桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第89回】

『空白の天気図』(柳田邦男)

開催日時 2012年9月23日(土) 14:00~17:00
会場 西武池袋線 石神井公園駅・徒歩1分  石神井公園区民交流センター 和室(2)

開催。諸々コメント。

昭和20年9月17日。 第二次世界大戦の敗北に沈む日本列島を大型台風が襲った。死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人を記録した「枕崎台風」である。
しかしその被害の詳細が日本人の記憶として語り継がれているとは言い難い。全被害者のうち半数をはるかに超える2000人余りの死者行方不明者が広島県下であったことは余り知られていない。台風が直接上陸した九州地方よりもはるかに大きな被害者が出た。
原爆投下から1ケ月余りの広島で何が起こっていたのか。その時、気象台員は、そして広島にいた人達たちはどのように行動したのか。
昭和20年終戦前後の広島で起きた2つの災害を生き抜いた人達の実態を、証言を収集する気象台員達の姿を、また原爆被害者の救援に駆け付けながらも自然災害に飲みこまれていった人達の姿を通して描き出した作品です。

本書発刊の経緯

昭和20年9月17日。 終戦直後の日本列島を襲った枕崎台風は、各地に甚大な被害をもたらしました。被害者6208人(死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人)を記録した「枕崎台風」です。
その中でも広島県下における被害者は3066人(死者行方不明者2012人、負傷者1054人)と群を抜いており、台風が上陸した九州地方よりも甚大な被害者となりました。
昭和30年代にNHK取材記者として広島に滞在した柳田氏はこの被害者分布に興味を持ち、その1ケ月前に起きた人類史上初の原子爆弾投下による被害との因果関係があるのではないかと直感した自身の気持ちをモチーフとして温め続け、作品として昭和50年(1975年)9月に本書を発刊しました。

技術者・科学者としての視点でアプローチ

題名から推察できるように、本書は気象業務という側面からのアプローチになっている。
中央気象台の指令を受けた広島気象台の北勲氏を中心とした台員たちが、聞き取り調査を行って報告書としてまとめていく経過が作品の時間軸になっている。

彼らが行った聞き取り調査は大きく2つに分けられる。
ひとつは昭和20年9月17日の枕崎台風の実態と被害状況。
もうひとつは昭和20年8月6日の原子爆弾投下の実態と被害状況である。

気象業務という視点から技術者、科学者としての姿勢を貫き、予断なく丁寧に根気強く調査を行っていく様子には感動を覚える。調査を行っている彼ら自身も原爆被害者であることを思えばなおさらである。
気象データは欠測してならないとの観測精神。
その愚直なまでの姿勢と努力が、後年、終戦前後の気象データの空白をわずかでも埋めた貴重な貢献があったに違いない。そうした精神が「黒い雨」の情報収集にも活かされ、原爆被害者の救済に活かされていった。

目的を見失った方策の行きつく先

作品執筆の当時、この枕崎台風の被害はあまり知らされていなかった。
(あえて言えば現代においても知られていない。)
戦後の混乱期とはいえ、敗戦という現実の前に政治というものはあまりにも無責任ではなかったか。当時を生きていない私達は本来であればそうは言えないかもしれないが、完全に仕事を放棄してしまった政府に対して、愚直に業務を遂行していった気象台員がいた事実を知れば、やはり無責任と言わざるを得ないだろう。
しかし私達は当時の政治を責めるだけでは意味をなさないと思う。
敗戦、無条件降伏という事実の前に自らの仕事を放棄してしまったその原因はどこにあるのだろうか。それを思索することが歴史の教訓を生かすことになる。
私は、政治哲学、理念思想の不在が真の原因だと断じたい。
言いかえれば、政治の真の目的は何なのかが不明瞭だった、もしくは目的を間違えていたと思う。
本来の政治とは、そこで生きる人々がもれなく幸せに生きることに貢献するためにあるはずだ。
ただし、その人民の幸福、庶民の幸福というのは、目に見えない。
そのような事情から、幸福の実現のために必要なものは何かという具体的な実施施策を立案して、その個々の政策を遂行する形をとっていく。いわゆる必要条件を満たすために政治は様々な施策を講じていくのである。
当時の軍部政府は戦争遂行とその結果としての領土拡大をその施策として掲げたのだろう。その施策の妥当性の問題も当然あるがそれはとりあえずおいておくとしても、その政策遂行の途上で、その政策は何のためにやっているのかという根本的な目的を忘れていったのではないか。
その具体的な施策が敗戦という形でとん挫した時(適切な政策でなかったためにとん挫したのは当然の帰結でもある)、真の目的に立ち返って次なる間断なく施策を実行するべきであった。しかし、真の目的を忘れてしまった指導者、施策遂行者達は自身の使命を忘れてしまい、自己の目先の利益に走ってしまったのではないだろうか。

この現象は、現代の社会にも当てはまる。
というよりもその傾向はより顕著になってきているように感じる。
本来の目的を忘れた、もしくは間違った目的を基準にした、テクニカルな政策議論がいかに多いことか。
これでは、アインシュタインやノーベルの嘆きすらも教訓にできていないのではないか。

広島原爆投下と枕崎台風被害に真の因果関係はあるのか

作品に話を戻す。
作者である柳田邦男氏は枕崎台風による広島県下での甚大な被害の底流には8月6日の広島原爆投下の被害があるという仮説のもとに、本書の執筆をすすめた。それは「序章 死者二千人の謎」の最終段に以下のように記述していることからも明白である。

枕崎台風の「調査報告書」の活字の向う側にある生きた実相--この災害の中で生き、災害の中で死んでいった人々の姿は、今日に語り継がれるべき大きな悲劇、人間の記録なのだ。昭和二十年九月十七日の問題は、昭和二十年八月六日の問題と切っても切れない関係にあるのである。いよいよ本題に入らなければならない--。

かなり肩に力の入った気負いを感じる文章だが、柳田氏はこのテーマに対して本書の中で何らかの結論を出すことができたのだろうか。結論ではなくとも暗示でもよいと思うが、どうだろうか。
本書を読了した人は感じるに違いない。
柳田氏はこのテーマに迫ることができなかった。
見聞きした事実を列挙する作業の中で当初の主題を失念してしまったのだろうか。
重ねて言えば、この仮説は必ずしも正しくなかったのではないかと感じる要素がところどころに散在している。
昭和20年に起きた2つの歴史的事故。接近した時間軸。広島という同じ空間。
これだけの条件がそろっていればだれでも直感的に2つの事故に因果関係があるのではないかと仮定するのは当然だと思う。だからこそ、そこに真の因果関係があるのか、みせかけの因果関係なのか、それとも別に存在する真の因果関係から波及した個々の結果としての事故なのか。その点を明確にすることは大切なことである。

この答えは本書内にある。
これはノンフィクションという本書の性格による副産物とも言えるが、柳田氏が次々と列挙してしていく気象台員による聞き取り調査や、後年北勲氏が行った二次情報の収集の過程で集められた個々の情報の積み重ねの中から見えてくる。

一例を指摘しておくと、枕崎台風の広島県下における被害のうち、水害による被害がかなりの部分を占める。この水害被害の多くが呉市で発生していることが、『昭和20年9月17日における呉市の水害について』という報告書によって裏付けられている。
柳田氏はこの報告書にまつわる功績について、広島気象台以外の気象台においても欠測なく観測を続けた気象台員の存在と、後年歴史を残そうとして報告書を作成した坂田静雄氏の尽力を称賛しているが、奇しくもこの事実を本作品に収録したことによって、柳田氏の「昭和二十年九月十七日の問題は、昭和二十年八月六日の問題と切っても切れない関係にある」との仮説は、揺らぎを見せている。
いうまでもなく、呉市は爆心地ではない。
その呉市で水害によって1154人が生命を落とした。
広島県下の死者行方不明者2012人のうちの半数以上が呉市の被害者であったことは本文中でも柳田氏自身が記述している。
原爆被害との因果関係が濃くない呉市の被害が広島県下の被害者数を一気に押し上げている事実を、柳田氏はどう考えているのだろうか。

枕崎台風における被害拡大の真の要因とは

では枕崎台風における被害が広島県下に集中した真の原因は何だったのか。
原爆投下の被害が大きな要因のひとつであったことは事実であったとも思われるが、主たる要因は別にあったのだろう。
それは本書のところどころで散見することができる。
いわく、戦闘機の燃料とするために松の根っこを掘り起こしたこと、民間を含む燃料のために山林を伐採したこと、軍用道路や防空壕をあちこちに掘っていたことが指摘されている。作品中でも同じ地域内であっても「松根を掘ったところに山崩れが多いんじゃ」との証言も紹介されている。
呉市が海軍の主要拠点であったことを考えれば軍用道路や松根の伐採が他地域よりも多かったのではないかとも思われ、丘陵地に軍事施設が建設もされており、他の地域よりも土地に無理な歪みが多かったとも考えられる。

加えて九州等と比べて緩やかな丘陵地であった中国地方は、河川もゆるやかで三角州地帯も多い。加えて中国地方から北九州にかけての一帯の地層は花崗岩で形成されている。花崗岩は風化しやすく、大量の水が出た場合は比較的流されやすい性質を持っており、災害の直撃に弱い地域と言える。
花崗岩地質については本作品中でも証言の中で指摘されている。
※花崗岩地帯には真砂が広く分布し、強い降雨により多量の砂が流れ出すため、花崗岩地帯の多くが砂防地域として指定されている。

本書内で列挙された情報を淡々と見ていくと、こうした要因が主たる原因となって枕崎台風の広島県下における甚大な被害となったと考えるほうが妥当ではないかと私は思う。
別の視点で言えば、日本国における無謀な戦争遂行という国策によって、一方では原爆投下という悲劇を呼びこんでしまい、また一方では松根掘りや山林伐採という無益な行動の強制によって国土がやせ細り大きな水害被害を引き起こしてしまった...。
これが昭和20年広島における2つの大きな事故の真相ではないだろうか。

真の要因を見失ってしまう危険性

その意味では、本書における柳田氏の執筆は中途半端と言わざるを得ないだろう。
作者として作品の冒頭で明確にテーマを提示し、読者に期待を持たせて読み進めさせている以上、そのテーマに対しては何らかの結論なり考察なりを記述する責任があるのではないかと感じている。

今回、本書執筆の直接的資料となったと思われる『広島原爆戦災誌』を地元図書館で借りてきた。本文中にも記載されているように「第五巻資料編」に北勲氏達による報告書の全文が写真製版で収録されている。
よくぞここまでの調査をされたものだと敬服した。

前段で作品冒頭で柳田氏が掲げた2つの事故の因果関係について柳田氏自身が考察をしていない点を指摘した。このことによって「枕崎台風の被害が増大したのは原爆投下のせいだ」と思い込んでしまう読者も多いはずだ。
いいかえれば、被害拡大の真の要因は、日本国政府が戦争を開始し続けてきたことにあるのか、アメリカによる原爆投下にあるのかという問題にもなる。
これは極めて重要な問題提起である。
柳田氏のような文章構成で終えてしまうと、日本軍部政府の戦争責任は浮上せず、「原子爆弾が悪いのだ」という論調のみに終始することになる。
枕崎台風による広島県下での被害拡大。
その原因は、日本国政府による無謀な戦争遂行にこそあったのだと指摘しておきたい。

木ばかり見ていると森が歪んで見える

実は今回、この作品を取り上げるにあたって危惧した点はここにある。
この作品は当初、単行本として昭和50年9月に新潮社から出版されたのち昭和56年7月に新潮社文庫から文庫版が発刊されている。私が初めてこの本を読んだのは、文庫版の初版本である。その後、桂冠塾のテーマに取り上げたいと数年前に確認したところ絶版となっており書店での入手ができずにいた。
その作品が昨年2011年(平成23年)9月に文春文庫から復刻出版された。
書店で入手できるようになったので桂冠塾でも取り上げることができたのであるが、元の装丁と異なる点が大きく2ケ所ある。
ひとつはカバーの表題前に「核と災害1945・8.6/9.17」のサブタイトルが追加されていること、もうひとつは文庫版用のあとがきが追加されていることである。
サブタイトルには「うん?」と感じ、さらに「文春文庫版へのあとがき」という柳田氏の文章を読んで、明らかな違和感を感じざるをえなかった。
柳田氏は「六十六年後の大震災・原発事故に直面して」と題してこのあとがきを書いていることからもわかるように、3.11東日本大震災、そしてその渦中で発生した福島第一原子力発電所の事故に関連付けて、本作品を核の脅威と自然災害のモデルとして位置づけようとしているのだ。

原発問題を取り上げるのもよい。
原子力爆弾の非人道性を追求するのもよい。
自然災害の怖さを訴えるのもよいだろう。
しかし、本作品はそのテーマを訴求するためにはふさわしくない作品だと指摘しておきたい。
そんなところに枕崎台風被害の真の原因はないのだと。

人間は誰しも、既成概念や先入観を持って事物事柄をみるとフィルターがかかった色、形でしか見えないものだ。そんな、ある意味で、よくよくわかっていると思っていることを、つくづくと感じさせられる作品でもある。
あまりにも献身的な行動を続けた気象台員、広島の人々の行動にふれて、柳田氏も感激、感動し続けていたのだろうか。思い入れが強いと、冷静な判断ができなくなるのが人間でもある。それはそれで、必要なことでもあるのだが...。

これからのノンフィクション作品分野に期待

柳田氏の作品に触れると共通して感じることであるが、事実を圧倒的な臨場感を持って淡々と描き出す文筆力の高さと共に、その事実から結論を導き出そうとする際の論理的な展開の未成熟さが混在しているように思われてならない。
ノンフィクション作品の分野はまだまだ未成熟の未知の魅力を孕んでいる。
読者の一人として、これからも前人の作品を凌駕する魅力ある秀作が続々と発表されることを期待したいと思います。

作品の章立て

序章 死者二千人の謎
1.昭和20年9月17日 枕崎測候所
2.昭和20年9月17日 中央気象台 原爆投下の影響の調査
3.昭和16年 気象業務が軍部の支配下に
4.昭和20年8月15日 終戦
8月22日 天気予報の再開・台風を見落とす
5.枕崎台風 九州に接近
第一章 閃光
1.昭和20年7月までの広島地方気象台 北勲技師
2.昭和20年8月6日 原爆投下の日
3.北勲の半生
4.昭和20年8月6日 台員・中央への打電を試みるため被爆市街へ
第二章 欠測ナシ
1.昭和20年8月7日 被爆台員の経過 北勲・中央への打電に向かう 被爆地の状況
2.昭和20年8月8日~14日 台員に広がる被爆
3.昭和20年8月15日終戦~24日
4.台員の被爆状況
5.9月2日~ 広島気象台の再建
第三章 昭和二十年九月十七日
1.9月17日 台風が接近・雨足が強く
2.台風 九州に上陸
3.9月17日夜 広島気象台
4.広島市内の人々
5.9月18日 台風一過
第四章 京都大学研究班の遭難
1.原爆と枕崎台風の被害調査 始まる
2.大野浦・宮嶋の水害 大野陸軍病院
3.京都大学研究班の遭難
4.宇田と北 海岸沿いを調査 帰路
第五章 黒い雨
1.枕崎台風調査をまとめる 津村・挨拶に
2.原爆被害調査の取りまとめ進む 黒い雨の降雨範囲を実査する
3.原爆被害調査 データ解析と報告文の作成
4.原爆被害調査 台員への報告会
12月 宇田・長崎へ転勤
『気象関係の広島原子爆弾被害調査報告』中央気象台へ送付
昭和22年3月 藤原・中央気象台長を辞職
昭和22年12月 北勲・自費で調査報告を印刷 手元に100部が残る
昭和28年3月 『気象関係の広島原子爆弾被害調査報告』刊行
終章  砂時計の記録
1.『広島原爆戦災誌』編纂始まる 北勲・当時の周辺状況を再調査する
呉市の被害 観測を続けた呉測候所
『広島原爆戦災誌』に北の原稿が掲載される
被災した台員のその後
2.黒い雨「特別被爆地域」拡大へ
京都大学遭難者の慰霊祭・記念碑

作者

柳田 邦男(やなぎだ くにお 1936年6月9日 - )
1936年栃木県鹿沼町(現・鹿沼市)生まれ。1960年東京大学経済学部を卒業。同年NHKに入局し、広島放送局へ配属。1963年東京へ戻り、社会部に配属になる。1966年に遊軍記者として「全日空羽田沖墜落事故」「カナダ太平洋航空機墜落事故」「BOAC機空中分解事故」を取材する。1971年にこれらの事故を追ったルポルタージュ「マッハの恐怖」を発表し、第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
1974年NHKを退職し、ノンフィクション作家として活躍。以前は航空評論家として航空機事故が発生した際にNHKの解説委員として出演することも多かった。主に事故、災害など「クライシス・マネジメント」に関する著書の他に、「零戦燃ゆ」などの戦史ノンフィクションも手がける。
1985年8月12日、日本航空123便墜落事故発生当時、NHKでは本人作のドラマ『マリコ』が放送される予定だったが、本人は事故当時自宅に居た。当時ニュースセンター9時のキャスターだった木村太郎からの出演要請により多摩の自宅からタクシーで1時間かけて入局、このドラマを中断して始まった報道特別番組に航空評論家として出演した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析した。
1995年、精神を病んだ次男が自殺する体験を綴った「犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」を発表し、第43回菊池寛賞を受賞する。それ以降、精神論・終末医療などの著作が増え始め、その中で若者や若者文化(ネット・ゲーム・携帯電話)への強い批判を表明し始める。
2005年7月、日本航空「安全アドバイザリーグループ」の座長に就任。2005年環境省「水俣病問題に係る懇談会委員」(-2006年)。2008年毎日新聞社「開かれた新聞」委員会委員。2008年子どもの徳育に関する懇談会委員。
2011年現在司馬遼太郎賞の選考委員を務めている。
2011年5月、政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会のメンバーの一人に選ばれた。

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