桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第77回】

『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ)※後半

開催日時 2011年9月17日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 和室(小)
西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

8月に引き続き、『モンテ・クリスト伯』を取り上げます。
前回は主人公ダントスがシャトー・ディフを脱出するまででしたので、今月はモンテ・クリスト伯と名乗りパリの社交界に登場するあたりから進めたいと思います。

作品のあらすじ

前回、ダンテスがモンテ・クリスト伯としてパリの社交界にデビューするあたりまででしたので、今月はそれ以降を含めて全篇を通して開催しました。
あえて誤解を覚悟で「ざっくり」この作品の流れを一言でいえば...
全く思い当たることのないダンテス青年が一生出られないと言われたシャトーデフに投獄され、そこで出会った師匠の薫陶により人生の光明を見出し、脱獄後に彼の人生を陥れた張本人達に復讐を遂げていく....
こんなストーリーと言えるでしょうか。

社交界に登場した「神の代弁者」

パリの社交界に登場した後のモンテ・クリスト伯は縦横無尽に活躍していきます。その行動は本人が言い切るように「神の代弁者」であり、神に次ぐ完全無欠の権威者そのものです。明らかに独善的にも思えます。
事実、モンテ・クリスト伯からその言葉が語られるシーンを読んだ多くの読者の中には「なんと傲慢な人格になったものか」と感じた方もおられたと推察します。
なぜダンテスはこのように自らへの疑いもなく断言できたのか。
ここに『モンテ・クリスト伯』の重要なテーマの糸口が秘められています。

「師匠」を宣揚しないダンテス。復讐に正義はあるのか。

当日の参加者の中からもこのような質問がありました。
「今自分がこうしていることができるのがある人のおかげであるとしたら、その恩人を最大限に讃えて宣揚するのが人の道ではないか」
「ダンテスはファリア神父を人生の師匠と言いつつ、脱獄後に活躍する場を得た後においてもファリア神父を讃えることを全くしていない」
また
「モンテ・クリスト伯となったダンテスはその人生の後半生を復讐を目的につき進んでいる。そもそも復讐を主眼においた物語とはいかがなものか」
このような指摘がなされました。

語られない「師匠への感謝」

現実的な話をすれば、ダンテスがモンテ・クリスト伯として活躍できるのはファリア神父が残した財宝があったからこそです。その点だけ見ても感謝をささげるべきはずですが、師匠を宣揚した形跡は全く読み取ることができません。
この点も前述の傲岸とも思えるダンテスの思考と根っこを一にしているのではないかと私は思います。
先月の折りにダンテスがファリア神父を師匠と定めた根拠について少し論じました。そのことを踏まえたうえで
・ダンテスが自らを神の代弁者と言いきれた根拠
・ファリア神父を師匠として宣揚しなかった精神的内側
・復讐を是とするような物語が成り立つ背景
を理解するひとつの視点としてキリスト教的生き方をみることができるのではないかと感じています。

キリスト教的生き方と「絶対的存在としての神」

キリスト教思想の特徴を論じる際のひとつの視点として天地創造者としての「絶対的存在としての神」が指摘できます。
人間は神に似せて作られたものであるが神にはなれない。
この点が仏教に代表される東洋的思想と根本を異にする重要な点です。

仏教思想においては最高の生命状態は自分自身の生命そのものに内在しており、その生命状態を「仏」と名づけている。その「仏」の生命は個々の人間に一人ももれなく存在しており宇宙全体の生命としても存在する。
その最高の生命状態を現出し一人でも多くの人が最高の生命状態を目指す中に「自他共の幸福社会」の実現があると考えられている。

対してキリスト教の思想においては、最高の生命状態は「神」という形で個々の人間の外側に存在する。非力な存在である人間には御することができない森羅万象の出来事も全て神の意志のもとで行われている。
人知の及ばない出来事に対しては人は非力であるが神への信仰を持ち続ければ必ず神の加護と祝福がある。
その経過においては、悪しき行いをした場合には神の前で懺悔をし、思いもよらぬ福徳に恵まれた時には神に感謝の祈りをささげるのである。

仏教においては全ての事象が自分から発すると考えることに対して、キリスト教的思想においては全ての事象は神の御心のなかで動いているのである。
この思考の前提を踏まえて今一度『モンテ・クリスト伯』を読み返してみたい。

神の意志の中で生かされてきた人生

ダンテスはどのような罪で自分が投獄されたかわからずに暗黒の牢獄の中で一生を終えようとしていた。
自殺を図ろうとするがファリア神父との出会いによって共に脱獄をするという目的を持つ。
しかしファリア神父の衰弱によって自らも死を共にしようとする。
生き抜くことを言い聞かせるファリア神父は自らが隠し持っている財宝のありかをダンテスに伝え、ダンテスの話を聞きながらダンテスが投獄に至った経緯を推測する。今の境遇に落とされた原因について全く思い当たる節がなかったダンテスだったが、ファリア神父の指摘によって自らの人生を暗転させた真実に気づくことになる。 ダンテスは自分自身を暗黒の人生に追い込んだ人間達に対しての憎悪が最高潮に達する。生きて牢獄をできることができるならば、全人生をかけて彼らへの復讐を果たしてやると深く思いを定める。

このような状況の中で、ダンテスは不可能と思われてきたシャトーデフからの脱獄を果たすのである。
ダンテスの果たした生還はまったく人知の及ばない出来事であった。
なぜこのような奇跡ともいえる出来事が実現したのか?
これこそ神の意志であるとダンテスが考えたのは至極自然なことであったであろう。
そしてダンテスが考え続けてきたこと。
それは脱獄ができれば必ず復讐するということだった。

神が許可した「復讐」

奇蹟である生還を果たすことができたという事実。それはとりもなおさず「汝よ復讐を実行してよし」との神の意志であるとダンテスが考えたのは、キリスト教的思考として必然ともいえる結論だったのではないか。
以上のような思考がダンテスの中で行われた。
こうしたキリスト教的思考を基盤としてこの作品が書かれている。
このように考えることは間違っているだろうか。。

この仮説が間違っていないとするならば、いくつか指摘された疑問点はいとも簡単に氷解する。
→完全に獄死するはずであった自分が生かされたのであるから、後半生の自分が行う行動はすべて神の意志である。すなわち神の代理人とも神に次ぐ存在ともいえる。
→ファリア神父を師匠とは仰ぐが、その出会いもすべて神の意志によるものである。したがって神への感謝に比べれば人生の師匠への感謝が軽くなっても不思議ではない。
→復讐そのものが是か非かを論じる必要はない。復讐することを神が許したのであるから。
このような結論が導かれる。
そしてこの仮説と結論は、さほど外れていないと思えるのである。

物語の終焉へ。復讐から第3の人生へ。

そのようなモンテ・クリスト伯であるが、小説の最終盤に入るあたりから復讐の決意が微妙に揺らぎ始める。 物語として読みごたえのある展開である。しかしキリスト教的信仰の面からみると、複雑な思いを感じる人もいると思う。
このあたりがデュマ作品の限界であると同時に、人間性が滲み出す醍醐味といえるかも知れない。
ハッピーエンドとその後の想像を読者に託すという意味では、新聞小説として書かれた大衆小説の定番ともいえる。

自らを貶めた3人への復讐を果たしたモンテ・クリスト伯は静かに表舞台から去っていった。 人生最大の目的を復讐に定めて、その目的を果たした彼にとっての「第3の人生」にはどのような展開が待っているのだろうか。
我が子のように愛するマクシミリアンに対して「社会に有意な人生を送れ」と語るモンテ・クリスト伯に、その言葉をそのまま投げ返してみたいと思う。
『その後のモンテ・クリスト伯』という作品を誰か執筆するとおもしろいと思うのだが、みなさんはどのように感じられましたか。

遠路参加いただきました宮城県の笹野さん、京都府の杉本さんと市原さん、また初参加いただきました小山さん、ありがとうございました。

著者

アレクサンドル・デュマ・ペール
(Alexandre Dumas, 1802年7月24日 - 1870年12月5日)
1802年7月24日に父トマ=アレクサンドル・デュマ将軍と母マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子として北フランスエーヌ県ヴィレール・コトレに生まれる。
父デュマは、黒人と白人が混血したクレオールである(フランスなどでは混血したほうが血が強くなるという考え方がある)。その勇猛さから「黒い悪魔 Le diable noir」とあだ名された。
ナポレオンがデュマ将軍の死後、遺族に終身年金を下付しなかったため、幼少期は貧しい生活を余儀なくされ、まともな学校教育を受けることが出来なかった。ただし、本人自身も勉強に身をいれるようなことはなかった。
15歳で公証人役場で見習いとして働きはじめるが、17歳のときに『ハムレット』の劇を見て感激し劇作家を目指す。
パリに上京、父の友人の紹介でオルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家の秘書室に勤めたデュマは文学や歴史の勉強に励んだ。

1829年『アンリ三世とその宮廷』によって一躍名をあげ、歴史劇『クリスティーヌ』や自身の不倫体験をもとにした現代劇『アントニー』などを次々と新作を発表し一気に人気劇作家になった。
やがて元歴史教師でフランス史に造詣が深いオーギュスト・マケと組んで、歴史小説も発表するように。
当時新聞各紙は購読者を増やすために小説を連載するようになっており、これに目をつけたデュマは新聞各紙に、『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』に始まる『ダルタニャン物語』、『王妃マルゴ』、『王妃の首飾り』などを連載しどれもベストセラーとなった。デュマの懐には莫大な金がころがりこんだが、彼はその金で豪邸「モンテ=クリスト城」を建て、毎夜酒宴を開き、女優たちと浮名を流すといった派手な生活を繰り広げた。
さらに国王ルイ・フィリップの五男モンパンシエ公爵の庇護の下、1847年に「歴史劇場」を建設し自分の作品を劇にして上演させた。デュマの作品はどれも大当たりで、劇場経営でも巨富を手にした。

しかし、1848年の二月革命によって後援者のルイ・フィリップは国を追われ、革命後の混乱のために市民は劇場へ足を運ばなくなり、歴史劇場は大きな赤字を出すようになった。長年の浪費生活でこれまで稼いだ金も使い果たし、1851年裁判所から破産宣告が降りた。そのため一時ベルギーに逃亡するが、後に債権者と妥協が成立しフランスに帰国することが出来た。
その後はかつてのベストセラーにあやかった『ムスクテール(銃士)』や『モンテ=クリスト』といった新聞を自ら発行し、自分の作品を掲載するが、両紙とも短期間で廃刊を余儀なくされた。

1870年、子供たちに見守られながら息を引き取る。ベストセラーを連発し、莫大な金が流れ込んでいたにもかかわらず、晩年にはそのほとんどを使い果たしており、少量の絵画と家具しか残っていなかったという。

父同様、黒人奴隷の子孫として人種差別を受けたデュマは、政治的には共和主義・自由主義の立場に立ち、社会改革にも取り組んだ。七月革命においては革命軍に参加し、ナポレオン3世の圧制に耐えかねてベルギーに亡命したフランスの知識人を保護したり、ガリバルディのイタリア統一運動を支援した。1848年には自身が憲法制定議会議員選挙・同補欠選挙に立候補したが惨敗。自分の自慢話を延々紹介するだけのアピールを有権者向けに発表して、かえって反発をかったことが原因と言われている。
2002年11月30日、生誕200周年を期にパリのパンテオンに祀られた。作家としてはヴォルテール、ジャン・ジャック・ルソー、ヴィクトル・ユゴー、エミール・ゾラ、アンドレ・マルローに次ぎ6人目。交流のあったユゴーとは一世紀以上ずれた式典に際し当時のシラク大統領は、作品の愛読者だった事を述べると共に、出自による人種差別等が原因で遅れたことを認め悔いるコメントを表明した。

作品の背景:フランス政権の変遷

ガリア
フランク王国
メロヴィング朝 (481–751)
カロリング朝 (751–987)
カペー朝 (987–1328)
ヴァロワ朝 (1328–1589)
ブルボン朝 (1589–1792)
フランス革命
第一共和政 (1792–1804)
国民公会 (1792–1795)
公安委員会 (1793–1794)
総裁政府 (1795–1799)
執政政府 (1799–1804)
第一帝政 (1804–1814)
ブルボン第一復古王政 (1814–1815)
百日天下 (1815)
ブルボン第二復古王政 (1815–1830)
七月王政 (1830–1848)
第二共和政 (1848–1852)
第二帝政 (1852–1870)
第三共和政 (1870–1940)
自由フランス (1940–1944)
ヴィシー政権 (1940–1944)
共和国臨時政府(1944–1946)
第四共和政 (1946–1958)
第五共和政 (1958– )

作品の背景:フランス革命

フランスで起きた市民革命。フランスの社会を根底から変革させ、全ヨーロッパに影響を及ぼした。一般に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まり、ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終焉したとする。
革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は現代社会にも影響を残している。
当時、フランスでは啓蒙思想家であるルソーや百科全書派であるヴォルテールにより、社会契約説が多くの知識人に影響を与え、それに国民が共感したことで、当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する反発が鬱積した。
ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。

1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分(平民)による国民議会(憲法制定国民議会)が発足、革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊した。
革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちはこれに干渉して、反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。
フランス国内でも、カトリック教会制度の破壊などキリスト教の迫害、ルイ16世の処刑をはじめとするギロチンの嵐、ヴァンデの反乱を始めとする内乱、ジャコバン派による恐怖政治、繰り返されるクーデター、そしてそれに伴う大量殺戮などによって混乱を極めた。
革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって転換点を迎えたが、不安定な状況は1799年のブリュメールのクーデター、あるいは1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで継続した。

革命に端を発するこうした混乱の最終的な決着は、フランスがアメリカの民主政治に学んだ第三共和政の成立を待たねばならず、革命勃発より80数年を要した。

フランス革命が掲げた自由、平等、友愛の近代市民主義の諸原理は、その後市民社会や民主主義の土台となった。
一方で、理性を絶対視し、理性に基づけばあらゆる社会の改造や暴力も正当化しうるとした点で、その後の共産主義、社会主義、全体主義の母体ともなった。

また、教会への略奪や破壊などのキリスト教の弾圧・迫害と「理性」の神の信仰や「最高存在の祭典」などから、宗教戦争としての側面もあったといえる。

今日、日本を含む世界中の多くの国家がフランス革命時に掲げられた理念を取り入れているが、各国の歴史や伝統に照らして穏やかなものとなっている。
他にも民法、メートル法など、フランス革命が生み出した制度や思想で、世界史上に大きな影響を残したものもある。

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