桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第71回】

『創造的進化』(アンリ・ベルグソン)

開催日時 2011年2月26日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分 サンライフ練馬 第二和室

開催。諸々コメント。

今月の本はベルグソンの『創造的進化』です。
『時間と記憶』『物質と自由』『道徳と宗教の二源泉』等と共にベルグソンの代表作とされる名著です。

著者

アンリ・ルイ・ベルクソン
(Henri-Louis Bergson 1859年10月18日 - 1941年1月4日)
ポーランド系ユダヤ人を父、イギリス人を母として、パリ・ラマルティーヌ通りで生まれる。9歳になる前に、フランス・バス=ノルマンディー地方マンシュ県に移り住む。
学生時代リセで古典学と数学を深く修め、高等師範学校でカントを奉じる新カント派一色であった当時の教授陣への反発と、ハーバート・スペンサーの著作を熟読して受けた実証主義・社会進化論の影響のもとに、自己の哲学を形成する。1881年に受けた教授資格国家試験では、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をしたため、審査員の不興を買い、2位で合格する。

リセ教師となった彼は、授業のかたわら学位論文の執筆に力を注ぐ。1888年ソルボンヌに学位論文『意識に直接与えられたものについての試論』(英訳名『時間と自由意志』)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。
1896年に哲学上の大問題である心身問題を扱った第2の主著、『物質と記憶』を発表。
1900年よりコレージュ・ド・フランス教授に就任。1904年タルドの後任として近代哲学の教授に就任。1914年に休講(1921年正式に辞職)するまで広く一般の人々に講義した。ベルクソンは大学の正式な教授になることはなかったがその講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。
スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱し、『物質と記憶』で意識と身体を論じてきたベルクソンは、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年に第3の主著『創造的進化』を発表する。

第一次世界大戦中の1917年・1918年にフランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣。大戦後の1922年には国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員
会の委員に任命、第1回会合では議長となって手腕を振るった。
1930年フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。
また1927年にはノーベル文学賞を受賞した。
1932年に最後の主著として『道徳と宗教の二源泉』を発表。
晩年は進行性の関節リウマチを病み苦しんた。1939年に第二次世界大戦が始まるとドイツ軍の進撃を避け田舎へ疎開後にパリの自宅へ戻る。反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。1941年年頭、凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪をこじらせ静かに世を去った。占領下ということもあって、参列者の少ないきわめて寂しい葬儀のあと、パリ近郊のガルシュ墓地に葬られた。

ベルグソンの思想

生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない。アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある。
一方で、ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面も持っており、その思想は一様に説明できない面がある(ベルクソンは霊やテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められており、1913年英国心霊現象研究協会の会長にも就任している)。 こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される。

『時間と自由』
これまで「時間」と言われてきたものは、分割できないはずのものを空間的な認識を用いて分節化することによって生じたものであるとして批判し、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、ベルクソンはこの考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。

『物質と記憶』
失語症についての研究を手がかりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身関係という哲学上の大問題と格闘している。
すなわち、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉え、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。

『創造的進化』
スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱し、『物質と記憶』で意識と身体を論じてきたベルクソンは、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年に第3の主著『創造的進化』を発表。意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる(そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが「生の飛躍("élan vital")」である)。

『二源泉』
社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。
すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。

『創造的進化』主な論点

生命を論じながら認識論をも包み込む、ひとつの自然哲学を展開した。

第1章 生命の進化について

生命もしくはエラン・ヴィタール(生の躍動)固有の実在性を主張。
私達の心理的持続の独特なありさま(連続的変化、不可逆性、予見不可能性)を確認。この持続は、固有のリズムにおいて展開するものであり、時間経過を飛び越えてその未来の姿を予見することはできない。また絶えず作られるものであり、できあがったものではなく、設定済みの目的やプログラムに従うものではない。それは「創造的」である。
諸々の生物種を次々と生み出していく進化の運動、生命のエランも同種の創造的実在である。
物理的実在は、時間経過を省略できるような予見可能なものである。しかし実際には省略できない時間の中にある。
佐藤が溶けることが決まっていても我々はそれを待たねばならない。
この単純な事実はこの世界が心理的実在と物理的実在との分かち難い結びつきから成立していることを暗示している。
エランの実在の主張は、従来の進化学説への批判に裏打ちされている。批判の対象は、微笑変異の蓄積説(ダーウィン)、突然変異説(ド・フリース)、定向進化説(アイマ-)、心理的努力説(ネオ・ラマルキズム)である。
初めの3学説は視覚器官の発生というトピックにおいて批判される。眼という複雑な器官が脊椎動物と軟体動物という古くから分岐した進化経路にあっても同様に形成された事実、しかも両者の眼は化学的構成においても胚の部分についても異なるにも関わらず類似の形態と機能を有している事実が説明し難い。
進化の中には偶然や受動的適応に還元されない内的なドライブがあるはずである。しかし個体レベルの獲得形質の遺伝も存在しなければネオ・ラマルキズムも成立しない。
進化の主体と考えるべきは、無数の個体を生みつつもそれらを超えて進む連続的全体としての「生命」ということになる。
ひとつのエランに駆動されるがゆえに異なる進化のルート上で同じ機能を実現する複雑な器官が生まれるのである。物質的な複雑さに目を奪われて、そこに働く生命のエランの単純性を見逃してはならない。その複雑な機構は、生のエランが物質界に突き入って自らの傾向性を実現しようとするとき、物質が抵抗しつつもエランにあわせて形を整え道を開けた痕跡にすぎない。それを諸部分の偶然の組み合わせとみなし視覚の働き、生命自体をそうしたメカニズムもしくはその付随的結果と考えるのは一つの転倒である。

第2章 生命進化の分岐する諸方向

生命進化は単線的な発展ではなく、異質な諸方向への分裂である。生命の本源的エランの内実を確かめるためにその諸方向を解説する。
生命は大きく、麻痺(植物等)、知性(脊椎動物~人間)、本能(節足動物~膜翅類)に3分類される。生命は本来自由な行動を目指す意識が伴うもの、意識は生命の別名であると主張。
自由な選択が可能な場面では、意識は選択の力能として覚醒する。しかし自由な行動が抑制され自動運動に捉えられたとたんに生命は眠り込み、無意識に陥る。多くの植物は運動を放棄し無意識に落ち込んだ。対して動物種は、植物種に由来する栄養に依存しながら、より自由な行動の可能性をめざして進化する。この過程において洗練されてきたのが知性の本能の2認識様態である。両者に上下関係はなく、生命によって展開された二つの異なるかつ同時に成功をおさめた戦略である。
このように認識論を生命進化のなかに自然化しながら、次にそれぞれの認識様態の特徴を記述する。
知性とは、無機質物質(特に個体)を特権的対象とし元々道具の製作を目的とする。それは関係と形式の知であり、非連続性と不動性ばかりに関心を寄せるものであり、対象について恣意的分割を試みる能力である。具体的対象に捉われない知性は、私達に躊躇の機会と選択の幅を与え意識の覚醒を促す。しかし知性は「動き」や「連続」としての生命をそのままに把握することに必ず失敗する。
本能とは、機械的反射の集積ではなく本来は生命の実質的把握、生命への共感の能力である。それは実在を内側からとらえる直感でありえたが、実際には特定の対象に限定されてしまい、殆どの場合、自動化・無意識化に陥っている。
生命が辿ってきた諸方向の相補的なものとして浮かび上がるのは、より自由な行為を求める意識の冒険的な企てとしての生命進化というヴィジョンである。

第3章 生命の意義について

生命と物質という二つの実在はいかなる関係にあるのか。
知性的認識や直感的認識は実在把握においてどれだけの有効性を持つのか。
物質界という実在の中には秩序があり、一部の生物が発達させた特殊能力にすぎないはずの知性はうまく秩序を把握し取り出してくる。知性のアプリオリ(経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念)な諸形式に基づいた幾何学的・数学的推論は、実際の物質にそれなりに適合する。知性の所産としての科学は確かに成功している。
この事実は何を意味し、私達に何を示唆しているのか。
知性と対象との予定調和的な一致を説いたカントは、その一致を知性の側からの秩序化に帰したが、そのために知性認識の相対化というコストを払った。それは不要なコストであり、発生的観点を採ることで知性認識は一定の範囲において十分基礎づけられる。知性の形式と物質の形式は、創造的実在における一つの逆転現象から共に発生してくる。その形式とは空間性であり、そこにおいて両者はほぼ一致し、物質は幾何学的な本性を有する知性の形式や概念を受容するものとして現れる。
しかし、どうしてカオスではなく空間性や幾何学的秩序があるのか。
そもそも無秩序はそれ自体では存在しない仮象にすぎないと説く。何らかの秩序が常に存在する。空間性とは、緊張した生命の創造的運動の中断や弛緩が自然に辿りつくものであり、その方向に従った知性と物質が幾何学的秩序において再会し合致することには説明は不要である。
こうした議論の意義と有効性はカントとの比較を含めて検討されるべき内容であるが、知性認識または科学は、物質を対象とする限り絶対的認識に達するのだ。
従来の哲学が全幅の信頼を寄せてきた知性が単に生命の一所産に過ぎず、知性がとらえるものも実在の一半に過ぎないとすれば、哲学は何を依処とすべきか。
ここで「直観」が要請される。
知性も物質も、それらは生命という積極的実在に対しては派生的なものである。生命を内側からありのままに捉える認識こそ、本来「直観」と呼ばれるべきものであり、直観を掲げ直して生命の本質と意義を見定め直すことにする。
生命のエランとは、創造しようとする要求である。しかしこのエランは有限であり自らに対立する物質を担ってしまっている。生命と物質、創造と惰性という相反する2つの運動の絡み合いこそが私達の世界である。人間という種は、生命の創造が継続する中で特権的な場所に位置する。エランと神の関係という重要な諸問題を残しつつも、人間を先頭に疾駆する「巨大な隊列」として生命進化が描かれるのである。

第4章 思考の映画的メカニズムと機械論の錯覚
(1)「無」の観念への批判


「秩序に先立つ無秩序」が虚偽概念であると同様に「存在に先立つ無」もまた偽の観念である。「無」とはある存在から目をそらしつつ別の存在を考えながら語られるだけのもの、二つの存在の対照についてのある種の(後悔や期待、他者に注意する意図等を含んだ)語り方に現れるものに過ぎない。否定が肯定を前提とするように、無は存在を前提とし、かつ存在の一部なのである。
それを誤って「全体的無」といったものに仕立て上げて存在に先行させてしまうと「なぜ存在が?」という疑似問題が生じ、その回答として論理的・必然的な自己原因といった概念が持ち出されてしまう。これらの一連の誤謬は、持続を一種の劣った存在とみなす根本的誤謬と不可分である。
逆に、無時間的で不動の形相的な諸存在の方が、生成の側から行為の必要によって生じるのである。生成の方こそがそれ自身で絶対的でありうる。創造的進化の叙述がそのまま根本的な存在論ともなりうる所以である。

(2)形相と生成との対立を軸として描かれる哲学史

古代以来、無時間的な形相を優位に置く哲学が優勢であったが、近代において一つの逆転が起こる。諸現象を形相よりも関係において捉える中で、特に時間を独立変数として取り上げる近代哲学は、時間に固有の実在性を付与しかけている。しかしその後の哲学は、時間を単なる形式へと還元し、多くの場合、生成を軽視する古代の存在観に形を変えつつ繰り返し立ち戻ってしまう。
スペンサーの進化論的哲学は一つの突破であったが、実在的時間=持続とそこにおける創造を取り逃がしたために、既成のパーツの組み合わせを進化と取り違える「偽の進化論」になってしまっている。
本書は、生成一般についての探究の開始、「真の進化論」の第一歩をなそうとする試みである。

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