桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第88回】

『輝ける闇』(開高健)

開催日時 2012年8月18日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 和室(小)
西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

この作品は一人称で書きすすめられていきます。 主人公の「私」は、ベトナム戦争の取材のためアメリカ軍の部隊に従軍します。 部隊での日常生活を取材していた主人公は、ある日サイゴンでのクーデターの噂を聞き、自身の身の安全のためにサイゴンに戻って戦場の情報を収集したり日本人記者の仲間や愛人の素蛾(トーガ)と交遊しながら過ごしていきます。
しかし戦場へ赴く人達との出会いを通して「私」は再び戦場の最前線へ取材に行くことを決意します。
そして再びの戦場で彼が遭遇したものは...。
開高健氏が逝去して既に22年半余り。人によっては一時代前の作品と言われることもある作品。
そして現代は「戦争を知らない世代」が社会の重責を担う時代となりました。
戦場を体験したことがない世代の私たちが、日本ではない国で繰り広げられたベトナム戦争に従軍した作品から何が得られるのか。
敗戦から67年が過ぎた熱い夏に、人間として生きることを見つめる一冊として皆で読んでみたいと思います。

『輝ける闇』が問いかけるもの

本書を含む「闇三部作」は開高健氏の代表作として有名です。
舞台はベトナム戦争。開高氏自身が従軍記者として体験した事実を元に書かれた作品です。

開高健氏の作家としての活動は大きく3期に分けられるように思う。

第1期は寿屋に勤務しながら『裸の王様』で芥川賞を受賞するなど初期の段階。
第2期は朝日新聞社の臨時特派員としてベトナム戦争を体験し、『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の「闇三部作」を執筆した時期。
第3期は釣り紀行や食文化を綴ったエッセーにシフトした時期。

もちろんその間で作風が断絶しているというわけではないが、読み手としての印象としては大きく違っているように感じる。

『輝ける闇』を読むと開高氏の作家として抜きん出た筆力の高さを実感する。
一人の人間の内面の描写。人は自分自身のことでありながら自分の気持ちを的確に言い表すことが難しい。何を感じているのか、明確につかめていないことも多々あるのではないだろうか。
その不確かを含めて、ありのままに文字として残していく力が開高健氏にはあるのだと思う。
その比喩的な表現は、思いそのものを表現することの困難さを含めて、実態そのものとして読者に迫ってくるのだ。
開高健氏が一部の読者に強烈に支持されるゆえんの一つがここにあるのではないだろうか。

繰り返しになるが、この作品はベトナム戦争を舞台に描かれている。
その意味では、今一度戦争の意味を問い直す機会ともなった。
ベトナム戦争はアメリカが経験した最大の敗戦である。
枯れ葉剤作戦など非人道的戦闘の代償はいまだ償いきれていない。
従軍したアメリカ人、戦場となったベトナムの庶民双方に大きな傷を残したまま歴史が過ぎ去ろうとしている。

『輝ける闇』はベトナム戦争そのものを題材にしているわけではないので多くは触れないでおくが、私達は戦争が演じてきた歴史的役割<功罪>を、どこかの時点で真正面から考える必要があると思う。
主人公「私」は、南ベトナム政府軍(アメリカ側・いわゆる南軍)に従軍する作家の肩書を持つジャーナリスト。ウェイン大尉の部隊に帯同しているが革命軍側のクーデター情報を得ていったんサイゴン市内に戻り、そこから記事を書いて日本に送信する生活を続ける。 サイゴンでの生活は怠惰だ。 同じような状況で記事を書いている日本新聞の山田氏と場末の酒場や屋台で大しておいしくもない食事と酒を食らう毎日。行きつけの酒場の素蛾(トーガ)を情婦にして、けだるい暑さと怠惰な時間の日々の中に、愛欲の生活も享受している。
元々どんな思いでベトナムに来たのだろうか。
どのように弁解しても自己弁護しようのない自堕落の毎日。
そんな折り、続けて小さな出来事が起こる。
新任の日本人記者が赴任する。かつての自分を邂逅する「私」。
第2次世界大戦を経験している「私」は、戦時下の経験と思いを回想する。
いま自分はどうして生きているのか、どんな思いで生きてきたのかを思い出そうとしていたのだろうか。
そして20歳と18歳のベトナム青年が解放軍の一味として公開処刑が実行される。
先に行われた20歳の青年の処刑を見物した「私」は、人間としての恐れ、はきけ、身震いを感じる。人間としての在り方さえ模索するかに思えた「私」だが、翌日の18歳の青年の処刑には既に慣れが生じていた。
人間の精神の不確かさ、軽薄さを痛感するシーンだ。強烈な精神的ダメージから自分を守るために無感覚になろうとする防衛本能が人間にはあるのかもしれない。

この出来事を通して「私」は戦闘の前線での従軍取材に戻っていく。
そしてその最前線で「私」の従軍した200人の部隊は、解放軍ゲリラの掃討作戦に遭遇する。
部隊200人のうち生きて生還した者は、私を含めてわずか18人。

この作品はベトナム戦争が舞台であるが、その主題は戦争そのものではない。
戦争という極限状態に遭遇したことによって突きつけられた人間としての尊厳、生きることへの問題提起である。
それゆえに時代を超えて、現代を生きる私達に問いかけてくる「何か」があるように思えてならない。

私を含めて、現代を生きる人々の大半は「戦争を知らない僕達」である。
しかし世界の各地では紛争が続いている。
激しい紛争地帯の一つであるシリアで日本時間20日夜には、ジャパンプレス所属の山本美香さんが銃撃戦に巻き込まれて死亡した事件も発生した。
ジャーナリストとして従軍取材中であったことは開高氏の体験とも通じる状況もある。
どのような思いで従軍取材を続け、死に遭遇していったのか。
その生き様に思いをはせながら、自分自身の目下の課題に全力で立ち向かいたいと思う。
日々の生活の課題に直面している私達が、戦場に赴く必要はないだろう。
私たち自身の生活そのものが戦場であると思うからだ。

ベトナム戦争

ベトナム戦争(ベトナムせんそう、英語: Vietnam War、ベトナム語: Chiến tranh Việt Nam、漢字:戰爭越南 )は、インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争である。 ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争の延長上にあるため第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争で開戦時期は諸説ある。南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。 アメリカを盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」であった。ホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、ベトナム共和国(南ベトナム)をアメリカ合衆国の傀儡国家と規定し、ベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。 第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南ベトナムで反政府活動を続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣した。ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させた。リンドン・ジョンソン大統領は大規模なアメリカ軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。 アメリカの他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。ソビエト連邦や中華人民共和国は北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。さらにソビエト連邦は西側諸国で行われた反戦運動に様々な形での支援を行っていた。北朝鮮は飛行大隊を派遣しハノイの防空を支援した。 ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦活動が発生し社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム・ベトコンと南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。

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