開催内容 桂冠塾【第91回】
『マリー・アントワネット』(ツヴァイク)

| 開催日時 | 2012年11月23日(金祝) 14:00~17:00 |
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| 会場 | 勤労福祉会館 和室(小) 西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分 |
開催。諸々コメント。
今回はシュテファン・ツヴァイク作『マリー・アントワネット』を取り上げます。フランス革命の大激動期における最も有名といわれる人物。それがマリー・アントワネットでしょう。 欧州で栄華を極めた名家であるハプスブルク家に生まれたマリー・アントワネット。そして一方の雄であるブルボン家はルイ王朝の絶頂期を過ぎ王権としての疲れが見えはじめていました。
群雄割拠の激しい欧州で、その栄華を続けることは至難の業。長年覇権を争ってきた両家の間でひそかに同盟が画策された。時はマリア・テレサとルイ15世の時代です。
自らの栄華を維持せんとする政治的目論見によって、1766年には計画が始まり、1769年にルイ15世から書面によって11歳の少女に求婚が行われ、翌1770年にわずか14歳のマリー・アントワネットは将来のルイ16世に嫁いでいきます。
それから1793年にギロチン台の露と消えるまで、一国の贅を尽くした豪華絢爛な生活から国家的反逆者としての汚名を着た終焉まで、天国から地獄までを味わいます。
フランス革命の動乱の前半期を生きたマリー・アントワネットを評して、ツヴァイクは本作品に「一平凡人の面影」との副題をつけています。
ツヴァイクの見たマリー・アントワネットとはどのような人物だったのか。
そして彼女の生き様は、現代を生きる私達に何を語りかけてくるのでしょうか。
作品の章立て
はしがき
第一章 結婚させられた子ども
第二章 寝室の秘密
第三章 ヴェルサイユ初舞台
第四章 一語をめぐる争い
第五章 パリの征服
第六章 国王崩御、国王万歳
第七章 王夫妻の図
第八章 ロココの女王
第九章 トリアオノン宮
第十章 新しい仲間
第十一章 兄の来訪
第十二章 母となる
第十三章 王妃人望得御失う
第十四章 ロココ劇場への電撃
第十五章 頸飾り事件
第十六章 裁判と判決
第十七章 国民の覚醒、王妃の覚醒
第十八章 運命の夏
第十九章 友四散す
第二十章 朋友の出現
第二十一章 フェルセンは何者であったか
第二十二章 ヴェルサイユ最後の夜
第二十三章 王政の霊柩車
第二十四章 自省
第二十五章 ミラボー
第二十六章 脱走の準備
第二十七章 ヴァレンヌへの逃走
第二十八章 ヴァレンヌの夜
第二十九章 心ならぬ還幸
第三十章 だまし合い
第三十一章 盟友最後の登場
第三十二章 戦争への逃避
第三十三章 最後の叫び
第三十四章 八月十日
第三十五章 タンプル
第三十六章 マリー・アントワネットただ独りになる
第三十七章 最後の孤独
第三十八章 コンセルジェリー
第三十九章 最後の試み
第四十章 大いなる汚辱
第四十一章 訴訟開始
第四十二章 公判
第四十三章 断頭台
第四十四章 哀歌
あとがき
主な登場人物
マリー・アントワネットルイ16世
マリア・テレサ
フェルセン
ヨーゼフ2世
メルシー
ポリニャック夫人
ラ・モット伯爵夫人
ロアン枢機卿
ミラボー
ラ・ファイエット
エリザベト
ランバール公夫人
著者
シュテファン・ツヴァイク(ツワイク)1881年11月28日 ウィーン - 1942年2月22日 ブラジル・ペトロポリス)
オーストリアのユダヤ系作家・評論家。
ウィーンで富裕なユダヤ系織物工場主モーリッツ・ツヴァイクと、妻イダとの間に生まれた。ウィーン大学で哲学と文学史を学び、1904年に哲学博士号を取得。世紀末ウィーンの優れた文化的環境のもとで、ギムナジウム時代から文学、芸術に親しむ。ホーフマンスタールの流れを汲む新ロマン主義派風の叙情詩人として詩集『銀の弦』で文壇にデビュー。当時の前衛運動である青年ウィーン運動に関与した。
第一次世界大戦開戦当初は愛国心に動かされ、オーストリアの戦時文書課で軍務につくが、次第に戦争への疑問を深める。反戦劇『エレミヤ』の初演を機に中立国スイスのチューリッヒに渡る。その後『ウィーン新自由新聞』の特派員として記事を送ることを条件にスイスに留まり、ロマン・ロランらともに反戦平和と戦後の和解に向けた活動に従事する。
第一次大戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルク・カプチーナベルクのパッシンガー城に滞在。1920年にフリデリケ・フォン・ヴィンターニッツと結婚。以降広く知識人と交わり始め、ヨーロッパの精神的独立のために尽力した。この期間に多くの代表作が書かれた。
1928年ソヴィエト連邦を旅行してマクシム・ゴーリキーと交際。1930年アメリカに旅行し、亡命中のアルベルト・アインシュタインに面会して 『精神による治療』を献呈。1933年ヒトラーのドイツ帝国首相就任の前後から反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いで捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。
その後英国(バースとロンドン)に滞在、1940年に米国へ。1941年にブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に二番目の妻ロッテとバルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し、自分達のいるブラジルとヨーロッパとアジアの現実のギャップに耐え切れなかったと言われている。
遺著となった『昨日の世界』は著者が失われたものと考えたヨーロッパ文明への賛歌でもあり、今日でも20世紀の証言としても読まれている。
作曲家のリヒャルト・シュトラウスが、ナチ政権下で自身の作品歌劇『無口な女』で、台本作家ツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦ったことは良く知られている。このためヒトラーは予この歌劇の初演への出席を取りやめ、この歌劇は3回で上演禁止とされた。
近年、アメリカ海軍が新型駆逐艦に彼の名を付けようとしたことでツヴァイクが絶望したという説が出ている。トーマス・マンの抗議により米海軍は取りやめを命令したという。
ツヴァイクは長編小説と短編、多数の伝記文学を著した。歴史小説の評価が高く、『マリー・アントワネット』や『メアリー・スチュアート』が有名である。英国で対独感情の悪化している一時期には、その小説が「"Stephen Branch"(ツヴァイクの本名の英訳)」という仮名で刊行された事もある。

