桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第70回】

『塩狩峠』(三浦綾子)

開催日時 2011年1月29日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線石神井公園駅・徒歩1分 石神井公園区民交流センター 和室(2)

開催。諸々コメント。

今月の本は『塩狩峠』(三浦綾子著)です。
物語の主人公は永野信夫。
書評等では死に至る最後のシーンが紹介されることが多いが、作品の大半は、永野信夫がキリスト教信者と出会い、様々な出来事を通して自らがキリスト教を根本とした生き方を送る変遷が描かれています。

本作品はキリスト教信徒のための雑誌「信徒の友」に昭和41年4月号から43年10月号まで連載され、1968年(昭和43年)9月に刊行されました。
作品を通じてキリスト教徒(プロテスタント)としての生き方が描かれています。進行の違いや有無を超えて、人間として様々な考えの人との出会いの中で変遷していく主人公・永野信夫の生き方を読み進めてみたいと思います。

読後感

本作品はキリスト教誌「信徒の友」に連載されていたことからも推察されるように、キリスト教思想がベースとなった人生が描かれている。作者の三浦綾子自身が1952年、結核の闘病中にキリスト教に帰依。結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、プロテスタントとしての信仰に根ざした著作を次々と発表。『塩狩峠』は代表作にひとつである。

物語の主人公は永野信夫。
決まって書評等では死に至る最後のシーンが紹介されているが、作品の大半は永野信夫がキリスト教信者と出会い、様々な出来事を通して自らがキリスト教を根本とした生き方を送る変遷が描かれている。身を投げて死に至るシーンとその後の回りの人達の心境等の描写は予想している以上に少なく感じるのではないか。

最後のシーンは現実の事故がモデルになっていることはよく知られている。
実際の事故は作品連載が始める57年前の1909年(明治42年)2月に起きている。その時、塩狩峠にさしかかった列車の客車最後尾の連結器が外れて暴走をはじめた。その客車に乗り合わせていた鉄道院職員の長野政雄が暴走する車両の前に身を投げ出して列車を止めた。この献身行為によって大事故になることはなかったのだという。
主人公の名前の類似からみてもこの事故の犠牲者であった長野政雄の行為が作品のモチーフに大きな影響を与えている。
キリスト教は日本においては永く「ヤソ」と称されてきた。
作品の舞台となった時代は、キリスト教は日本伝来の宗教とは違う、江戸時代のキリシタン禁止令によって信徒がキリシタン類族として激しく弾圧された等の歴史から「受け入れがたい他国の宗教」というイメージが広く流布していた時代である。

そうした時代に、自分自身の複雑な出生を抱えながら、自身が思っていることとは異なる思想、宗教を信じる人達と遭遇し、反発し、思索していく主人公の軌跡は考えさせられるものがある。
とかく自分の意見と異なる考え方の人とは努力をしてまで付き合おうとはしない風潮の現代である。中でも現代日本人の気質との指摘もされる傾向だ。
当たり障りのないところまでは楽しく会話するが、人生だ信念だとかの話は笑って踏み込ませず踏み込まずがスマートな生き方と言われたりもする。
「自他共の幸福」なんて言おうものなら失笑すら買いかねない。
第一そんなものがあるのかないのか考えすらしないし、別に関係ないしと受け流す。

私達の目指す人生のゴールとはどこにあるのだろうか。
今一度考えてみたいと思う今日この頃である。

著者

三浦綾子(1922年4月25日~1999年10月12日)
1922(大正11)年旭川市において父・堀田鉄治、母・キサの次女(第5子)として生まれる。
1939年、旭川市立高等女学校(現・旭川市立北都中学校・立地)卒業。その後7年間小学校教員を勤めたが、終戦によりそれまでの国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き、1946年に退職。この頃肺結核を発病する。
1948年、北大医学部を結核で休学中の幼なじみ、前川正に再会し、文通を開始。前川は敬虔なクリスチャンであり、三浦に多大な影響を与えた。
1952年に結核の闘病中に小野村林蔵牧師より洗礼を受ける。
1954年、前川死去。1959年に旭川営林局勤務の三浦光世と結婚。光世は後に、綾子の創作の口述筆記に専念する。

1961年、『主婦の友』募集の第1回「婦人の書いた実話」に「林田律子」名義で『太陽は再び没せず』を投稿し入選。翌年、『主婦の友』新年号に「愛の記録」入選作として掲載される。
1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の1000万円(当時の1000万円は莫大な金額であった)懸賞小説公募に、小説『氷点』を投稿。これに入選し、1964年12月より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。
この『氷点』は、1966年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、1966年には映画化された(監督:山本薩夫、出演:若尾文子)。 また数度にわたりラジオドラマ・テレビドラマ化されている。 ちなみに、日本テレビ系番組『笑点』は、このころベストセラーであった『氷点』から題名を取ったと言われる。
1968(昭和43)年9月、小説『塩狩峠』(キリスト教誌「信徒の友」昭和41年4月号~43年10月号に連載)を新潮社より刊行。
結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、クリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。クリスチャン作家、音楽家の多くが彼女の影響を受けている。
1999(平成11)年10月12日午後5時39分多臓器不全のため旭川リハビリテーション病院で逝去。享年77歳。
旭川市内に三浦綾子記念文学館がある。

主な登場人物

永野信夫  永野家の長男。待子の兄。1877年(明治10年)2月、東京の本郷に生まれる。物心が付かないうちに、母・菊がトセに追い出されていたため、トセが亡くなるまでは、母が生きていることは全く知らなかった(トセから「母は死んだ」と聞かされた)。そのため、母が実際生きていたと初めて知ったときは、祖母と父が嘘をついたと悟り、あまりのショックで泣き出したという。子どもの頃は学校の先生になるのが夢だった。
尋常小学校4年生時、ある松井との約束がきっかけで修と仲良くなる。しかし、その年の夏、修は蝦夷(北海道)へ引っ越してしまう。旧制中学校卒業後、裁判所の事務員に就職。
その数年後、10年振りに修と再会。修の勧めで北海道に行くことを決める。
3年後、1900年(明治33年)7月の23歳で北海道の札幌に移住し炭鉱鉄道株式会社に就職。その1年後、旭川へ転勤。元々はキリスト教嫌いであったが、後に、母の影響で鉄道会社に勤めながら、キリスト信者になる。
1909年(明治42年)、ふじ子との結納が決まった2月28日当時、名寄駅から鉄道で札幌へ向かっていくが、未曾有の鉄道事故で思いがけない行動を取る。乗客を守るために、レールへ飛び降りて、汽車の下敷きとなり自ら命を落とした。享年32歳。おかげで乗客は無事に助かったが、彼の死のショックは大きいものとなった。その年の3月2日にお葬式が行われ、郊外の墓地で埋葬された。

永野待子  永野家の長女。信夫の妹。信夫より4歳年下。母・菊が実家に離れて生活していた頃に生まれた。そのため、信夫からは妹がいることは全く知らなかったという。信夫と対照的に明るく人懐っこい性格である。1899年(明治32年)、18歳で帝国大学出身の医者の岸本と結婚した。

永野菊  貞行の妻。信夫と待子の母。キリスト信者のためか、信夫が物心が付かないうちに、祖母・トセに実家から追い出された。トセが亡くなるまで、実家と離れて生活していた。

永野貞行  菊の夫。信夫と待子の父。心優しい性格である。日本銀行に就職している。

永野トセ  永野家の祖母。キリスト教嫌いで、母・菊を家から追い出した。脳溢血で亡くなる。

吉川修  吉川家の長男。ふじ子の兄。信夫の同級生。子どもの頃はお坊さんになるのが夢であった。尋常小学校4年生時、ある松井の約束がきっかけで信夫と仲良くなる。しかしその年の夏、蝦夷(北海道)へ移住することになる。10年後、東京で一時信夫と再会し北海道に行かないかと勧め(その後すぐに北海道へ戻った)、さらにその3年後、北海道の札幌にて再び交流が深まるようになった。後に、キリスト信者となる。

吉川ふじ子  吉川家の長女。修の妹。キリスト信者である。信夫との結納の日が決まり、信夫が旭川から帰ってくることを心待ちにするが・・・。

松井  信夫と修の同級生。クラスのガキ大将的な存在。

大竹  信夫と修の同級生。クラスの副級長。

虎雄  信夫の親友であり、幼馴染み。信夫より2歳年下。幼い頃、時々信夫と遊んでいたが、その後足が遠ざかって行ったまま交流を途絶えてしまう。しかし、信夫が裁判所の事務員に就職していた頃、窃盗と傷害で逮捕され囚人とされていた頃に信夫と再会。その後、結婚して2児の父親となり、札幌の小間物屋で働いていた。後に、信夫のお葬式にも参加した。

浅田隆士  母・菊の甥。信夫と待子の従兄。大阪在住。登場人物の中、唯一関西弁で話す。後に、キリスト信者となる。

中村春雨  実在する人物。隆士と同期。「無花果」を信夫に読ませた。

和倉礼之助  北海道・札幌の炭鉱鉄道株式会社の信夫と修の上司。

和倉美沙  礼之助の娘。1901年(明治34年)、峰吉と結婚し2児の母親となる。

三堀峰吉  北海道・札幌の炭鉱鉄道株式会社の信夫と修の同僚。ある不祥事件がきっかけで一時は解雇されそうになったが、信夫や母からの説得で礼之助から許しを得た後、復職するとともに旭川へ栄転することになった。後に、礼之助の娘・美沙と結婚し、2児の父親となる。

伊木一馬 伝道師。

塩狩峠

塩狩峠(しおかりとうげ)は、北海道比布町と和寒町の間にある峠。国道40号、JR北海道宗谷本線、及び道央自動車道が通過している。国道40号の峠の標高は263m。北緯44度付近に位置する天塩国と石狩国の境界にあり、天塩川水系と石狩川水系の分水界上である。道央と道北の境界とされる場合もある。 1898年(明治31年)に、国道40号の前身である仮定県道天塩線が峠を越えて開通した。当初は難所の一つであったが、後年改良され、現在では曲線、勾配とも緩やかな峠となっている。
1899年(明治32年)に宗谷本線の前身である官設鉄道天塩線が開通。 2000年(平成12年)には道央自動車道が開通。峠部分は大規模な切通しとなっている。
1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠の区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くに顕彰碑が立てられている。 なお、1947年(昭和22年)9月1日、類似した事故が長崎県の旧時津村(現・西彼杵郡時津町)の打坂峠で起こっている。

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