桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第64回】

『小説吉田学校 第一部 保守本流』(戸川猪佐武)

開催日時 2010年7月17日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線石神井公園駅・徒歩1分 石神井公園区民交流センター 会議室(1)

開催。諸々コメント。

今回は政治小説、ノンフィクション小説(言葉としては少し矛盾する表現ですが)として著名な『小説吉田学校』を取り上げます。
この作品は第二次吉田内閣が誕生する直前の昭和23年10月から始まり大平正芳第68・69代総理大臣の逝去後の史上初の衆参同日選挙で自民党が圧勝するまでの日本政界における保守政党の動向を描いた全8巻で構成されている長編作品です。
今回の桂冠塾では最初の1巻目にあたる第一部「保守本流」をテーマにします。
まだ日本がGHQによる占領下にあった昭和23年10月。
昭電疑獄によって崩壊した芦田内閣に代わる政権として自由党・山崎首班を画策するGHQ民生局次長ケージス発言から物語は始まります。
そこにはGHQ内部の対立、GHQと政治家との駆け引き、日本の政党間の対立、そして自由党内での党人派と官僚出身者との対立等々...数々の複雑に錯綜した人間模様が繰り広げられていました。
そんな微妙なバランスの中で吉田茂による第2次内閣が誕生。数々の制約条件の中で吉田内閣は事前の予想を大きく上回って衆議院総選挙に大勝利、吉田自ら手作りした新人議員を誕生させ吉田第3次内閣を強引に組閣していきます。
名実共の吉田学校の始まりであります。
そして吉田茂には政治家としての目標があった。
それは、自分自身が政権の座にあるうちに講和会議を招集させ、平和条約締結を実現させるのだとの確信。
吉田はその目標を実現させます。
その経緯の中でアメリカ軍駐留、日本の再軍備化の阻止と自衛隊(警察予備隊)の創設等を柱とした日米安全保障の骨子が形作られていきました。
そうした世界秩序を左右する動きのそばで日本憲政の保守本流を決する動きも活発化していきます。吉田茂と鳩山一郎との対立、後世とみに有名になったバカヤロー解散、鳩山一郎、岸信介らをはじめとする追放組の復権、吉田学校同期の池田隼人と佐藤栄作の決戦等々。
読み進めるにつれて、国家の大計と政治家個人の確執が同一レベルで扱われるような倒錯した感覚に襲われます。
これが日本政治の実態なのか。
そもそも政治とは何を目指して何のために行われるべきなのか?
政治における保守、つまり「守るべきもの」とは何か?
その本流とはいかなるものか?
私達は意外と狭窄な認識で物事を理解しているような気持ちになっているのかもしれません。

7月11日には参議院議員選挙の投開票日を迎えます。
昨年(2009年)夏の衆院選で民主党大勝利によってもたらされた政権交代から10ヶ月。鳩山・小澤辞任で誕生した菅内閣は党首討論や予算審議を行うことなく選挙戦に突入。トップの顔が代わったことでV字回復した民主党支持率も下落。多くの国民は今の政治家に多くを期待してはいけないのかもと思い始めたのかもしれません。
理念なき迷走の中で多くの国民は政治へのあきらめ感を増大させてきたという懸念。そして日本の政治が憲政史上最悪の迷走を始めているかもしれないという危機感を感じている人が少なからずおられるのではないかと私は感じています。

私たちはこの混迷を抜け出す光明を見出すことができるでしょうか。
何を基準に何を目指して政治理念を定め、具体的な投票行動を決していくべきなのでしょうか。
日本の戦後政治の源流ともいうべき吉田茂から始まる玉石混交の政治家達の権力闘争と生き様を追うことで、今後の日本における重大な局面での私達自身の政治判断の一助になればという気持ちも込めて、今一度『小説吉田学校』を読んでみたいと思います。

作者

戸川猪佐武(とがわいさむ 1923年12月16日 - 1983年3月19日)
政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄。
旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学。陸軍召集となるが徴兵検査で病気が発覚し延期。回復後に再び召集されるが直後に終戦を迎える。早大に復学して卒業。
1947年に読売新聞へ入社すると政治部記者として活躍。数多くの政治家の取材を行ない顔を知られるように。特派員としてモスクワにも滞在。1955年に河野謙三から父親の平塚市長選挙への出馬説得を依頼され、仲介役としての役割を果たし父親を当選させることに成功している。
1962年に読売新聞を退社して政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月からスタートしたTBSのニュースワイド『JNNニュースコープ』においてメインキャスターを務める。
1963年11月、第30回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補したが得票19871で落選。供託金没収の憂き目にあう。
その後は作家活動に重点を置くようになり、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの保守政界の内幕を描いた実録政治小説『小説吉田学校』全八巻はベストセラーとなって戸川の地位を確立させた。
後にこれらを更に掘り下げた『小説吉田茂』と『小説三木武吉』なども執筆している。
1983年の3月18日、映画化された『小説吉田学校』の試写会や竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した。59歳。
戸川の通夜には当時の首相である中曽根康弘が駆けつけ、葬儀には田中角栄なども参加した。

作品のあらすじ

この作品は第二次吉田内閣が誕生する直前の昭和23年10月から始まり、大平正芳第68・69代総理大臣の逝去後の史上初の衆参同日選挙で自民党が圧勝するまでの日本政界における保守政党の動向を描いた全8巻で構成されている長編作品です。
今回の桂冠塾では最初の1巻目にあたる第一部「保守本流」をテーマにします。

【1】奇怪な指令-山崎首班事件

まだ日本がGHQによる占領下にあった昭和23年10月。
昭電疑獄によって崩壊した芦田内閣に代わる政権として自由党・山崎首班を画策するGHQ民生局次長ケージス発言から物語は始まります。
そこにはGHQ内部の対立、GHQと政治家との駆け引き、日本の政党間の対立、そして自由党内での党人派と官僚出身者との対立等々...数々の複雑に錯綜した人間模様が繰り広げられます。

【2】ある抵抗-田中角栄の登場

絶体絶命の状況を覆したのが当選1回議員の若き田中角栄。
角栄氏の発言で一気に吉田首班に固まる。

【3】組閣は揺れる-佐藤栄作の登用

吉田は組閣人事に着手する。その主眼は党人の排除、官僚出身者の登用。その象徴は運輸次官であった斉藤栄作の官房長官登用である。
このとき田中角栄が法務政務次官に就任している。

【4】闘いの時間-総司令部との抗争

衆議院解散総選挙で本格的内閣を目指す吉田茂に、総司令部は3つの条件が成立しないと開催は認めないと通達。国家公務員法改正、官公吏の給与改定、補正予算の成立である。吉田は国家公務員法改正案を成立させたら衆議院解散を断行することを決断する。

【5】吉田学校誕生-池田隼人の登板

吉田は総選挙に向けて手兵となる候補者選定に着手する。佐藤栄作を筆頭に、大蔵次官・池田隼人、外務次官・岡崎勝男、労働次官・吉武恵市、農林次官・坂田英一の5人の次官をはじめ局長、課長、県知事、副知事、市長、裁判官が連なった。党人からも田中角栄をはじめ若手議員、財界出身者も吉田系列に組していく。
そして来る首班指名のために民主党・犬養健との連立と決意する。

【6】光と葉巻の寓話-自由党の大勝

昭和24年1月23日衆議院総選挙の即日開票。吉田茂率いる自由党は264議席を獲得。改選152議席に百以上を増して過半数234議席を一気に突き抜けた。当初の審議を貫き民主党と連立を組む。
2月6日、吉田の意向を全面的に反映させた第三次吉田内閣が誕生した。

【7】独立への胎動-吉田のひそかな決意

吉田にはひとつの決意があった。それは自分が政権にある時代に平和条約を締結するというものだった。吉田はその実現のために対日講和の草案を完成させる。

【8】ワシントンへの密使-池田隼人の渡米

吉田はマッカーサー司令官と会談し対日講和の意向をつかむ。アメリカ本国の真意を確認するために密使として財務大臣・池田隼人にその使命を託した。交渉相手をドッジであると定めた池田隼人は一気呵成に攻め込み、成功の感触をつかみ帰朝する。

【9】火を噴く三十八度線-吉田・ダレスの勝負

昭和25年6月25日午前4時、朝鮮戦争が勃発。対日講和が遠のく失望感に立ち向かう吉田茂。
吉田の予想と違い、ダレスは対日講和条約の早期締結を主張。しかし朝鮮戦争の影響は色濃く、日本の防衛のための再軍備を前提とした対日講和7原則が固まっていく。

【10】オペラ・ハウス-対日平和会議ひらく

吉田茂は日本の再軍備を強く拒否。3回にわたるダレス・吉田会談で警察予備隊の逐次増強と日本独立後の日米安保条約締結の合意を勝ち取る。国内の党利党略を制し超党派全権大使団を結成して平和条約の締結にこぎつける。

【11】対決の日々-立ちあがる三木武吉

鳩山一郎をはじめとする追放組が政界に復帰。鳩山派の謀将三木武吉が鳩山一郎内閣誕生に執念を燃やし吉田追い落としを狙う。対日平和条約批准後、吉田は長期政権化を目論んで内閣改造を指示。鳩山派粛清のために8月27日抜打ち解散を断行。吉田の目論見通り鳩山派は20人余に減退したが自由党自体も多くの議席を失う結果に。

【12】対話と術数のあいだ-三木、吉田に迫る

吉田・鳩山会談が実現し3条件が提示される。しかし対立は続き池田隼人通産大臣の不信任案が鳩山派の欠席により可決され大臣を辞任。予算案成立を政争の具にして対立が続く。起死回生を狙う吉田は幹事長に佐藤栄作を充てる。三木の暗躍に田中角栄が正論を通して佐藤栄作幹事長が決定する。

【13】失言の波紋-バカヤロー解散

2月29日衆議院予算委員会で吉田の口から「馬鹿野郎」発言が出る。この機に三木は総理大臣の今日罰動機を画策。広川派の造反によって懲罰動議は可決。吉田は広川を閣僚罷免、野党は内閣不信任案提出に動く。成立すれば衆議院解散か、内閣総辞職か。吉田はただちに解散、総選挙に打って出る。自由党は23名を失い199議席に減退するが第一党は確保。鳩山派8名が離党し日本自由党を結成。その後28年11月に復党。

【14】斜陽のおとずれ-吉田茂政界を去る

政権が安定に推移するかに見えた吉田政権に陰りが見え始める。保安経済会事件である。佐藤栄作幹事長に対して逮捕許諾請求に法務大臣が指揮権を発動、世論は吉田内閣に反発を強めていく。そんな最中に吉田茂は沖縄・小笠原返還、北京政府の正式承認の希望を抱いて外遊に出発する。
しかし吉田の期待は悉く成果なく終わり、53日間の外遊を疲れ切って帰国する。総理の座に意欲を失った吉田は、緒方竹虎への禅譲を画策するがその力も尽きて、内閣総辞職を決断。そのあとには鳩山内閣が誕生した。
その後昭和30年11月に自由民主党が結成される。鳩山内閣の後は石端首相が誕生するが病に倒れて60日余で退陣、外相であった岸信介が後継総理に。安保改定後の昭和35年6月に岸が退陣、池田隼人内閣が誕生する。
政局争いは39年まで続く。

【15】末裔の群れ-大野伴睦の死

昭和39年5月副総裁の大野伴睦が逝去。三選を狙う池田隼人と佐藤栄作との権力争いが激化する。田中角栄は池田後に佐藤に禅譲を約することで収集を図ろうとして吉田書簡を池田に届けるが、池田・佐藤の直接対決を回避することはできない。

【16】暑い夏の闘い-池田・佐藤の決戦

7月10日の総裁選挙は熾烈を極める。投票総数477票に対して池田票243票。過半数をわずか4票を上回る薄氷を踏む勝利。決選投票が画策していた佐藤・藤山両派の合計は10票差に迫っていた。
9月7日池田隼人は喉頭がんに診断が下る。10月25日池田隼人の総理辞任が発表される。公選を避け佐藤栄作に後継指名を行う。
11月9日斉藤栄作内閣が発足。
昭和40年7月7日河野一郎逝去。同年8月9日池田隼人逝去。
吉田茂は89歳まで天寿を全うして昭和42年10月20日に逝去した。

作品の感想

本書『吉田学校』は日本の戦後政治の巨人とも言われた吉田茂を取り巻く政治を描いたノンフィクション小説である。読売新聞社政治部の記者として活躍した戸川猪佐武氏の目を通した戦後政治史の軌跡でもある。全8部から構成される本書の中で特に「第一部保守本流」は吉田茂自身を中核に描かれている。

小説は昭和23年10月から始まる。
冒頭から緊迫した展開。GHQ民政局次長ケージスが、次期首班、つまり総理大臣として吉田茂は望ましくないとの干渉を行おうとする衝撃的な場面が繰り広げられる。
このケージスの指令で自由党、民主党をはじめ多くの政治家が暗躍、右往左往の様相を呈する。ケージスの発言はGHQの意思なのか、それとも個人的な見解なのか。GHQの主流なのかそれとも亜流なのか。
自身の権勢を拡大しようとする輩、自分と対抗する領袖を追い落とそうと陰に陽に様々な手が打たれる。権力の魔性の姿そのものが繰り広げられる展開は政治の凄まじさ。

本書を貫くのは党利党略、党人政治家と官僚出身政治家との抗争である。
そこには日本国民のために...という視点など微塵もない。
戸川氏は実に徹底した描き方をしている。昨今の民主党政治を例に引くまでもないが、日本における政治とは連綿と同じことを引きずってきていることを痛感する。
単純な勧善懲悪の構図など全く存在しない。
人としての正義を貫いたら、うまいように利用され逆に追い落とされることは必至。
理想を語る傍から、政敵の追い落としが何の矛盾もなく展開されるのだ。

こうした政治の現実に、日本の多くの政治家は流れに乗って自身の権力欲の具現化に血道を開けてきた。その中で私利私欲を嘗める輩も多くいた。
若き頃の国家と国民を守り救おうとの情熱など、1~2年で変質してしまうことは当然すぎる結果であっただろう。
そんな現実に立ち向かう政治家が、いるのか。
荒れ狂う巨大な濁流に、一本の細い杭を差し込んで「流されてたまるものかと必死にもがき続ける立志の人物よ現れよ!」と期待したいのである。

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