桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第83回】

『イワン・デニーソヴィチの一日』 (ソルジェニーツィン )

開催日時 2012年3月17日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線 中村橋駅・徒歩5分  サンライフ練馬 和室(小)

開催。諸々コメント。

今回は『イワン・デニーソヴィチの一日』を取り上げます。本作品は1962年に発表されたアレクサンドル・ソルジェニーツィンの文壇デビューとなった作品です。世界的なベストセラーとなり、1970年にはノーベル文学賞を受賞しました。
主人公イワン・デニーソヴィチ・シューホフ(以下「シューホフ」)のラーゲリ(強制収容所)での一日を淡々と描きあげた作品。
手紙に書いた文章によってスパイの疑いをかけられたシューホフは10年間の服役を過ごします。
そのシューホフの朝8時に起床してから夜就寝するまでの一日。特に取り立てて大きな出来事があったわけでもない「日常生活」が描かれていきます。
そのように書いてしまうと「ではなぜこの作品が世界的なベストセラーになったの?」という疑問が聞こえてきそうです。
こうした疑問も念頭に置きつつ、読み進めてみたいと思います。

作者ソルジェニーツィンが生きた時代

作者のソルジェニーツィン氏は1900年代のロシア文学を象徴する作家のひとりと言えるでしょう。古今東西の名作と呼ばれる作品を読む際にはその作品が書かれた時代や社会背景、作者の思想等を知ることが重要ですが、なかでもソルジェニーツィンの作品を読むときには彼が生きたソビエトの時代を知ることが必要不可欠です。

愛国心とキリスト教信仰

ソルジェニーツィンは1918年に北カフカースに生れました。 父はコサック出の帝政ロシア軍の士官。母はウクライナ人で敬虔なクリスチャン。この両親から、彼の人生を左右した二つの価値観である「父譲りの愛国心」と「母譲りのキリストへの信仰心」を受け継ぎます。
父はソルジェニーツィン出産前に猟銃事故で死亡。彼は母と叔母によって育てられます。 幼年期はロシア内戦に重なり1930年までに一家の資産はコルホーズ所有となります。ロシアの歴史の渦中での生活と言えるでしょう。
その後母は1944年に死去。 ソルジェニーツィンは1940年に学生結婚をしますが、グラグ釈放前年の1952年に離婚し1957年に再婚、1972年に再離婚。1973年に既に子供を産んでいた2番目の妻と再婚しています。

スターリン批判と収容生活

ソルジェニーツィンは、1945年2月に友人に送った手紙でスターリン批判をした理由で逮捕され、ルビャンカ収容所に連行、査問を受けます。
欠席裁判によって懲役8年を宣告された彼は、いくつかの収容所での労働を経てシャラスカ(内務省国家保安局特殊研究所)に収容、更にエキバストスの政治犯専用特別収容所で雑役工、石工、鋳工として3年を送ります。この経験が『イワン・デニーソビィチの一日』の元になりました。
1953年3月,刑期が終えた1ケ月後にカザフスタン北東部への永久流刑が決まります。 健康上の問題も発生します。 エキバストス時に発症した癌が進行しますが、治療によって小康状態を保つことになります。
投獄と追放の10年間で、彼はマルクス主義を放棄し、哲学志向のクリスチャンに転向していきます。

雪解け。そして停滞の時代。

1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって「雪解け」時代に入り、同年7月に解放無罪となります。
その後彼は、中学校の物理数学の教師として教師をしながら文筆活動を続け『ガン病棟』『収容所群島』を執筆。42歳の時に『イワン・デニーソビィチの一日』を手にトワルドフスキーと連絡を取りフルシチョフの承認を経て1962年に出版するとベストセラーに。一気に文壇に駆けのぼっていきます。
彼の作品は国内で高い評価を受け、学校の教材としても使用されました。
しかし1964年にフルシチョフが失脚すると「雪解け」は大きく後退し、ブレジネフによる「停滞の時代」に突入します。彼の作品は発行停止、作品は押収。1967年5月、ソルジェニーツィンは公開質問状を送付し、当局による検閲廃止を訴えますが1969年10月に作家同盟からも追放されます。
1970年にノーベル文学賞を受賞しましたが、帰国できない危険を考えて授賞式は欠席しました。 一方で体制批判を止めることはなく、1973年3月にはロシア正教会の体質を批判する公開質問状を送付します。

ソビエト国内での作家活動が困難になっていたソルジェニーツィンは、1973年暮れにパリで『収容所群島』を出版。当然のことながらソ連当局から激しく批判され、ソ連マスコミも一斉に彼を痛烈に非難攻撃しました。 ソルジェニーツィンは1974年2月に逮捕、西ドイツに国外追放されます。

提言し続けるソルジェニーツィン

その後国外追放の身であってもロシアの再生を提言し続けます。
1985年3月、ゴルバチョフがブレジネフ政権以来の路線転換を発表。1990年8月に大統領令によってソルジェニーツィンのソ連での市民権が回復しました。
9月のソ連最高会議ではゴルバチョフ大統領がソルジェニーツィンの『甦れわがロシアよ~私なりの改革への提言』を絶賛。
こうした国内情勢の変化を経て1994年5月、ロシア連邦に帰国。ロシア各地を視察し、急激な経済政策を推進したエリツィンを批判します。その後プーチン大統領と会見したソルジェニーツィンはプーチンを絶賛。
※率直な感情だったとは思いますが、こうした彼の行動には賛否両論があるように思います。
2008年8月モスクワの自宅にて死去。享年89歳でした。

社会主義実験の時代

ソルジェニーツィンが生きた時代は「社会主義実験の時代」と言えると思います。
財産の国有化と共同経営、国営による農業根本の平等な社会づくり。その理想を実現しようと多くの庶民が奮闘する一方で、楽をする庶民も生まれ、スターリンを代表とするような一部の指導者階級の誤った政治指導、特権化した腐敗も生まれた迷走の時代でした。
そうした社会情勢を舞台としてこの作品『イワン・デニーソヴィチの一日』が描かれています。

シューホフの一日

主人公イワン・デニーソヴィチ・シューホフ(作品の中ではもっぱらシューホフとだけ表現されている)の収容所での一日が描写されています。
1942年2月。従軍していたシューホフはドイツ軍に捕らえられて捕虜になります。第二次世界大戦の後期になる時期で、場所は北西部戦線と書かれています。
シューホフは仲間5人と脱走し友軍に出会いますが銃撃の洗礼を受けます。3人が死亡し2人が助かりますが「正直にも」ドイツ軍の捕虜であったと申告したため、スパイではないかとの嫌疑をかけられます。強要された自白調書に署名をしたシューホフは8年の収容所生活を続けている・・・。
そのような状況が描かれています。

普通に計算すると作品の時代は1950年頃。第二次世界大戦の終戦から5年が経過したあたりです。他の国では戦勝国も敗戦国も戦後復興に邁進していたことを考えると、ソビエトは自国の国民を思想犯として収容所に入れて極寒のシベリア地方などで強制労働を課していたわけです。
なんとも時代錯誤の人間性軽視の所作ではないかと感じてしまいます。

嘘の自白は“生きるため”

なぜやってもいないスパイ任務をやったと自白したのか?
そうしないと死刑に処せられるから。ソルジェニーツィンはさりげなく、自分達が描いた筋書き通りでないと認めないのがソビエトの体質だと端的に指摘しているのでしょう。
しかしシューホフは淡々と現実の収容所生活を送ります。
一見すると諦めの境地なのかと思いますが、読んでいくと必ずしも、そうでもない。
妻からの手紙を読んでコルホーズの働き手が増えていないことに疑問を持ったり、最近村の男達の間で増えた「えらく割りのいい商売」であるじゅうたん染めについて「自分で汗水たらして働いた実感がわかない」仕事はやりたくないと思ったりしている。
もちろん被収容者全員がそうだというわけではない(楽をしようとするずるがしこい奴とか仲間を密告する奴も出てくる)が、主人公シューホフはそうなのである。
コルホーズとは...ソビエト連邦時代の集団農場。農民による協同組合形式で運営し、収益は構成員の労働に応じて配分された。
参考→コルホーズ(ウィキペディア)

目の前の仕事を懸命にやる

その姿勢は、強制労働である日々の仕事に対しても表れている。
その日、シューホフが所属する班は昨年秋に建設途中になっている暖発電現場になった。ここは改めて言うまでもなく「極寒の地」である。建設現場は氷で閉ざされている。作業する場所の雪を掻き出し、氷を砕き、雪の中から砂を取り出してハンマーで叩き割ってモルタルを練って、凍りつく前にレンガを積んで塗り固めていくのだ。
途中で凍ってしまったら翌日また最初からやり直しになるが、強制労働を課せられた立場から言えばそれはそれで構わないことだ。見事に仕上げたからといって褒賞があるわけでもなし、収容所での待遇がよくなるわけでもない。しかも今日の現場は昨秋に他の班が適当な仕事で放り出したがために、その修正をしながら進めなければならない。はっきり言って面倒くさい状況もあったのだ。
しかし、シューホフは最初から、執着を持って、この仕事を仕上げる気持ちになっている。
そして寸分の手抜きも許さず、職人気質を発揮して、さらに班の皆を指揮して、見事に、きれいにレンガを積み終えるのである。

シューホフは仕事を首尾よく達成するためにリスクも負っていた。
自分の手に合う道具をこっそり隠していたのだ。
仕事の道具は毎日元の場所に戻すルールになっている。しかしそうなるとその日の道具が使いやすいものが手元に来るとは限らない。壊れていて一日仕事にならないこともある。だからシューホフは、仕事を終えると役人の目を盗んでこっそりと道具を隠している。
強制労働者という立場から考えれば、そこまでする必要は、当然ない。
しかも隠していることがわかれば脱走準備の疑いもかけられて懲罰にもなるだろう。
シューホフは自分は「職人」だからそうしているのだ。
その職人の仕事も元々やっていた仕事ではなく、収容所での労役で身につけたものだ。
人間の生き方は、環境で決まるものではない。
自発能動の生き方ができるかどうかで、人生は180度違う展開を見せる。
同じ極限の環境下でも、シューホフのように生きることもできれば、単なる苦役としていやいや働いて、無駄な時間を過ごしたと悔いる人生もあるのだ。

楽観に生きる

総じて、シューホフの一日は楽観的に過ぎていく。
彼を取り巻く環境は、客観的に考えて楽しいわけではないはずだ。

完全な冤罪で放り込まれた理不尽な収容所生活が既に8年。
食事は最悪。しかも時によっては食べられないこともある。
虐げられた者同士のはずが、最下層の者の中にも階級社会ができてくる。
役人の付け届けも横行し、裕福な家族を持つ者は楽な収容所生活を送っている。
政府の突然の方針転換で収容所年限が延期される現実も目の当たりにしている。
仲間を密告する者もいれば、その者が報復で殺されることもある。
出所を待っているはずの妻は、彼との離婚を望んでいる。
収容所は極寒の最果ての地。凍傷は当然のこと、いつ凍死しても不自然ではない。

ざっと列挙するだけでも、こんな環境なのである。
どこに希望などあるのだろうかと感じるのが普通の(何が普通なのかという指摘もあるだろうが^^;)人間の感覚になるだろう。
加えてシューホフは、回りの人間のためにも何度も危険を犯している。
その対価として、タバコをもらったり一食分の食事を得たりして喜んでいるので「無私の気持ち」だとか「慈善の思いだけで」などと言うつもりはないが、それでもそうした対価がなくても行動しているだろうと思わせる場面が何箇所か描かれているのも事実だと思う。

生きることの意味とは

「午前五時、いつものように、起床の鐘が鳴った」

この一文で始まる本作品。
シューホフにとって、まさに「いつも」と変わらぬ、ある日の日常に過ぎないのだろう。
その「いつものよう」だからこそ、その人間の生き方の根っこが見えてくるのだと、私は思う。

こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、三千六百五十三日あった。
閏年のために、三日のおまけがついたのだ・・・。

この文章で本作品は終わる。
描かれた「一日」の後も、約二年間の収容所生活が続いたのだろう。
シューホフはおそらく間違いなく、淡々と、しかも職人としての誇りを持って、収容所の仲間と共に、有意義な一日一日を過ごしたのだと思う。
出所後のシューホフはどんな人生を送ったのだろうか。
華々しい反体制運動などとは一番遠い場所で、しかも現実の社会の中で、地に足を着けた人生だったことには、間違いがないだろう。
それが、最も多くの庶民の生き方であるべきだと、ソルジェニーツィンは訴えたかったのかもしれない。

作者

アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン
(1918年12月11日 - 2008年8月3日)

ソビエト連邦の作家、劇作家、歴史家。1990年代ロシア再生の国外からの提言者。ソビエト連邦時代の強制収容所・グラグを世界に知らせた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞。1974年にソ連を追放されるも、1994年に帰国した。
1918年に北カフカースに生まれる。父はコサック出の帝政ロシア軍の士官。母はウクライナ人で敬虔なクリスチャン。彼の人生を左右した二つの価値観、父譲りの愛国心と、母譲りのキリストへの信仰心に彩られていく。父はソルジェニーツィン出産前に猟銃事故で死亡。母と叔母によって育てられる。幼年期はロシア内戦に重なり1930年までに一家の資産はコルホーズとなる。母は1944年に死去。
ソルジェニーツィンは1940年に学生結婚するがグラグ釈放前年の1952年に離婚し1957年に再婚し1972年に再離婚。1973年に既に子供を産んでいた2番目の妻と再婚している。
1945年2月に友人に送った手紙でスターリン批判をした理由で逮捕、ルビャンカ収容所に連行、査問を受ける。欠席裁判によって懲役8年を宣告される。いくつかの収容所での労働を経てシャラスカ(内務省国家保安局特殊研究所)に収容、更にエキバストスの政治犯専用特別収容所で雑役工、石工、鋳工として3年を送る。この経験が『イワン・デニーソビィチの一日』の元になった。
1953年3月,刑期が終えた1ケ月後にカザフスタン北東部への永久流刑が決まる。
エキバストス時に発症した癌が進行するが治療によって小康状態を保つ。投獄と追放の10年間でマルクス主義を放棄し哲学志向のクリスチャンに転向した。
1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって「雪解け」時代に入り、同年7月に解放無罪となった。中学校の物理数学の教師として教師をしながら文筆活動を続け『ガン病棟』『収容所群島』を執筆。42歳の時に『イワン・デニーソビィチの一日』を手にトワルドフスキーと連絡を取りフルシチョフの承認を経て1962年に出版するとベストセラーに。学校の教材としても使用された。
しかし1964年にフルシチョフが失脚すると「雪解け」は大きく後退し、ブレジネフによる「停滞の時代」に突入した。彼の作品は発行停止、作品は押収。1967年5月に公開質問状を送付し当局による検閲廃止を訴えるが1969年10月に作家同盟から追放される。1970年にノーベル文学賞を受賞するが授賞式は欠席した。
一方で1973年3月にはロシア正教会の体質を批判する公開質問状を送付した。
1973年暮れにパリで『収容所群島』が出版されるとソ連当局から激しく批判され、ソ連マスコミも彼を痛烈に非難攻撃をした。1974年2月に逮捕、西ドイツに国外追放された。
その後国外追放の身であってもロシアの再生を提言し続けた。
1985年3月、ゴルバチョフがブレジネフ政権以来の路線転換を発表。1990年8月に大統領令によってソルジェニーツィンのソ連での市民権が回復した。9月のソ連最高会議でゴルバチョフ大統領が『甦れわがロシアよ~私なりの改革への提言』を絶賛した。
1994年5月、ロシア連邦に帰国。ロシア各地を視察し、急激な経済政策を推進したエリツィンを批判するがその後プーチン大統領と会見し、プーチンを絶賛した。
2008年8月モスクワの自宅にて死去。89歳没。
信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時、神の基準に立って幾多の人生の試練に神の信仰によって立ち向かった。彼はノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞と言われるテンプルトン賞の受賞が嬉しかったという。

時代背景

ロシア帝国の崩壊
1617年 ロマノフ王朝が開基 1812年 フランス革命に際して対仏大同盟に参加
1814年 ロシア遠征のナポレオン一世を撃退
1861年 農奴解放令
1881年 アレクサンドル2世暗殺 3世は無政府主義運動を徹底的に弾圧 一つ前、シベリア鉄道の敷設、中央アジア、極東への南下政策を展開
1904年 日露戦争
1905年 ロシア第一革命 日露戦争に敗北
1914年 第一次世界大戦
1917年 2月革命 ロマノフ王朝が終焉 10月革命 世界初の社会主義国家ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を宣言
1918~21年 ロシア内戦

ソビエト連邦
1922年 ソビエト連邦が結成 その後スターリンによる恐怖の独裁政治が約30年続く
反対派を徹底的に排除 一国社会主義路線を確立
1928年 第一次5ケ年計画に着手 工業化と農業の集団化を推進
1932~33年 無理な農業集団化による大飢饉 500~1000万人の餓死者
1936年 ソビエト社会主義共和国連邦憲法(スターリン憲法)を制定
1936~38年をピーク 大粛清を強行 2000万人を殺害
1939年 ドイツによるポーランド侵攻 第二次世界大戦へ
1941年 大祖国戦争(独ソ戦争)連合国として大戦へ参戦 ドイツに勝利するが多大な死者に
1945年8月8日 不可侵条約を一方的に破棄して日本に侵攻
第二次世界大戦後 冷戦の時代に突入

運営

桂冠塾プロジェクト
東京都練馬区東大泉5-1-7
毎月1回
オンライン開催