桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第57回】

『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)

開催日時 2009年12月12日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分 勤労福祉会館 和室(小)

開催。諸々コメント。

この作品は、日露戦争を目前にした1902年(明治35年)に、日本陸軍青森第五連隊(正式には「日本陸軍第8師団歩兵第5連隊」との名称らしい)がロシアとの厳冬期における歩兵戦を想定して行った雪中行軍の顛末を題材にして書かれた小説である。
一部、フィクションが含まれるが全体のストーリーは史実を元に構成されている。登場人物の名前は変えてつけられている。

※以下、登場人物名は作品中の氏名にて記載する。

神田大尉に率いられた第五連隊は、演習参加者210名のうち、実に199名が死亡するという前代未聞の大惨事となり、生き残った者からも自害者が出るなど日本中を震撼させた。

おりしも同じ期間に八甲田山での雪中行軍を敢行した部隊があった。徳島大尉が率いた弘前第31連隊である。全工程210余km、11日間の行軍を無事故で完遂する。作品の中でもこの2つの部隊が対照的に記述されていく。
なぜこんな凄惨な事故が起こってしまったのか。
2つの部隊の決定的な違いが何だったのか。
そして、それは如何しても回避できないものだったのだろうか。

「天はわれ等を見放した」
映画化によってあまりにも有名になった、絶望と共に放った神田大尉の叫びは、私たちに何を問いかけているのか。

作品の中にある類型の人達が登場している。
歩兵の隊員たちを将棋の駒のように考える人達だ。一人の人間の生命を「モノ」のごとく、多くの犠牲者の生命を科学的データの如く考えているかのような言動が続く。読んでいても「なぜそうなんだ!」とやるせない気持ちを抑えられなくなりそうである。
自然に対しても、その姿勢は変わらない。自分達の力でねじ伏せることができるのだと言わんがばかりの強権発動。根拠の無い感情的、思いつきの現場指揮。
極限状態に追い込まれたときの人間とは、かくも脆いものなのか...。
時代が変わっても、人間の本質は変わらないものだと痛感する。

作品としてもさほど長くない中編小説です。
百年の一度といわれる経済不況が続き、政権が交代し、真の哲学とリーダーシップが問われるこの一年の終わりにあたり、そして新しい年を迎えるこの時に今一度読んでおきたいと思います

作者

新田次郎 (1912年6月6日 - 1980年2月15日)
本名・藤原寛人(ふじわらひろと)。小説家、気象学者。妻は作家の藤原てい。
長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)に彦、りゑの次男として生まれる。彦の兄に気象学者藤原咲平がいる。ペンネームは“新田の次男坊”から。霧ケ峰のふもとの角間新田の郷士の家系で、代々諏訪藩に仕えた。年寄りの炉辺談話は「諏訪の殿様」「武田の殿様」が多い。
次男正彦は数学者・エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表。登山好きの皇太子徳仁親王が愛読する作家としても知られる。 旧制諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現:電気通信大学)卒業。中央気象台に就職し、富士山測候所勤務等を経験する。1956(昭和31)年『強力伝』で直木賞を受賞。『縦走路』『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を拓く。特に富士山をテーマにした作品が多く、思い入れが強い。「第一の故郷が長野、第二が山梨」と話していた。歴史小説にも力を注ぎ、山梨を思う気持ちは武田三部作にも結実。1974年『武田信玄』等で吉川英治賞を受ける。
1980年、心筋梗塞で急逝。没後、その遺志により新田次郎文学賞が設けられた。
「地べた」視線の作家との評価があるように、庶民の生活感覚で作品を描いた。

物語の背景【1】八甲田雪中行軍遭難事件

1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されている。日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地戦に苦戦。さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定して準備していた(事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争が開戦する)。

この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの鉄道・道路が占拠された場合に、軍の進路及び補給路を確保できるかどうかの検証にあった。そのルートは「弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森」と「青森~田代~三本木~八戸」の2つが考えられ、弘前ルートは弘前第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。同時期の実施は偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」等を目的とした研究が目的だったとされているが、準備不測は明白で研究目的が隊員に徹底されていたか疑わしいと思われる。
部隊の指揮は、中隊長・陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)。途中で大隊長・陸軍歩兵少佐の山口鋠に指揮権が移行するがその経緯には諸説ある。神成大尉は、秋田県出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった。
神成大尉の命を受けて危急を知らせる途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、遭難の詳細が判明した。5月28日に全遺体が収容された。
最終的な生存者は11人のみ。生存者のほとんどが凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症はアキレス腱と指3本、左足切断の2名でその他は四肢切断。無傷はわずか3名であった。



物語の背景【2】遭難の経緯

■第1日(1月23日)
午前6時に青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が案内役を買ってでるが、これを断り地図とコンパスのみで厳寒期の八甲田山走破を開始。
途中小峠まではさしたる障害もなく進軍できた。しかし、大峠付近にて天候が悪化し、ソリ隊も遅れはじめたことから、大休止を取った。携帯した食料類は凍りついてしまい食事を取らない兵士が大多数を占める事態となった。装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、駐屯地への一時帰営を協議したが下士官などの反対により、行軍を続行することになる。

風雪をやり過ごしながら馬立場(大峠より2km)まで進軍した。ここから積雪量が格段に深くなり、行軍速度が落ち、食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より1時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。
夜6時、鳴沢付近でソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各隊員が分散して持つこととなった。このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流した。
夜8時過ぎに田代元湯まであと1.5kmの平沢の森まで進出するが、日没により前後不覚となり田代方面への進路も発見できなくなった。そのため、これ以上の行軍は不可能と判断し雪濠を掘って露営する。

■第2日(1月24日)
前日の強行軍が災いし、寒さと疲労を訴える者が続出した。暖を取ろうにも炭火などの燃料が用を成さず、部隊は遭難に近い状態となる。午前2時頃、この事態を重く見た行軍指導部は部隊の帰営を決定する。
部隊は馬立場を目指すが午前3時半ごろに鳴沢付近でゴルジュに迷い込み、崖をよじ登る。ここで崖を登れず落伍する兵がでる。この行軍における最初の犠牲者であるが、猛吹雪で誰も確認ができなかった。
午前8時半ごろに佐藤特務曹長が田代元湯に至る道を発見したと上層部に進言。き山口少佐が独断により佐藤特務曹長の言を採用。佐藤特務曹長に隊の教導を任せた上で、進路を再び田代に変更した。
駒込川の沢に到達するが、その頃の進軍は全員疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めた。駒込川に至ったことで佐藤特務曹長の進言が誤りだったことに気付くが、もと来た道は吹雪により完全に消されており部隊は完全に前後不覚の状態になり遭難となった。
再び断崖を登ることになり、ここでも転落落伍者をだした。駒込川の沢を脱出する際、第4小隊の水野中尉(華族)が従卒と共に卒倒の上凍死。部隊の士気が下がる。
夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見し、露営地とした。部隊は統制が取れない上、雪濠を掘ろうにもそれらの道具を所持していた隊員は全員落伍して行方不明。吹曝しの露天で露営する。吹雪で体感温度が-50℃近く、また前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多くの将兵が昏倒し、凍死していった。
一方、青森では帰営予定日時になっても帰営しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで出迎えに行った。しかし24時まで待ったが消息がなかった。この日は弘前連隊へ転出する松木中尉の送別会を催していたが、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」と話し合っていた。

■第3日(1月25日)
午前3時頃、部隊は馬立場方面を目指して出発した。この時点で死者、行方不明者合わせて40名を超えていた。その他の兵士も多くは凍傷にかかっていた。コンパスは凍りついて用を成さず、地図を頼りに、ほぼ勘に頼っての行軍となっていた。
鳴沢の辺りまで一度は辿り着くも、進行が不可能になり引き返す。その後再度進行するも、途中再び道を見失った。ここで、先頭で教導していた神成大尉が誰ともなく「ここで部隊を解散する。各自勝手に青森へ帰るように」。と命令した。新田次郎の小説やドラマで有名な台詞の元となる、「天は我らを見放したらしい」というような言葉も吐いたといわれる。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの兵士が、この一言により箍が外れ、発狂して服を脱ぎ始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「筏を作って川下りをして帰るぞ」と叫び樹に向かって行きそのまま倒れこむ者が発生し、凍死者が続出した。
この彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。昨晩の夕方から興津大尉は凍傷にかかっており軽石三蔵らが手当てしていた。2月12日の発見時には軽石二等卒は興津大尉を覆うように倒れていた。さらに、長谷川特務曹長など後に生存者として発見される兵士を含む兵士十数名が行方不明となる。長谷川特務曹長は滑落し道に迷っており、彼に従った数名は午後2時頃平沢の炭小屋を発見しそこに滞在していた。長谷川特務曹長が持っていたマッチで火を起し暖を取ったが全員疲労が激しく翌26日午前3時頃に火事になる可能性を恐れ炭火を消し、その後は暖を取ることは無かった。本隊が午前5時30分頃に露営地に戻った頃に山口少佐が人事不省となり、倉石大尉は少佐に遺言を求めた。後藤伍長には少佐はこの時死んだものと判断された。 午前7時頃、比較的冷静だった倉石大尉は斥候隊を募り、比較的元気な15名が馬立場方面への斥候へ向かった。これにより部隊は少なからずも平静を取り戻したがその状況も長くは続かず、午前10時頃には木が揺れるのを見た1人の兵士が「救助隊が来た!」と叫ぶと、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。倉石大尉は、その状況になる度に春日林太夫喇叭卒に喇叭(ラッパ)を吹かせて冷静さを取り戻したという。春日喇叭卒は喇叭が凍結していたため、唇がはがれ翌日凍死した。
佐々木霜吉一等卒が帰路を発見した。午前11時30分頃高橋斥候長が戻ってきて帰路を発見し田茂木方面へ進軍中との報告をした。本隊は戻ってきた斥候隊に付いて行き、馬立場に到着した。ここで渡辺幸之助軍曹らの残りの斥候隊からの報告を待つが、残りの部隊はついに戻らなかった。また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長は重なり合うようにして凍死した。夜5時頃倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が行方不明となっていた。永井軍医や桜井龍造看護長といった医療班は、兵の看護を無理をして続けていたが、その結果本人達も斃れてしまう結果となった。この頃には完全に部隊はばらばらになっていた。 夜12時頃に、倉石大尉の一隊は山口少佐の一行と合流した。この日は馬立場北方の中の森にて露営することとなった。この日の露営は寒さに堪えかねて、凍死した将兵の背嚢を燃やすなどして何とか寒さを凌ぐものの、それでも大多数の兵士が凍死していった。

青森では天候が前日よりも良かったので今日こそは帰ってくるだろうと、小関中尉以下40名は炊飯具を携行して幸畑で粥を作って待っていた。その一部は田茂木野村の南端でかがり火を作って夜まで待った。しかし22時になっても到着しないことから、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのでは考え、三本木警察に電報を出したが確認がとれず、翌日から救援隊を派遣することを決定した。

■第4日(1月26日)
明け方頃に出発。この時点で生存している将兵は60~70名となっていた。部隊の人数は1/3までに減っていた。前日の露営で山口少佐が再び人事不省となり、少佐は兵卒に担がれる状態で行軍する。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成大尉、倉石大尉と自然に決まっていたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていた。神成大尉らは前方高地を偵察する形で前方を行き、倉石大尉は後方を進んでいた。
後藤伍長は目覚めたとき、昨夜自分と共に寝た者が1人もいなかった。1人で青森に向かう途中、神成大尉、鈴木少尉、及川伍長らと出会う。夕方までに、中の森~賽の河原の間(所在不明)に到着。露営をするが、暖を取る事も叶わず、将校を中心に周りを兵卒が囲む形で立ったまま休む状態で露営をすることとなった。
村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。大峠まで捜索活動を行ったが、この日の気温は-14℃であり、風雪も厳しく、捜索を断念して田茂木野へ引き返した。
■第5日(1月27日)
倉石大尉は目の前の道が二手に分かれる場所で神成大尉、今泉見習士官、中野中尉、鈴木少尉らと合流した。談合し、隊は二手に別れて行動する事になった(四日目とも言われるが倉石大尉は五日目と証言しており恐らくこちらの方が正しい)。真夜中(午前3時頃と推定)に出発。この時点で生存者は30名で倉石大尉と山口少佐を中心とするグループと、神成大尉を中心とするグループに分かれた。
倉石大尉のグループは駒込川方面を進むが、中野中尉をはじめ数名が倒れた。途中青岩付近で沢にはまってしまい、進むことも戻ることもできなくなる。
夜、倉石大尉らの一隊では今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い周りが制止するのも聞かず川に飛び込んだ。倉石大尉は「川を下っていった」と述べているが、他の生存者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。
神成大尉のグループは、道自体は比較的正確に進んでいたが、倉石大尉らと異なり猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出した。残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行くと言い、出発したがそのまま帰ってこなかった。3人となりしばらく留まるなかで、及川篤三郎が危篤となり手当ての甲斐なく死亡した。神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進むが神成大尉が倒れてしまった。神成大尉は後藤伍長に「田茂木に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤伍長は1人で朦朧とした意識の中で田茂木へ歩き続けた。

救援隊は捜索活動を再開。今日こそは何としてでも雪中行軍隊と接触しようと、案内人を何とか説得して、大滝平に進んだ。午前10時頃、三上中尉率いる小隊が大滝平付近で雪中に立つ後藤伍長を発見した。本人はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救援隊のために救われたり」と述べている。発見時の様子を東奥日報は「直立せしまま身動きもせずキョロキョロせしのみ」と報じ、「遭難始末」では「仮死状態で歩哨の如く直立していた」と述べられている。ここで雪中行軍隊が遭難したことが判明した。 伍長が「神成大尉」と微かに語ったため、付近を捜索するとすぐ先に神成大尉が倒れていた。大尉は全身凍っていた。腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れてしまった。その後口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま凍死した。及川篤三郎の遺体も発見された。19時40分、三上少尉が連隊長官舎に駆け込み大滝平で後藤伍長を発見したことと雪中行軍が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可」となったことを知らせた。青森歩兵第五連隊長の津川謙光中佐はこの報告を聞いて事態の深刻さに気づく。
※その後
■1月28日
倉石大尉らの一隊では、佐藤特務曹長が下士兵卒を連れ川に飛び込み、そのまま凍死。これに関しても倉石大尉は「連隊に連絡しようとして行ったまま行方不明」と述べている。倉石大尉ら4名は崖穴に入った。山口少佐がいる川岸の場所と、倉石大尉らのいる場所の二つに別れて兵士がいたが、どちらかといえば倉石大尉らのいる所の方が場所的には良かった。倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めたが、山口少佐は「吾は此処に死せん」として拒否。比較的動けた山本徳次郎が山口少佐に水を与えていた。
■1月29日
救助部隊が神成大尉の遺体を収容し、各哨所も完成。同様に雪中行軍をしていた弘前隊が青森に到着。
■1月30日
賽の河原で中野中尉ら36名の遺体発見。倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道に当たる。
■1月31日
午前9時頃、鳴沢北方の炭焼き小屋にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒の2人が救出されるが三浦伍長は救出後に死亡。小屋で朝まで生きていたもう1人の遺体も発見。3日目に出発したところまでは覚えているが、それ以降は分からず、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体を発見。この際田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と誤電報を送るがすぐさま「生存兵卒2、遺体10」と訂正。
午前9時頃、倉石大尉らが崖をよじ登りだす。15時頃、250メートルほど進んだところで倉石大尉、伊藤中尉ら4人が発見され、生存者計9人が発見された。高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡。この際に救出された山口少佐も病院に収容されたが2月2日に死亡。公式発表では心臓麻痺だが、本書ではピストル自殺説、軍による陰謀説も言われている。
鳴沢では他に水野忠宜中尉(紀伊新宮藩初代藩主水野忠幹の長男)以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。
■2月1日
賽の河原付近にて数名の、按ノ木森から中ノ森にかけ十数名の遺体を発見。
■2月2日
11時頃地震が発生し、その際平沢の炭小屋で屋根が崩れその中にいた長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見される。しかし、佐々木二等卒、小野寺二等卒は救出後死亡した。15時頃には3日目に隊列を離れていた最後の生存者村松伍長が古館要吉一等卒の遺体と共に田代元湯で発見された。村松伍長は四肢切断の上、一時危篤状態となったがかろうじて回復した。

関連地図



作品の感想

この小説は明治35年に起きた遭難事故をモチーフに書かれている。
史実を調査、取材して書かれたものである。
完全なノンフィクションではなく、一部創作部分がある。
また登場人物は仮名になっている。これは作品発表当時に本人を知る遺族関係者が生存していたことに配慮したと新田氏自身が述べている。作品中にも一部本名が記された資料等がそのまま掲載されているので、誰に配慮したか判然としない感もある。

当時、遭難事故については広く新聞でも報道され、多くの義捐金が全国から集まったことが記されている。しかし、その遭難の原因が何であったのか、第五連隊と第三十一連隊の違いがどこにあったのかは長く秘されてきた。軍国政治の時代であり、国家機密に当たるということもその理由だったと思われている。
新田次郎氏はこの小説によって、遭難事故の原因を彼なりの視点で追求し、再び広く世間の人々がこの事件に注目した。

多くの方は、その後映画化されてこの作品に触れたのではないかと思う。
私も少年時代に映画を見た。その衝撃たるもの、ちょっとやそっとの半端なものではなかったことを記憶している。
映画の冒頭の雪のシーンを目にし、バックに流れる音楽を耳にすると、自分自身も吹雪の中にいるような気持ちになって映画全体が克明に頭の中によみがえる。それほどあの映画の印象は強烈だ。

ある意味、物語のストーリーはシンプルだ。
共に第四旅団第八師団に属する青森第五連隊と弘前第三十一連隊。
日露戦争を想定した軍事訓練として、平地部がロシアに占拠された場合に冬季の八甲田山中を縦走して移動できるか、それぞれの連隊毎に雪中行軍を行なって検証してはどうかという、実質的な命令によって厳寒の八甲田山での同時期の訓練が行われることになったのである。
そして、様々な状況が交錯する中で、神田大尉が率いる青森第五連隊は全210名のうち199名の死亡者を出す大惨事となった。一方、徳島大尉が率いた弘前第三十一連隊は210Km余を11日間で無事故で踏破し、一人も犠牲者を出すことなく任務を遂行したのである。

この作品は、常に対比の構図で論じられてきた。
神田大尉と徳島大尉のリーダーシップ、リーダーとしての力量の比較はその典型であるが、それ以外にも
・青森第五連隊と弘前第三十一連隊
・事前準備の差
・自然への認識
・指揮系統
・軍人と民間人
・上司の運不運
・死んだ者と生き残った者の違い
・歴史のある組織と若い組織
・雪中の経験のある者とない者
・他者の助言を受け入れる者と受け入れない者
・事実を精査して判断する者と直感で判断する者
・起こり得る可能性のある範疇を予測できる者とそれが狭い者
・状況に負けてしまう者と状況を乗り越えていける者
・・・等々。
様々な比較で見つめ直すことができる。

この作品を結論付けて、青森第五連隊・神田大尉が「負け」で、弘前第三十一連隊・徳島大尉が「勝ち」と見るだけではあまりにも浅薄すぎるだろう。また、リーダーシップ論としての側面だけで徳島大尉の行動を分析し、「徳島大尉のように行動せよ」というのも安直だ。 神田大尉が優秀な人物であったことは、作品中で何度も指摘されている。
そのような人物であっても、どうして多くの人の進むべき道を見出すことができなかったのか。
悪条件が重なりすぎたという見方もある。
しかし、悪条件が重なることは、今だって頻繁に起こることだ。
「不運だったからしょうがない」というのは、あまりにも悔しすぎるではないか。
どんな条件下にあっても、活路を切り開くことができないものか。
私たちは、大惨事となった青森第五連隊・神田大尉の経験から、ひとつでも多くのことを学ぶことが大切ではないかと思いたい。

最後に...作品のなかの言葉であまりにも有名になった一節。
「天はわれ等を見放した」

あえてひとつだけ、神田大尉に直接言えるとしたら、この言葉だけは言ってはならなかったと伝えたい。
どんな状況になったとしても、人はけっしてあきらめてはならないのだ。
自分に言い聞かせるつもりで、そう決意しあいたい。

参考文献

『八甲田山から還ってきた男』(高木勉著)

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