桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第58回】

『ファウスト』(ゲーテ)

開催日時 2010年1月23日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分 勤労福祉会館 和室(小)

開催。諸々コメント。

今回取り上げる作品はゲーテ作『ファウスト』です。

作者であるヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、世界を代表する詩人であり作家である。そのゲーテが生涯を掛けて書き続けたのがこの作品です。

『ファウスト』は当時広く知られていた「ファウスト伝説」をモチーフに創作されています。
この伝説は、16世紀後半(ルネサンスと宗教改革の時代)にドクトル・ファウストの人物にまつわる話としてドイツで生まれ、フランクフルトの印刷業者シュピースによって1587年に『ドクトル・ヨーハン・ファウストの物語』の題名で出版されてヨーロッパ全域に知られるようになったといわれています。

その後、英訳本を元に劇作家マーロウによって戯曲化されてドイツに戻り、民衆劇や人形劇として庶民生活に広く浸透していきます。
さらに18世紀に入り、ファウスト伝説は大きな変化の時期を迎えます。いわゆる啓蒙主義時代の潮流とも相まって、「真理追究者としてのファウスト」像が確立されます。

元々のファウスト伝説は知識欲の末に悪魔との契約をしたファウストが最後はその契約によって地獄に落ちて永劫続く罰を受けるというものです。
知性優良な百姓の子ファウストが神学を究めますが、それだけに飽き足らず魔術を学び、医術、天文数理と際限なく学び続けます。そしてついに魔法で呼び出した悪魔と契約をします。
それは
「24年間は悪魔の援助を受けて、地上のあらゆる知識と快楽に得る代わりとして、キリスト教の敵として行動する。約束の期限が来たら、魂と肉体を悪魔の自由に任せる」
というものでした。
ファウストは24年間思うがままの人生を送り、その結果として地獄に落ちるという結末を迎えます。
18世紀に描かれる「ファウスト」は最後のシーンに至って、24年間自由奔放に生きたファウストは仮の姿であるという天からの神の声が響き、悪魔の企みは破綻する。夢から覚めたファウストは天の警告に感謝し、今まで以上に信仰に精進するという展開が用意されています。

1749年生まれのゲーテは、こうした様々なファウスト伝説に少年時代から紙芝居や物語本を通して接しており、20代初めには既に自分なりの『ファウスト』伝説を書いてみようと思い描いたとされています。

こうして誕生したしたゲーテの『ファウスト』。
作品は二部構成で、第一部は1806年春に完成し1808年に発表されました。第二部は1816年に起草されます。『腹案』とされる執筆を経ながらも途中で作品の完成を断念する時期を乗り越えて1831年7月に草稿が完成します。その後も推敲を加えようとしたと思われますが、ゲーテは1832年3月にこの世を去ります。
同年『ファウスト・悲劇第二部』として発表されました。

こうして60年の年月を費やして完成した『ファウスト』。そこにはゲーテが生涯をかけて訴え続けた魂の叫びがあるように思えてなりません。
2010年の年頭に当たり、多くに皆さんと共々に読み合ってみたいと思います。

作者

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 、1749年8月28日 – 1832年3月22日)
ドイツの詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家。
ライプツィヒ大学で法律を学び、弁護士を開業。1774年、ドイツ帝国最高法院で実務を見習った時の恋愛を材にとった『若きウェルテルの悩み』を発表し一躍その文名をとどろかせた。その後も精力的に詩集、戯曲、小説を発表。招聘されたワイマル公国では大公に信を得て大臣から内務長官、そして、宮廷劇場総監督として活躍した。今なお世界中の芸術家、思想家に影響を与え続ける不朽の名作『ファウスト』を1831年、着想から60年の歳月を費やして完成させた。
翌1832年永眠。享年82歳。 ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。

ゲーテの文学活動

ゲーテのその文学活動は大きく3期に分けられる。

①シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤・嵐と衝動期)の代表的詩人としてのゲーテ 初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。

②古典主義時代を代表するゲーテ
その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。

③円熟期のゲーテ<リアリズム文学へ>
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」『色彩論』などの著作を残している。

物語のあらすじ

■献詞
■前狂言
■天上の序曲
天使たち(ラファエル、ミカエル、ガブリエル)の合唱とともに壮麗に幕開けられた舞台に、誘惑の悪魔メフィストーフェレス(以下メフィスト)が滑稽な台詞回しでひょっこりと現れ、主(神)に対してひとつの賭けを持ちかける。メフィストは「人間どもは、あなたから与えられた理性をろくな事に使っていやしないじゃないですか」と揶揄し、主はそれに対して「常に向上の努力を成す者」の代表としてファウスト博士を挙げ、「今はまだ混乱した状態で生きているが、いずれは正しい道へと導いてやるつもりである」と述べる。メフィストはそれを面白がり、ファウストの魂を悪の道へと引きずり込めるかどうかの賭けを持ちかける。主は、「人間は努力するかぎり迷うもの」と答えてその賭けを容認し、かくしてメフィストはファウストを誘惑すべく、地上に下ってゆくのであった。

■第一部
ファウストが悪魔メフィストと出会い、あの世での魂の服従を交換条件に、現世であらゆる人生の快楽・悲哀を体験させるという約束をする。ファウストは素朴な街娘グレートヒェンと恋をし、子供を身ごもらせる。そして逢瀬の邪魔になる彼女の母親を毒殺し、彼女の兄も決闘の末に殺す。そうして魔女の祭典「ワルプルギスの夜」に参加して帰ってくると、嬰児殺しの罪で逮捕された彼女との悲しい別れが待っていた。

→ファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの契約
ファウスト博士は、中世ヨーロッパにおける最高学位、ドクトルを取得した学者であった。彼はあらゆる知識をきわめ尽くしたいと願い、当時大学を構成していた哲学、法学、医学、神学の四学部すべてにおいて学問を究める。が、「自分はそれを学ぶ以前と比べて、これっぽっちも利口になっていない」と、どうしてもその無限の知識欲求を満たしきれずに歎き、人間の有限性に失望していた。
そこに悪魔メフィストが、黒い犬に変身してファウスト博士の書斎に忍び込む。学問に人生の充実を見出せず、その代わりに今度は生きることの充実感を得るため、全人生を体験したいと望んでいるファウストに対し、メフィストは言葉巧みに語りかけ、自分と契約を結べば、この世の日の限りは伴侶、召使、あるいは奴隷のようにファウストに仕えて、自らの術でかつて誰も得る事のなかったほどの享楽を提供しよう、しかしあの世で再び会った時には、ファウストに同じように仕えてもらいたいと提議する。もとよりあの世に関心のなかったファウストはその提議を二つ返事で承諾し、「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!」("Verweile doch! Du bist so schön.")という言葉を口にしたならば、メフィストに魂を捧げると約束をする。

→ファウストの恋とその顛末
悪魔メフィストはまずファウスト博士を魔女の厨(くりや=台所のこと)へと連れて行き、魔女のこしらえた若返りの薬をファウストに与える。若返ったと同時に旺盛な欲を身に付けたファウストは、様々な享楽にふけり、また生命の諸相を垣間見ながら、「最も美しい瞬間」を追い求めることになる。彼が最初に挑んだ享楽は恋愛の情熱であった。魔女の厨(くりや)で見かけた魔の鏡に、究極の美を備えた女性が映るのを見たことから、ファウストはひたすらその面影を追い求め、街路で出会った素朴で敬虔な少女マルガレーテ(通称グレートヒェン)を一目見て恋に落ちる。
彼はメフィストに、グレートヒェンに高価な宝石を贈らせるなどして仲を取り持たせ、ついには床を共にする。しかしある夜、風の便りに妹が男性と通じている事を聞きつけたグレートヒェンの兄ヴァレンティンとファウスト・メフィストの二人連れが鉢合わせし、決闘となる。そうしてファウストはヴァレンティンを手に掛ける。

→ヴァルプルギスの夜
一時の気晴らしに悪魔メフィストはファウスト博士を魑魅魍魎(ちみもうりょう)達の饗宴、ヴァルプルギスの夜へと連れて行く(この乱痴気騒ぎの描写には作者ゲーテの豊富な知識と筆の力量が垣間見られ、また『夏の夜の夢』のパック、『テンペスト』のアリエルらも登場する)。ファウストはメフィストによってあらゆる魔女や妖怪達の中を引き回されるが、そこで首に”赤い筋”をつけたマルガレーテ(グレートヒェン)の幻影を見て彼女に死刑(斬首刑)の危機が迫っていることを知り、メフィストがそのことを隠し立てしていたと激怒する。実はグレートヒェンはファウストとの情事により身籠っており、彼の不在のうちに産まれた赤ん坊を持て余した末、沼に沈めて殺してしまっていた。そうして、婚前交渉と嬰児殺しの罪を問われて牢獄に投じられたのであった。

→悲劇の結末
ファウストはメフィストと共に獄中のグレートヒェンを助けに駆けつける。しかし、気が狂ってもなお敬虔な彼女は、ファウストの背後に悪魔(メフィスト)の影を見出して脱獄を断固として拒否する。ファウストは罪の意識にさいなまれて絶望し、"O, wär’ ich nie geboren!"(おお、私など生まれてこなければ良かった!)と嘆く。メフィストは、「彼女は裁かれた!」と叫ぶが、このとき天上から「救われたのだ」という(天使の)声が響く。ファウストはマルガレーテをひとり牢獄に残し、メフィストに引っ張られるままにその場を去ってゆく。

■第二部
皇帝に仕えることにしたファウストは、メフィストの助けを借りて経済再建を果たす。その後、絶世の美女ヘレネーと美男パリスを求め、ギリシャ神話の世界へと、人造人間ホムンクルスやメフィストとともに旅立つ。ファウストはヘレネーと結婚し、一男をもうけるが、血気にはやるその息子は死んでしまう。現実世界に帰ってきた後ファウストは皇帝を戦勝に導き、報土をもらう。海を埋め立てる大事業に取り組むが、灰色の女「憂い」によって失明させられる。そうしてメフィストと手下の悪魔が墓穴を掘る音を、民衆のたゆまぬ鋤鍬の音だと勘違いしながら死ぬ。その魂は、かつての恋人グレートヒェンの天上での祈りによって救われる。

【第1幕】
最愛の女性マルガレーテ(グレートヒェン)が自分との過ちのために処刑された悲しみを、豊かな自然の中で癒すファウスト博士の描写から始まる。風の精霊アーリエルをはじめとするエルフ(精霊)達に囲まれ、ひとときの安息と"過去の忘却"を得たファウストは精力を取り戻し、まずは皇帝の家臣としての人生を送る事となる。皇帝の居城における玉座の間にて宰相、兵部卿、大蔵卿、宮内卿らが皇帝を取り囲み、国は乱れ国庫は底を突いていると歎いているところに悪魔メフィストーフェレスが道化として言葉巧みに皇帝に取り入る。そうして、開催された仮面舞踏会において、「富貴」を象徴する神プルートゥスに扮したファウストを皇帝に紹介する。
2人は様々な幻術で皇帝を愉しませた後、国の窮状の打開策として、国土に埋蔵されているとされる、ありもしない無数の財貨を担保に兌換紙幣の発行を提案し、皇帝はそれを内外に放出する。皇帝は次に男女の理想の姿を持つとされるギリシア神話上の人物、パーリスとヘーレナーを見たいとファウストに申し付ける。古代ギリシアの霊はキリスト教に属する自分のような悪魔の能力では呼び出せないと主張するメフィストにたいし、何としても皇帝の要求に応じなくてはならないとファウストは迫る。するとメフィストは、神秘に満ちた虚無の世界「母たちの国」から2人の霊を現世へと連れ出せば良い、とファウストに明かす。
一連の冒険の末、居城の騎士の間へと2人の神を呼び出したファウストは、ヘーレナーの美しさに魅せられ再び恋に落ちる。彼が彼女の姿に触れた途端、爆発と共に霊どもは霧となって立ちどころに消え、騒動となる。ファウストは爆発に巻き込まれ気を失い、幕が閉じる。

【第2幕】
舞台はかつてのファウスト博士の書斎へと転じる。未だ気を失ったままのファウスト博士を尻目に、メフィストは実験室へと赴く。そこではファウストのかつての弟子であったヴァーグナーが、自らの学識でもってホムンクルス(人造人間)の創造を試み、ついに瓶の中に肉体を持たない純粋生命体ホムンクルスが産まれる。その神通力によって失神しているファウストの夢を読み取ったホムンクルスは、自らもまた人生を体験したいと思い立ち、ヴァーグナーの元を離れてファウストに随行することを決心する。
目を覚ましたファウストはヘーレナーを探すため、時空を超えてギリシアの古典的ヴァルプルギスの夜へと飛び発つ。そうしてめいめいがファルサロスの野、ペネイオス川の上流、下流、エーゲウス海の岩の入り江など、セイレーンをはじめとするギリシア神話上のあらゆる神々や生き物が現れる土地を旅して回る様子が描かれ、精霊達の、地、水、風、火の四大元素への賛歌のうちに幕は閉じる。

【第3幕】
スパルタにおけるメネラスの宮殿の前に、女神ヘーレナーが捕われたトロイアの女達(合唱隊)と共に姿を現す。(ギリシア神話上ヘーレナーはトロイアの王子パーリスに誘拐され、後にギリシアが発した大軍によって奪還されたとされており、場面は奪還されたヘーレナーが再び祖国の土を踏むところである。)彼女はトロイア戦争の総大将アガメムノンの弟たる夫メネラオスが、自分が無事に帰郷した事をオリュンポスの神に謝すための祭典の準備を命ぜられたが、捧げるべき生贄については何も語られなかったこと、加えて自分がどのような扱いで祖国へと帰されたのかを訝る。
そこに、ギリシア神話の醜い妖怪フォルキュアスに変装した悪魔メフィストが現れ、メネラオスはヘーレナーとその侍女たち(合唱隊)を神への生贄に捧げるつもりである。また、唯一の助かる手段としては、遠くの山の谷間に砦を設けた騎士であり頭領であるファウスト博士の元へ逃げる他ない、とそそのかす。ヘーレナーは命を惜しんで泣きくずれる侍女たちのためにそれを渋々承諾し、ファウストはメネラオスの軍勢と対決し、勝利する。かくて、ファウストのヘーレナーと添い遂げたいという願いはついに叶えられる。二人は「詩」の形象であるオイフォーリンをもうけ、しばし幸福な生活を送る。しかし、「常に向上の努力を成す者」としてのファウストの気性を受け継ぐオイフォーリンは、より高みを目指そうとして崖の高みから飛び立ち、神話のイカロスのように墜落死する。彼は冥府から母親であるヘーレナーを呼び、ヘーレナーはファウストの胸の中で雲散霧消し、合唱隊が歎きの歌を唱和する中、ファウストは再び新たな人生へと旅立つことを余儀なくされる。

【第4幕】
ファウスト博士と悪魔メフィストは峨々(がが)たる岩の頂上に降り立ち、共に「世界の生成について」の議論を行う。議論の中ではファウストの理想の国家像が言及され、やがてファウストは名声を挙げて支配権、所有権を得たい、偉大な事業を成し遂げたいと述べる。彼は海の沖で大波が寄せては返し、岸を痛めつける様子を目にし、海をはるか遠くに封じ、そうした非生産的な活動を止めさせたいと欲求したのであった。
メフィストはそれに対して、折しも第二部・第1幕において舞台となった国の経済がいよいよ破綻し、正統の皇帝に対して僣帝が擁立され反乱が発生している、皇帝の軍は劣勢であり、彼らが今いる山々へ最後の決戦の為に転進してきているから、ここで再び皇帝に仕え巻き返しを図れば、海岸地帯を褒美として貰えるでしょう、と伝える。 ファウストはその計画に乗り、戦争の凶暴性を象徴する「喧嘩男」、戦争の略奪を象徴する「早取男」、物欲、吝嗇(りんしょく)を象徴する「握り男」というメフィストの3人の手下の悪魔を従えて戦争へ赴く。メフィストの幻術も手伝って、皇帝の軍は見事勝利へと導かれる。
戦勝の褒美として皇帝は侯爵達に高官としての地位を与えるが、大司教は勝利する為に皇帝が悪魔の力を借りた事を責め、赦しを得るために教会に膨大な税を納めることを要求する。一連のやり取りの中で皇帝がファウストに海岸地帯の土地を与えた事が明らかにされ、また国家の解体する姿が痛烈に風刺される。

【第5幕】
冒頭における旅人と老夫婦とのやりとりから、ファウストが宮殿を建て、海岸を埋め立て、そこを庭園へと造成し直しており、老夫婦にも新たに開拓された土地と引き換えに立ち退きが求められている事が明らかにされる。ファウストは国政に参画し、新たな「自由の土地」を開拓するという大事業を推進させていくが、その目標は、海を徹底的に埋め立てるという壮大なものであった。宮殿にて、ファウストは海賊行為をはたらき帰ってきたメフィストに対してぼやく。老夫婦の住む丘にある菩提樹の下を住まいとし、自らの営為の全貌を展望したいこと、しかし老夫婦は立ち退きに応ぜず、そこに建つ礼拝堂の鐘の音が彼の心を苦しめていることを述べ、ただ一つその事が自分の意のままに行かないばかりに自身の心が厭わしく圧されているというのだ。メフィストは彼の告白に対し、老夫婦の立ち退きを執行する役を買って出るが、事は穏便には済まず諍(いさか)いの末、訪れていた旅人共々死に至らしめ、あげく家に火を放ってしまった事を伝える。ファウストは自分は交換を望んだのであって強奪せよとは命令していないと激怒し、メフィストと彼が率いる手下共を追放する。
半夜、独り玉座にて物思いにふけるファウストのもとに4人の“灰色の女”が現れ、ファウストと問答を交す。最初ファウストは慄然とするが、やがて自らを制して、己が世の中を駆け抜け、あらゆる快楽を体験してきた事、また最初こそ威勢のよかったものの、今では賢く、思慮深く生きている事などを告白し、地上の事はもう十分に知りぬいたと言う。地上で日々を送っている間は、たとえ「憂愁」のような幽霊が現れるとも構わずに道を行くという決心、進み行くうちには苦も楽もあるだろうが、どの瞬間にも満足したりなどしないだろう、と語る。「憂愁」は、有り余るものの中でも満足などできず、望みはいつになっても成就しないとの謳い文句でファウストを己の内に取り込もうとするが、ファウストは微塵も取り合おうとしない。そのため、憂愁は呪いの言葉を投げ掛け、吐きかけた息によって彼を盲目にして立ち去る。ファウストは今や物を見ることができなくなってしまったのにも歎かず、むしろ心の中は澄み渡り晴れやかであると独白し、手掛けた事業の完成へと邁進することをあらためて決心する。

一方、メフィストは、手下の悪魔どもにファウストの墓穴を掘るように命じる。物見る事叶わぬファウストは、手探りで宮殿から歩み出ながら、その音を、土地の者達が新しい土地を造成する為に働いているたゆまぬ努力の音だと聞き誤り、壮大な独白を展開する。彼は自身が理想とする国家が築き上げられてゆく様子を夢想し、万感の思いで、そこでは人々は生活に関しても自由に関しても、その日ごとに勝ち得てこそそれらを享受するに値する、だからこの「自由の土地」においては老若男女が常に危険の中にあろうとも有意義な年月を送るのである、自分はそうした人々を見、彼らと共に自由な土地の上に住みたい、その瞬間に向かってならば、こう言っても良いであろう、「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい("Verweile doch! Du bist so schön.")」と。このような高い幸福を予感しつつ、自分はいま最高の瞬間を味わうのだと述べ、ついに絶命する。メフィストは契約通りと判断してその魂を奪おうとするが、合唱しながら天使達が天上より舞い降り、薔薇の花を撒いて悪魔を撃退し、ファウストの魂を昇天させる。山峡にて、天使や聖書上の登場人物が賛歌を唱和する中、かつての最愛の女性マルガレーテ(グレートヒェン)がファウストの魂のために聖母に祈りをささげ、ファウストの魂の救済が成立する。

ファウスト伝説

『ファウスト』は当時広く知られていた「ファウスト伝説」をモチーフに創作されています。
この伝説は、16世紀後半(ルネサンスと宗教改革の時代)にドクトル・ファウストの人物にまつわる話としてドイツで生まれ、フランクフルトの印刷業者シュピースによって1587年に『ドクトル・ヨーハン・ファウストの物語』の題名で出版されてヨーロッパ全域に知られるようになったといわれています。
その後、英訳本を元に劇作家マーロウによって戯曲化されてドイツに戻り、民衆劇や人形劇として庶民生活に広く浸透していきます。
さらに18世紀に入り、ファウスト伝説は大きな変化の時期を迎えます。いわゆる啓蒙主義時代の潮流とも相まって、「真理追究者としてのファウスト」像が確立されます。

元々のファウスト伝説は、知識欲の末に悪魔との契約をしたファウストが最後はその契約によって地獄に落ちて永劫続く罰を受けるというものです。
知性優良な百姓の子ファウストが神学を究めますが、それだけに飽き足らず魔術を学び、医術、天文数理と際限なく学び続けます。そしてついに魔法で呼び出した悪魔と契約をします。
それは「24年間は悪魔の援助を受けて、地上のあらゆる知識と快楽に得る代わりとして、キリスト教の敵として行動する。約束の期限が来たら、魂と肉体を悪魔の自由に任せる」というものでした。
ファウストは24年間思うがままの人生を送り、その結果として地獄に落ちるという結末を迎えます。
18世紀に描かれる「ファウスト」は最後のシーンに至って、24年間自由奔放に生きたファウストは仮の姿であるという天からの神の声が響き、悪魔の企みは破綻する。夢から覚めたファウストは天の警告に感謝し、今まで以上に信仰に精進するという展開が用意されています。

作品の感想

世界の文学史上に燦然と輝く不朽の名作。
このくらい賛嘆の言葉を並べても、誰も大袈裟すぎるとは言わないでしょう。
しかし、ゲーテの名前が知れ渡っていることに比べて、実際に代表作である『ファウスト』を読んだ人は相当少ないのではないかという推測も、誰も否定しないと思います。

実際に読んでみると「おもしろい」。
これが当日参加された方の感想であり、読了した人の多くが持つ印象です。
開催案内で、この作品のモチーフとなった「ファウスト伝説」について紹介しました。
その物語が演劇や人形劇として当時の大人から子供まで親しんだという歴史的経緯から推察できるように、聞いていてわかりやすいストーリーがその原点にあります。
あえていえば、私たちが子どもの頃に親や家族から聞かせてもらった昔話のような存在だったのかもしれません。
ゲーテも幼少の頃から親しんできたと思われるファウスト伝説に、ゲーテなりのテーマと結論を見出したかったのでしょうか、ライフワークとして終生書き続けたものが私たちが手にしているゲーテ作『ファウスト』です。

物語は戯曲の形式で書かれていきます。
最初に 〔献詞〕〔前狂言〕〔天上の序曲〕と続きます。

献詞はこの作品を読む人に捧げた感謝の言葉と受け止めることができます。
前狂言はこの作品を芝居として娯楽的、道化的に見ようとする、また見せようとしかねない人々への風刺とも思えます。当時の(今はさらにそうかもしれませんが)移り気な庶民への皮肉かもしれません。
そして〔天上の序曲〕から物語は本論に入っていきます。
主(神)とメフィスト・フェレス(悪魔)が賭けをします。「主」と呼ばれる者が「賭け」をすること自体、どうなのかなと思う気持ちがありますが(^_^;)それはとりあえずおいておきましょう。
メフィスト・フェレスは「人間どもは、あなた(神)から与えられた理性を使いこなせていないではないか」と主に絡む。主はそれに対して「常に向上を目指す者」もいるのだとファウスト博士の名前を挙げる。それを聞いたメフィスト・フェレスは「ではファウスト博士を悪の道に引きずりこめるか賭けをしませんか」と挑発し、主は「やってみるがいい」と賭けを承諾する。メフィスト・フェレスはファウスト博士を悪の世界に引きずり込むために天上から地上、人間の世界に舞い降りていく...こうして物語が始まります。

本文は2部構成です。
第1部は通貫して書かれていますが、第2部は5幕になっています。
『ファウスト』という作品は、実に多くのことを考えさせられます。
そのなかでひとつ指摘しておくとすれば...
この作品が神と悪魔の賭けから始まっている点をまず考えてみてほしいと思います。
読者の中には「私は無神論だ」とか「私はブッティスト(仏教徒)だからキリスト教的展開はなじまない」という方もいるでしょうが、ゲーテが掲げたテーマはそうした差異を超えたところにあると私は思います。

私達の人生とはいったい何なのでしょうか?
何を求めてこの一生を生きたらいいのか?
モラルだとか、社会のためだとか、周りの人のためだとか、いろいろな言い方もできるでしょう。
しかし、そういった一切を無視して、自分の利益のためだけに生きる人間と直面したら、果たして私たちは、今までの生き方を続けることができるでしょうか?
その答えを確信を持って答えることは相当難しいのではないかと感じます。

21世紀に入って10年目。
モンスターと呼ばれる、自己至上主義といえる類型の輩が、じわじわと、確実に、増えているように思えてなりません。
まさにエゴの固まり、自分自身の快楽と利益のためなら他人に迷惑をかけることなんて気にかけもしない人間の生き方。そんな人達を目の当たりにし、更に自分自身がその被害をもろに受ける立場になったとしたら...。
そして逆に、自分自身が張り詰めた心の糸を切ってしまってエゴイスティックに生きることでその苦痛が逃れることができ、やりたい放題の人生を送れるとしたら...。
人は今までの実直な生き方を続けることが、本当にできるでしょうか?
果たして、あなたは本当に実直に生き続けられるでしょうか?

この点を私達は、互いに、真摯に見つめていきたいと思います。
そして、そうしたマイナススパラルの危機から、どうすれば脱け出すことができるのか?
私達は、そうした具体的な思索と行動を求められているのだと感じられてなりません。

ゲーテがかかげた現実批判

もうひとつ、少し別の視点に触れておきます。
比較的入手しやすい解説書等では、作品の中でゲーテが展開している様々な社会批判の視点を分析しています。
具体的には

【1】ことば信仰とアカデミズム批判
【2】拝金主義批判
【3】戦争批判
【4】政治・権力批判

などが挙げられています。
これらは作品を読むと比較的明確に記述されているので各人で確認してみるとよいと思います。
窮乏した国家財政を救済するために大量の紙幣を発行するというあたりは、つい最近(2009年後半)、民主党政権が実行しかねなかった危険的政策とぴったり符合します。作品が書かれた当時は紙幣発行がまだ普及していなかった時代ですのでゲーテの着眼は特筆に価します。

『ファウスト』をはじめ古今東西の古典に触れるにつけ、人類が行なってきた経済を初めとする社会活動とはなんとも不確実性の産物かと痛感せざるをえない。
社会制度の悉くが初めから整合性を欠いたままスタートし、その歪みに耐え切れなくなるとガラガラポンとリセットするか、次の亡霊のような政策を提示する。それも整合性に欠いたものであるが、歪みが溜まるまでは時間を稼ぐことができる。
近年で言えば、90年代初頭のバブル崩壊もそうでしょう。根拠のない土地神話を妄信し、それが崩壊すると次はITバブル。その一方でアメリカ発の住宅ローンの債権化が始まり巨額の投資マネーが次々とターゲットを探してさまよっていく。その結末がリーマンショックであったことは周知の事実です。
投資マネーが吹き荒れたあとのその業界は、惨憺たる荒野と砂漠が広がっていく。
そんな、場当たり的な社会と政治と経済活動の繰り返し...。
この100年に一度の世界恐慌を覆そうと、生命保険を債権化し新たな投資市場を創り出すという近視眼的な動きも出ています。人間の欲望には際限がないだけでなく、反省とか教訓とか学習という言葉すらもないのでしょうか。
しょせん人間の社会は、人間の叡知とは、その程度のものなのかと嘆きたくなる気持ちも出てきそうです。

しかし、だからこそ敢えて、人間の叡智を信じたい。
それは「誰かがどこかで素晴らしい制度やしくみをつくってくれるだろう」ということでは、決してない。
自分が、今いるこの場所で努力すること。 その積み重ねの中に人間の叡智が醸成されていくのだと信じたい。
人間としての経験が経験則となり、普遍的なかつ成長し続ける社会制度になると思いたい。

また、科学者(ファウスト博士の弟子)が研究実験によってホムンクルスという名の実体を持たない意識だけの創造物(人造人間)を作り出したという展開は、SF小説そのもの。
しかもホムンクルスに託したテーマは生命論にまで思いをはせている。果たしてそれは西洋社会においては現在に至る最大級のテーマである唯心論と唯物論の論争でもある。ちなみに東洋の叡智は、生命の基本原則を「色心不二」「依正不二」と説き表わし、その不可分性を融和による生命のダイナミックさにまで展開している。
ゲーテの思索の想像性と問題意識の高さと広がり、洞察力には敬服してしまいます。

ゲーテの『ファウスト』。
是非多くの方に読んでほしい、そして一度ではなく、二度三度と読み返してほしい一冊です。

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