判明は曖昧であり、加害者、被害者の関係も一定しているわけではない。相互依存でもある。
スコット・ペック氏が主張するように、病症のひとつとして「邪悪」という認定を行うことは大きな一歩を踏み出すことであるのかもしれない。
実際の生活をしているとスコット・ペック氏が指摘する「邪悪な人たち」は厳然と存在する。
その特徴を本文から列挙すると...

・邪悪な人たちは、自身の罪悪を認めない。
・多くの場合、堅実な市民として生活している。
・彼らの犯罪は隠微であり表に現れない。
・自分自身には欠点がないと思い込んでいる。
・自分自身の罪悪感に耐えることを徹底的に拒否する。
・自分の行為を隠蔽するために他人に罪を転嫁する、スケープゴートにする。
・世の中の人と衝突すると、必ず他人が間違っているために問題が起こると考える。
・自分自身の欠陥を直視する代わりに、他人を攻撃する。
・自分自身の中の病を破壊する代わりに、他人を破壊しようとする。
・道徳的清廉性を維持するために絶えず努力する。
・他人が自分をどう思うかという点に鋭い感覚を持っている。
・善人であろうとはしないが、善人であると見られることを強烈に望んでいる。
・自身の邪悪性を認識していないのではなく、その意識に耐えようとしない。
・邪悪な人の悪行は罪の意識から逃れようとして行われる。
・社会的な対面や世間体を獲得するために人並み以上に奮闘し努力する。
・地位や威信を得るためには熱意を持って困難に取り組むこともある。
・自身の良心の苦痛、自身の罪の深さを認識する苦痛を耐えることができない。
・自分の正体を照らす光を嫌う。
・自分中心的な行為が他人にどのような影響を及ぼすのか考えない。

邪悪な人はこのような傾向を持っている。

「邪悪な人」は本性を隠す

上記のような人物が、誰の身の回りにも一人や二人はいるはずである。「そうなんだよ!」という声があちこちから聞こえてきそうである。
日頃から「あの人、これっという決定的な出来事はないけど生理的に信用できない」という知人がこれに当てはまることが多いのではないかというのが、私の個人的印象でもある。
それはペック氏も指摘しているように、邪悪の認定の困難さのひとつが「隠微さ」にあることに起因している。一つ一つの行為を見ていると、それだけのことでは邪悪とはいえないのではないかというケースが殆どである。
仮にひとつふたつの行為で回りの人の大半が「この人は邪悪だ」とわかる人は、早かれ遅かれ法律によって裁かれる。そうではない人が問題なのだというのがペック氏の指摘である。

その後、ペック氏の論点は自らに最もかかわりを持った患者であるシャーリーンにうつった後、集団の悪について論じていく。

人はなぜ邪悪になるのか。

「邪悪の認定」については多くを語るペック氏であるが、その処方箋となると必ずしも多くのページを割いているわけではない。キリスト教信徒らしく、神の加護を信じ、愛の実践を貫くことを主張している。
作品の全編を通じて、ペック氏の思想の底流に流れているのはキリスト教による愛の実践である。彼が宗教的な問題と科学的問題が対立するという際の「宗教」とは、常にキリスト教であり、仏教等の思想はこれに含まれていない。
こうした点とも関連するわけであるが、ペック氏は「人はなぜ邪悪になるのか」という点については触れていない。
その結果の必然として、「どうすれば邪悪の精神を克服できるのか」という我々読者が最も知りたい結論についても論及することができない。
この点がこの作品の限界と言える。

「邪悪な人」は修羅の生命状態

では生命論的に考えると「邪悪」という状態、「平気でうそをつく人たち」とはどのように考えればよいのだろうか。
仏教観で考えると、生命の状態は刻一刻と変化し続けている。「人生は無常(常ではない)」という表現はまさにここから出ている概念だ。
その意味では「邪悪」な状態が表面に当然出てくることもあれば、他の生命状態が思考行動の中心になっていることもある。
人によっては、「邪悪」な生命状態がことのほか多く表面化しその人の人生の大半を占めているという状態が意外と多いように感じる。
「生命の基底部」と表現される、その人が最もよく帰着する生命状態が問題なのである。
「邪悪な人」とは生命論では修羅界の生命状態に最も顕著に現れると言えるのではないか。
自分の体面を繕うために他人をスケープゴートにするあたりは他化自在天と呼ばれる生命そのものであり、自身を認めさせようと強烈に努力するあたりは下品の善心であり、勝他の念であり、我慢(自分が、自分が、という慢心の生命)のエネルギーそのものである。

「邪悪な人」の処方箋はあるのか

仏法では、そうした生命状態も十界互具であるからこそ、自己を高め、幸福社会実現へのエネルギーとすることができると解明する。
またその原因は過去世からの自身の業行に他ならないと説き、すべては自分自身から出発し、自身が関係する環境や人達に広がり、自分自身に帰結することをその根本法則として解明している。
そのうえで生命の大転換を行う方途を宇宙を貫く大法則として展開し、実践するうえでの最重要要素として生命法則を実際に体現する人間の生命活動に着眼し、そうした人間の連続性を継承する師弟の存在の重要性を論じている。
ここに、ペック氏が指摘だけに終わっている諸課題の解決の方途があるのではないかと私は受け止めている。

「邪悪な人」克服のキーポイントは自身の生命変革に

回りの人間の邪悪性を見抜く力を持つことも大切だろう。
邪悪というメカニズムを科学的因果律で解明しようとする努力も必要だろう。
そのうえで、それ以上に、そうした邪悪な生命状態を表に顕わした人達とも、変わらず接しながら、より高い生命状態の環境に変化させていく努力を行うことが最も求められているように思えてならない。
回りの環境に一喜一憂するのではなく、自分を取り巻く環境を粘り強く変えていく努力。それはとりもなおさず、自分自身が変わることにある。
自分は変わらずして、回りを変えようという生命は他化自在天の生命であり、邪悪な人そのものに成り下がってしまう。
その意味で、日々の生活は自分自身の人間革命の挑戦といえる。
そう思えた時、自分が本当に変わることができるのではないだろうか。

回りに対する不満をぶちまけているだけでは、行く末は自分自身が「邪悪な人」になってしまう。
理屈ではわかっていても、現実には簡単なようで、とてつもなく困難だ。
なぜなら、自分が思うようにいかないことがあると、憤懣をぶちまけて自分に都合が良いように回りを動かす実態を日常的に目にしているからだろうと思う。
残念ながら人は、自分が生活している環境に、いとも容易く、感化されてしまう生き物なのだ。
環境に紛動されていることに少しでも早く気づき、また日々決意をしながら、自分自身から社会を変える具体的な行動を続けていく一日、また一日でありたい。

「邪悪な人」はある種の精神疾患

ここまで自分自身が邪悪な人間にならない、その状態を克服する方途を語ってきたが、最後に現実の生活を考えてみよう。
前段でも述べたが、自分の身近に邪悪な人がいるケースが、ことのほか多い。時代を追うごとに徐々に邪悪な人が増え、さらに隠微で悪質になっている感がある。
私の身近にも典型と言える「邪悪な人」がいる。
様々な場面でその性癖と向き合い、少しでも状況を改善したいと対話を続けてきたが、ある程度の見解にも達してきた。
それは「邪悪な人」とは生命の傾向性であるとともに、軽度または中程度の精神疾患であるということだ。
自己愛性パーソナリティ(人格)障害。
それが邪悪な人が罹っている精神疾患と言えるだろう。この精神疾患の特徴とされる生命傾向が、スコット・ペック氏が指摘する「邪悪な人」の特性と符合する。
・現実から乖離した過大な自己評価感
・成功や権力、美しさ、理想的な愛を自分のものにできる空想に執着している
・自分は特別な存在である、特別な存在の人物に認められている
・過剰な賛美を求める
・特権意識を持っていてそのように対応されるのが当然と思っている
・自分の利益のために他者を利用することに躊躇がない
・他者への想像力(共感)が欠落している
・他者の気持ちがわからない、わかろうともしない
・常に他者を恨み妬みを持ち、自分に対しても嫉妬されていると思っている
・尊大で傲慢、常に他者を攻撃する言動をする
・自分が良い人だと思われるために多大な努力をする
・他者が自分よりも高く評価されることが我慢できない
・自分が評価されるためには平気で他者を過小評価し攻撃する

こうした症状が5つ以上ある、または成人期早期までに見られると自己愛性パーソナリティ障害である可能性があります。
自分を大切にする、高く評価されたいという気持ちを持っていること自体はめずらしいことでもなく、至って自然な感情のひとつでしょう。
しかし自分が評価されたいと思うあまり、他者を攻撃したり罵声を浴びせる、他者を利用することは、あってはならない。

自分は正しい、改善する努力すらしない、しようと微塵すら思わない。
この症状を有する人の本当に悲劇は、自分が障害を有していると自覚していない点にあります。
疾患を有する本人ではなく、その周囲の人達が被害を被る点にこの症状の深刻さがあります。
周囲の人を巻き込んで不幸にしてしまう状況をなんとかしなければならない。
本人を刺激しないように要求されるように賞賛したり、マウントを取ろうとする言動に乗らないように気遣うことで、攻撃されたり怒鳴り散らされる状況を回避できるようにもみえますが、所詮はその場しのぎにしかなりません。自分の主張が認められたことで、自己評価がさらに過大化し他者への態度が凶悪化することもありえます。
根本的な解決のためには、専門医の診察を受け、カウンセリングによる精神療法を受けることです。本人を納得させることは至難ですが、解決に繋ぐ道だと覚悟して粘り強く接していくしかないと感じています。

ただその努力も、無理をしてはいけないと思います。
何年も耐え忍び、対話の努力してきた。その経過で疲れてしまったのであれば、またそんな努力まで至らなくても、人格障害を持つ人と距離を置くことがあってもいい。
その人を思いやる気持ちを伝えて行動してきたことは生命レベルで十分に伝わっている。
改善の方向に進むかどうかは、最後は罹患している本人の問題だと思うからです。
夫婦であれば別々の人生を歩むことがあってもよい。
親子であっても別々に生きていくことを選んでも、全然よい。
相手を思いやった気持ちや行為は、必ずいつか意味があったと思えることがあると思います。
少しでも努力が報われる人生であるよう念願したいです。

M.スコット・ペック(M.Scott.Peck, )

1936年生まれ。ハーバード大学で社会関係学修士号取得。卒業後、コロンビア大学での医学部進学課程を経て、63年にケース・ウェスタン・リザーブ大学で医学博士号を取得する。ベトナム戦争時、9年間にわたって米軍に精神科医として勤務した後、1972年にコネチカット州ニュープレストンで精神科クリニック(心理療法カウンセラー)を開業。同州ニューミルフォード病院精神神経科クリニック所長も務める。
1978年に刊行した『The Road Less Traveled』(邦訳:『愛と心理療法』、創元社)は、13年連続でニューヨーク・タイムズ紙ベストセラーにランクインするという大記録を樹立する。1983年『People of the Lie』(邦訳『平気でうそをつく人たち』)発刊。1984年に、コミュニティと世界の平和・理解を促進するための非営利団体「コミュニティー・エンカレッジメント財団」を設立し、ワークショプや講演などを行いながら文筆活動を続ける。
2005年逝去。

章立て

第一章 悪魔と取引した人
・ ある脅迫神経症患者の場合
第二章 悪の心理学を求めて
・ モデルと神秘について
・ 生と死の問題
・ ボビーとその両親 ・ 邪悪と罪悪
・ ナルシシズムと意志
第三章 身近に見られる人間の悪
・ ロジャーとその両親
・ ハートレーとサラ
・ 精神病と人間の悪
・ ブードゥー教の夢
・ クモ恐怖症
第四章 悲しい人間
・ はじめに混乱あり
・ 子供か大人か
・ 自分だけのやり方
・ すてきな機械の夢
・ 勝利なき戦い
・ 邪悪と権力
第五章 集団の悪について
・ ソンミ村虐殺事件
・ 個人の悪と集団の悪
・ 集団の責任
第六章 危険と希望
・ 悪の心理学の危険性
・ 愛の方法論

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