桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第81回】

『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)※前半

開催日時 2011年1月28日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 和室(小)
西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

2012年の最初となる今月と来月(2月25日)の2回で『カラマーゾフの兄弟』を取り上げます。
何年か前に亀山郁夫氏の日本語訳でちょっとしたブームになったことを記憶している方も少なからずおられると思います。ドストエフスキーの代表作一つ前。
桂冠塾では『貧しき人々』に続いて2作品目となります。
作品の冒頭「著者より」の章で提示されるように、地主フョードル・カラマーゾフの3人の息子達ドミートリイ、イワン、アレクセイ(アリョーシャ)、なかんずくアレクセイの一代記として構成された作品です。
父フョードルの殺害とその事件をめぐる裁判をめぐって物語が進められます。
この作品は様々なテーマが提示されていることでも有名です。信仰や死、国家と教会、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係などさまざまなテーマが登場人物によって提示され、議論が展開されていきます。
今月と来月の2回をかけて様々な角度から読み進めてみたいと思います。

作品の構成

序章「著者より」と本篇4部で構成される長編小説。
地主フョードル・カラマーゾフの3人の息子達ドミートリイ、イワン、アレクセイ(アリョーシャ)、なかんずくアレクセイの一代記として構成された作品。
父フョードルの殺害とその事件の裁判をめぐって物語が進む。

【第1部】
グルーシェニカをめぐる諍いを前面に出しながら主要な登場人物のアウトラインを描き、その一方で、ゾシマ神父とアリョーシャを中心にしてロシア正教会のあり方と「神は存在するのかしないか」というテーマが論じられます。

長男ドミートリイは、自分に残された遺産を放蕩で散財し、遺産の相続と魅惑的な女性グルーシェンカをめぐって父親と激しく憎み合い、自らの邪な気持ちから陥落させた婚約者カチェリーナには負い目を感じて自ら身を引こうとする。
苦学して優秀な成績を修めた次男イワンは翻訳等の仕事で生計を立てていたが、突然父の住む郡に戻って一緒に暮らし始める。兄の婚約者カチェリーナを愛しており、彼女を冷遇する兄ドミートリイを恨んでいた。
皆に愛される性格でキリスト教の信仰の厚い三男アレクセイは敬愛するゾシマ長老に師事し、修道院での生活を始める。
父フョードルはどこにいても道化師の振る舞いをする男だった。
長男ドミートリイは最初の妻との子供、二男と三男は2番目の妻の子供で、今は使用人3人とイワンとの生活を自由気ままに過ごしている。

【第2部】
フョードルとドミートリイの諍いが激しくなり一族が揃って長老ゾシマを訪ねるが、その場でもフョードルが嘘とでたらめの作り話に終始。同席したミウーソフは激怒。その場はめちゃくちゃに。
ミーチャの言動によって引き起こされた様々な憎しみや騒動の結果をアリョーシャが順々に巡っていくという形態が取られています。ミーチャの言動は、カテリーナとグルーシェニカ、そしてヒョードルとの愛憎から起きています。
そしてこの第2部ではイワンによる『大審問官』が朗読され、ゾシマ長老の談話と説教が続き、死に向かっていきます。悪魔と神、信仰をめぐる様々な重要なテーマが凝縮されていきます。
その意味ではこの作品の底辺に流れる哲学思想の問題を明らかにしたとも言えるのではないかと感じます。

【第3部】
ゾシマ長老の遺骸から腐臭が発生したことで大きな動揺が置きます。そして第8編「ミーチャ」ではミーチャが3000ルーブルを手に入れようと奔走します。しかしその願いは成就することはありませんでした。
全てに絶望し、グルーシェニカが訪問したと思い込んだフョードルの家へミーチャは銅の杵を握りしめて向かう。そしてそこでフョードルの殺害が起こります。
真っ先に嫌疑がかけられたのは事件当日にフョードルの屋敷に忍び込んで使用人のグリゴーリイを襲って大怪我をさせたドミートリイであった。女性問題をめぐってフョードルと争っていたことや、殺害されたフョードルの傍にあった大金が無くなっていたが借金を抱えていたのに大金を持っていたこともあり、ドミートリイへの嫌疑が深まっていく。
グリゴーリーへの暴行は認めるがフョードルは殺していないと主張するミーチャ。殺人事件をめぐる予審が進んでいきます。
周囲の人達はドミートリィが父親を殺したのだと信じて疑わない。ドミートリイは無罪を主張。婚約者カチェリーナはドミートリィの犯罪だと考えて減刑のために弁護士をつけた。
一方でドミートリィの無罪を信じるグルーシェンカ。アレクセイはドミートリィの無罪を信じている。次兄のイワンは当初ドミートリィの犯行だと見ていたが...。

【第4部】
裁判をめぐりそれぞれの立場で暗躍、葛藤が続きます。
一方でイリューシャ、コーリャら少年達とアリョーシャとの交流が描かれます。
この第4部で大きな比重を占めるのが次兄イワンです。
神の存在を信じないイワンが精神的に異常をきたしていく...。そこにはフョードル殺害の真犯人であるスメルジャコフとの葛藤がありました。
そして検事と弁護人それぞれが繰り広げる法廷のシーンはまさにディベート対決。言葉の持つ力がひしひしと迫ってくる場面でもありますが、逆に真実がなくても言葉は展開されるのだという事実も痛感せざるをえません。
裁判は進んでいくが、判決の前日には使用人のスメルジャコフが自殺、直後にイヴァンが精神病で発狂して寝込んでしまうなど周辺では不穏な事態が絶えない。そんな中、ついに運命の判決が下る。

【エピローグ】
罪を償う生き方とは何かを提起する章でもあります。
そしてイリューシャ少年の葬儀。最後のシーンで少年たちを前にアリョーシャが自らの思いを力強く語り、全員が「カラマーゾフ万歳!」と叫んで物語が終わります。
作品の随所で、信仰や死、国家と教会、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係など、さまざまなテーマが登場人物によって提示され、議論が展開されている。

カラマーゾフの一家

この作品は「著者より」編につづき、全体が4部+エピソードで構成されています。
「著者より」編で「わたしの主人公」はアレクセイ・カラマーゾフ、愛称アリョーシャであると書かれている。
彼はカラマーゾフ家の男三人兄弟の3番目。
父はフョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ。長男ミーチャ(ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)はフョードルの最初の妻の子で、次男イワン(イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)とアリョーシャは2番目の妻の子である。
前段であえて「わたしの主人公」という表現をそのまま引用したのは、読了した方は感じるかもしれないが、ミーチャもイワンも相当の重みを持って登場しているからだ。作品のタイトルからして「カラマーゾフの兄弟」だから当然ながら2人の兄の存在も大きい。多くの書評に書かれるような「父殺し」に視点を置いて読むと、長男ミーチャのほうが圧倒的な存在感を感じてしまいそうだ。

父フョードルは道化師のような性格と書かれている。
若い日から女好きで放蕩を繰り返し、その時その時にあわせてありもしない作り話やおべんちゃらを平気で放言し続け、育ちの良い上流階級の娘を最初の妻にする。彼女の資産を自分のものにするが、もちろん放蕩はやめない。最初の妻とは早々に離縁する。フョードルは子供は妻方の親族に預けてしまい放蕩にふけ続けるが、自分の利益には目敏く、このとき手にした資金を元手にひと財産を築く。しかし長男ドミートリーには資産総額を明かそうとしない。
孤児であった当時16歳の2番目の妻ソフィアと8年の再婚生活をするがソフィアは死去する。彼女は神経症(文中では「おキツネさん」と邦訳されている)を患いヒステリーの発作を繰り返した。

時代は下って、物語の始まりの時は長兄ドミートリー28歳、次兄イワン数えの24歳、三男アリョーシャが20歳になる頃である。

ドミートリーは父譲りの性格なのか、母の資産を当てにしながら乱れた青春時代を送りつつも将校となる。その時に縁をした上官一家の窮地をにつけ込み下心ある行為によって危機から救い、次女と許嫁になって故郷の町に戻っている。
イワンは父の資産は当てにせず苦学をして学業を修め、翻訳や新聞への執筆投稿などで生計を立てていたが、突然生まれ故郷に帰ってきて父と同居して暮らし始めていた。

三男アリョーシャは物語が始まる1年ほど前から故郷に戻り、修道院でゾシマ長老に師事して修道院で暮らしていた。

このカラマーゾフ一家が物語の核を形成していくのである。

「カラマーゾフ」の意味

いわゆる文学論的な解釈は様々な評論書が出ているので、それらの本に譲りたいと思います。
一例として触れておきたいと思うのは、主人公の名前。題号にも使われている「カラマーゾフ」の意味です。多くの方が評論しているようにその言葉の奥底には作者ドストエフスキーの生い立ちや父親の死にまつわる事件が深く影響していると思われます。
「カラマーゾフ」の言葉には「黒く塗りつぶす」との意味を感じ取ることには大きな間違いはないと思います。世界の東西を問わず決してよい印象のない「黒」「塗る」という意味を主人公の一家に冠する。ある意味で「おぞましい物語」を書くつもりなのだろうかとも思ってしまいそうですが(^^; 物語を読む中でも、そうした血縁にまつわる一種の傾向性を認める考えもあるようにも感じます。
「カラマーゾフ的」「やっぱりカラマーゾフなのだ」等々の表現がその一端をあらわしています。

そうした点も踏まえながら、その傾向性を踏襲するのか、転換するのか。
元々書かれようとしていた「もうひとつのカラマーゾフの兄弟」のストーリーとして、ドストエフスキーはどちらの方向を想定していたのか。大変に興味をそそられます。

殺人事件の物語

メインストーリーは殺人事件である。
多くの出版社の編集者は「父殺し」というキーワードで帯を作っているが、必ずしも父親⇔子供の関係で殺人が行われたと断定できるわけでもない。むしろそうではないというストーリーであり、その点は決して謎解きにもなっていない。本の売上を意識したこうしたキャッチコピーの氾濫はよくあることだが、本来の作品の主旨に誤解を与えるコピーは控えてほしいなぁと思います。

資産と女性をめぐって諍いを続けてきた父フョードルと長兄ドミートリー。
その緊迫した状況は最高潮を迎えて父子の争いはフョードルの死によって新たな展開を広げます。当然のことながらフョードル殺害の殺人容疑者としてドミートリーが拘束されますが、ドミートリーは自身の無罪を主張し、真犯人として使用人スメルジャコフを名指しします。真実はスメルジャコフの犯罪なのですが、このことは最後まで真正面から検証されることはありませんでした。

作品の後半は検事と弁護人による法廷闘争です。
ただ真正面からの対立というわけではなく、弁護人はドミートリーの無罪は信じておらず情状酌量の戦術で進めていきます。
最後まで無実を訴えるのはドミートリーただ一人。
イワンが事実を暴露しますが、精神的に病んでいると思われて誰も取り合わない。
客観的に見れば、決定的な物的証拠はなく、状況証拠もドミートリーの有罪を裏打ちしているともいえない。
陪審員の出した結論はそれまでの感情のままに「有罪」の判断でした。
こうして殺人事件は真犯人ドミートリーとして終結します。

信仰にまつわる諸テーマ

『カラマーゾフの兄弟』にはメインとなるストーリーと副次的な単発のストーリーが意図的に組み合わされています。こうした手法は多くの文学作品にみられるので決してめずらしいことではなく、どちらかと言えば古今東西の名作にはこうした手法によるものが多いと思います。

この作品の副次的なテーマの代表例が「信仰」にまつわる諸テーマです。
作品の前半で顕著に表わされている個所として、ゾシマ長老を中心とした信者との対話、説法、そして死に際しての「腐臭」が挙げられるでしょう。
説法や信者との会話の中では、神を頂点とした信仰観や生き方が説かれていきます。
ロシア正教会独自の慣習的制度として紹介される長老制度についても、是非の両面から考え方が紹介されています。
そしてその根底にある神秘性については、ゾシマ長老の死体の「腐臭」によって痛烈な場面が展開されます。
生前のゾシマ長老の信奉者であった者たちの大きな動揺。
自虐的ともいえる転向。
生前から悲観的であった者たちにしてみれば「それ見たことか」と言わんばかりの傲岸ともいえる言動がこれでもかと描かれていきます。

ひとつの山場はアリョーシャの動揺です。
アリョーシャは、長老の死体からは清らかな芳香が漂い、聖者としての奇蹟を現じてくれると信じて疑わなかった。しかし現実は正反対。死後まもなく腐臭を発する事態に気が動転します。作品の中で終始一貫して冷静に行動するアリョーシャが最も感情的に不安定な状態として描かれているシーンではないかと思います。

このアリョーシャの言動を通して、ドストエフスキーは何を言いたかったのでしょうか。
ドストエフスキーの意図は記述されていません。
聖職者(を目指す者)であっても人間的な感情の起伏があるものだと言いたかったのでしょうか。奇蹟的な現象は、信仰とは関係がないことを暗にほのめかしているのでしょうか。

これは私の推測ですが、ドストエフスキーの手法はこうしたテーマは提示しますが、自分自身の考えや主張らしきものは述べないという方法論をとっているのではないかと思います。多くの作品では登場人物、なかでも主人公の言動に作者の意図が表れるものですが、『カラマーゾフの兄弟』を読む限りでは作者の創作意図は判然としない面があります。
これは意識して伏せているのではないかと私は感じています。

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