桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第50回】

『吉田松陰』(山岡荘八)

開催日時 2009年5月23日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬・第二和室 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

日本人ならば誰もが「吉田松陰」の名前を聞いたことがあるはず。幕末日本において高杉晋作、久坂玄瑞をはじめとする倒幕の志士を輩出した私塾の主宰者です。
長州という一地方の藩から日本の未来を変えたその私塾は、松下村塾として有名になりました。
松下村塾の塾生からは伊藤博文など明治政府の中核をなした人材も登場します。

吉田松陰を突き動かしたものは何だったのか。
その原点はどこにあったのか。
あの時代、様々な兵法家や蘭学者たちが跋扈し、多くの私塾も開かれていた。
その中でなぜ松下村塾から綺羅星の如く人材が輩出したのか。
吉田松陰と歴史の狭間に埋もれていった彼らとの違いはどこにあったのか。
そして、松陰の思いはどのように弟子達に、後世に受け継がれたのか。
『足るを知らなければ満足はなく
満足をすることを知らなければ感謝の念の湧きようもない。
そして感謝がないということは
きわめてあらわに
その人間の生涯の不幸を決定づけるということだった。』
(『吉田松陰』陽は陽を孕むの章より)

時代背景を抑えながら、歴史小説の大家・山岡荘八氏の筆による名作を読みたいと思います。

作者

山岡荘八(やまおかそうはち1907年1月11日~1978年9月30日)
小説家・作家。時代小説を中心に活躍。本名は藤野 庄蔵(ふじの しょうぞう)。従四位勲二等瑞宝章叙勲。
新潟県北魚沼郡小出町(現:魚沼市)の山内家に生まれ、加賀安宅(現、石川県小松市)の藤野家に入る。
1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。長谷川伸の新鷹会に入会し、新しい文学の創造を目指す。
第二次世界大戦中は従軍作家として各戦線で活動。
戦後、大ベストセラー『徳川家康』によって国民作家となる。同作品で第2回吉川英治文学賞を受賞。
保守系の政治家や文化人との付合いも多く、1963年には麻薬追放国土浄化連盟を福田恆存・市川房枝・田岡一雄・田中清玄らと結成。
1974年には谷口雅春や岡田光玉と「日本を守る会」を結成し、現在の日本会議へとつながる。自衛隊友の会会長も務めた。 主な作品として『源頼朝』『日蓮』『新太平記』『織田信長』『豊臣秀吉(異本太閤記)』『徳川家康』『毛利元就』『伊達政宗』『山田長政』『柳生石舟斎(柳生一族)』『柳生宗矩(春の坂道)』『徳川家光』『水戸光圀』『千葉周作』『吉田松陰』『坂本龍馬』『高杉晋作』『徳川慶喜』『明治天皇』『小説太平洋戦争』などがある。

時代背景

■欧米諸国のアジア進出

■幕府財政の悪化とペリー来航


■尊王の思想
尊王(そんのう)とは王者を尊ぶ思想。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。
尊王論は、武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶ。中国においては「王」のモデルは古代周王朝の王であったことから「尊王」と書いた。
尊王論が日本に受容されるに際して、日本では天皇が「王」であり、江戸幕府の将軍が「覇」であると読み換えられたが、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」という漢字に置き換えて用いることもあった。
江戸中期に国学がさかんになり、記紀や国史、神道などの研究が行われ、武士や豪農などの知識層へも広まる。また、天皇陵の修復や、藩祖を皇族に結びつける風潮も起こる。
幕末には、平田国学や水戸学などナショナリズムとして絶対化され、仏教を排斥する廃仏毀釈としても現れる。
幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国を行うと、攘夷論と結合して尊王攘夷(尊攘)となり、幕政批判や討幕運動などへと展開していく素地のひとつとなり、明治以降の国体論や国家神道へも影響する。

■攘夷から開国・倒幕へ

吉田松陰の生涯

文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助、滝の次男として生まれる。
天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。
天保6年(1835年)に大助が死去し、叔父の玉木文之進の教育指導を受けた。
11歳で藩主毛利敬親に御前講義を行い、文永3年(1850年)に九州に遊学。江戸に出て佐久間象山の師事を受けた。
嘉永5年(1852年)長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
嘉永6年(1853年)マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854年)に浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。しかし密航を拒絶されて送還されたため、松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られている。
安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
安政5年(1858年)幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺を自供し、野山獄に送られた。
やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。
松陰の死後も、彼の思想は明治維新の原動力となり、多くの志士をはじめ、明治の時代を拓く多くの偉人達を輩出した。

作品の感想

吉田松陰、寅次郎矩方の生涯は、大きく5つの時期に分けて捉えることができます。
若き時期から
① ~11歳 幼少期から徹底した秀才教育の時期
②11~15歳 人間形成の時期
③16~19歳 既存学問の集大成の時期
④20~25歳 人と出会い見聞を広める諸国周遊の時期
⑤25~30歳 リーダー、教育者としての後半生の時期
です。
私達の持つ「吉田松陰のイメージ」は5番目に位置する5年間が強いわけですが、その5年間に至る「前半生」である25年間を知ることが松陰に実像に迫る重要な鍵です。

読み進めるにつれて私達が持つイメージと違う吉田松陰が現れてきたように感じた方がおられたのではないかと思います。
松陰は決して幸運とはいえない環境に生まれ育ちますが、常に前向きな向上心を持ち続ける父母のもとで兄弟にも恵まれて急激に成長していきます。

松陰は若くしてひとかど以上の秀才になりますので、毛利藩の方針の中での人生の軌道を選択したとしても、それなりの歴史に名を残したかもしれません。
作品に描かれる松陰は、人間味にあふれています。
少し新しいことを覚えると天狗になり、知らないがゆえに厚顔無恥な意見書を出し、後年自分自身で恥ずかしくなったりしています。
その一例が19歳の時の意見書提出のあとの松陰の言動であり、20歳になって初めて藩内海岸防備視察に行った際の浮かれように現れています。
このときの松陰は、まるで修学旅行に行っている中学生のようです。
無邪気といえば無邪気ですが(^_^;)このときの状況のままで何も変わらなかったとしたら、その後の松下村塾での薫陶は実現しなかったのは明白です。

松陰はその後、九州視察に赴き、自分の見識がいかに浅薄であったかと思い知らされます。彼はこうした挫折を飛躍台にしながら自分自身の境涯を大きくし続けていきます。

その象徴的な出来事がアメリカ密航の失敗です。
計画自体が幼稚だったという批評もできるかもしれない。
確かに失敗直後に松陰が振り返って、杜撰な点をいくつも指摘できるくらいであったのだから、成功する確率など限りなくゼロに近かった。

しかし、山岡荘八氏が書いているように、極限での失敗に直面した時こそが、その人の人生の岐路です。
絶体絶命の悲観的状況に追い込まれた時、殆どの人が「諦め」という選択肢を取ってしまう。
誰が考えても打開できないと考えるような状況。
あきらめるのは当然かもしれない。

また安全安心をうたう社会ほど、それを容認するしくみにもなっている。
セーフティネットという名前の社会保護政策はその代表例です。
自己破産や倒産という手続きをとれば、出直すことができるのが現代社会。
たしかに出直すために足かせ手かせを軽くするという意味では有効な手段でしょうが、自分自身が行った行為が帳消しになるわけでは決してない。
自分の人生、生命の軌跡には成功したことも、失敗したことも、誰が見ていなくても厳然と刻印されることには変わりがない。

また、リセットすることで次の人生を素早くやり直せるという反面、そのぎりぎりの局面を自分自身の人生の絶好の機会にするチャンスを放棄していることも忘れてなならないと思います。
身近な学問やスポーツ、仕事のスキルの修得などに置き換えて考えてみればわかりやすいかもしれません。
自分の能力を超えた負荷(英語で言えばストレスということになる)をかけることが能力開発や技術取得の絶対条件。その人が持っている能力以下の仕事をしているだけでは、いつになっても成長はしない。
かえって次第に能力は衰えていくのは科学的にも明らかな事実です。

このときの松陰も決して例外ではありません。
松陰はこの危機的状態を、決して逃げたり避けたりしないと決意します。
その決意が自首という勇敢な行動に繋がり、裁きの場を絶好の言論闘争の場へと昇華させていく。
そしてその精神と行動が松下村塾として形作られ、明治維新と新政府の要人達の輩出へと繋がっていったのです。
アメリカ渡航失敗の現実から、松陰が死を選んだり、保身のためにその場から遁走していたら、今の日本は違っているものになっていたでしょう。
事実、アメリカ渡航を共に実行しようとした金子重之助は元々頑強な心身の持ち主であったが、この事件を境に急速に生命力を失ったかのように死出の方向に向かっていった。

何重にも絶望の淵に突き落とされた松陰が、ぎりぎりのところで決して諦めなかった要因を山岡荘八氏は、大和魂と両親の薫陶と愛情であったと指摘しています。

ここでいう大和魂、また尊王と言い換えても差し支えありませんが、その精神は、現代日本人が考えているような漠然としたものでないことは、作品の中で丁寧にかつ論理的に記述されています。
それは当時の勤皇志士と呼ばれた人達と比類しても、おそらく間違いないことであると思いますが、群を抜いている。

吉田松陰にとっての勤皇観とは、日本人の精神形成の歴史そのものであるといっても過言ではありません。
松下村塾の教育は個性尊重、人間尊重であったという。 それは西洋的な個人主義ではなく、松陰にとっては、個人も藩も国家も民族も、別々ではなく、みな一つの宇宙の生命に包含された一体のなかの枝葉に過ぎないと見ていた。

--自分を取り巻く世界からの恩恵に感謝し、大いなる生命観に立脚する。
--その感謝の心を根幹に行動を決していくから、日本人は優れているのだ。
平易に表現すれば、吉田松陰の勤皇観はこのように言えるのだと、私は思う。

吉田松陰の下で学んだ門下達は、明治維新を成就し、新しい明治の時代を築いていく。
その原動力となったのが松陰の尊王思想、そしてそれを下支えしていた生命哲学であったと言えるのではないか。
ただ、時代を追う毎に、松陰の思想の根本を継承する者が急激に減少したことも想像に難くない。また、松陰に直接薫陶を受けた者でさえ、激変する生活環境の中で、根本理念を忘れていった。

なぜそう考えるのかといえば、その後の殖産産業と共に富国強兵の道を猪突猛進した明治国家に生命への感謝の念を見ることは、限りなく不可能に近いからである。

吉田松陰が目指し、門下生達に説き続けた国家天下の理想像。
それは、現代を生きる私達にも警鐘を鳴らしているように思えてならない。

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