桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第97回】

『職業としての政治』(マックス・ウェーバー)

開催日時 2013年5月18日(土) 14:00~17:00
会場 勤労福祉会館 和室(小)
西武池袋線大泉学園駅・徒歩3分

開催。諸々コメント。

多くの方が学生時代に一度は耳にした社会学者の一人がマックス・ヴェーバーではないかと思います。従前は経済学の一部のように扱われていた学問分野を、独立した社会学としての立場を確立した世界的な社会学者といってよいと思います。
マックス・ヴェーバーの代表作として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があることからもわかるように、ヴェーバーの社会的考察の視点は、近代文明の発展の軌跡を人間の信仰観と合理性追求の関係性から解明しようとした側面があります。

そうした視点の展開の中で行なわれた講演として「職業としての学問」「職業としての政治」を位置づけることができると思います。

本書は1919年1月、ミュンヘンの自由学生同盟の学生達のために行なった公開講演の記録です。
時代は第1次世界大戦にドイツが敗戦した直後。愛国者でもあったヴェーバーは敗戦によって個人的な衝撃も受けていましたが、それにもまして心を痛めていたのは、この敗戦を「神の審判」のごとく受取り、自虐的な敗者の負い目を感じつつ、いつか訪れるであろう「至福千年」の理想に心酔しようとしている一部の知識人達の言動であったと言われています。
しかも、そうした知識人の多くがヴェーバーの親しい先輩、友人、教え子達であったため、彼らの考えを糺して現在の社会状況の本質を語ろうという意図があったと推察することができます。
当時のドイツの知識人が思っていた思想は次のようなものだったといいます。

”敗戦を喫したドイツ国民の我々は理想を実現する民であり、それを滅ぼした敵国は悪の枢軸であり世界は悪に染まっている。だから我々は必ず神の力によって世界を改変して千年王国を築くことができる。”

戦争と敗戦の本質は、果たしてそのようなものだったのでしょうか。
ヴェーバーは、政治の本質的属性が権力であり、国家相互の間であれ国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治であると定義して自説を展開します。
当時の政治の現状を分析しつつ、講演の後半では政治と個人的倫理についての考察へとテーマが推移していきます。
文脈に沿ってみていきたいと思います。

政治とは、政治家とは何か

冒頭から政治に関する様々な概念に対してのウェーバーの私論が次々と展開されていきます。
まず政治についてのウェーバーの定義が述べられます。

政治とは、国家の指導またはその指導に影響を与えようとする行為である。
国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である。すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。
政治とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。

そして政治を行なう者は必ず権力を求める。その理由として
①別の目的を実現するための手段とするため
②権力自体がもたらす優越感を満喫するため
という2点を指摘しています。
政治家の清き思いが、権力の魔性によって悪しき方向へ変質することは必然であるともとれる指摘です。1点目は個々の目的を精査して対処することが求められますが、2点目についてはいかようにしてでも克服するしかありませんが、権力の誘惑に溺れる政治家がいかに多いかは多くの庶民が実際に目の当たりにしているとおりです。

次に、国家と人間との関係を論じます。
政治がその影響力を行使する国家とは、暴力行使に支えられた、人間の人間に対する支配関係であり、その支配関係は正当であるとし、この支配関係の正当性の根拠として
第一「伝統的支配」
第二「カリスマ的支配」
第三「合法的支配」
の3点が挙げられています。

ウェーバーはその中でも「カリスマ的支配」について論及していきます。
指導者個人に対する信仰ゆえに服従する形態を「カリスマ的支配」と呼び、その形態として
①呪術者と預言者
②選挙武候、一味の首領、傭兵隊長、民衆政治家(デマゴーグ)と政党指導者
があると指摘しています。
近代以降における政治家の選出は選挙によって行われるわけですが、選挙のたび毎に政治家の虚言に右往左往させられている有権者の姿は、ウェーバーの指摘するカリスマ的支配そのものとも思えます。

そして政治家は、自己の支配権を主張し支配関係を継続させるために外的な手段(補助手段)を用いる点を指摘します。
政治家が継続的な行政を行なうために必要な手段として
①人的な行政スタッフ
②物的な行政手段
この2点を挙げます。現在の政治家の姿もまったくこのとおりですね。現在の日本においてはこの2点を揃えるための原資として政党助成金などの形態で税金を投入することも行なっています。

国家秩序の分類

次にウェーバーは、政治を行う舞台である「国家」について論じます。
国家は成立の過程から
①人的行政スタッフが行政手段を自分で所有する形態(身分制的に編成された団体)
②行政スタッフが行政手段から切り離されている形態(君主の直轄支配)
この2つに分類します。
現在でもドイツのような連邦制国家は①であり、日本などは②の形態と言えるでしょう。
この②の形態は「官僚制的国家秩序」に変化し、近代国家の発展と共に広まっていったと見ることができます。

国家の実務を掌握する官僚は、君主と比類する他の私的な担い手に対する収奪が用意されるにつれてその権力の範疇は広がりかつ活発化していきます。
ここで用いられている「私的な担い手」とは、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の政治的に利用できるあらゆる種類の物材を、自分の権利として所有している者と指しており、それぞれに独立している国家君主とみてよいと思います。すなわち、国家として行使できる権力を、他者から独立した形で所有するのが国家そのものであると言い換えてよいでしょう。
そうした官僚国家の発展は、資本制経営が発展してくる過程と完全に併行しており、政治運営の全手段を動かす力は事実上単一の頂点に集まる。つまり一人の国家指導者に権力が」集中するという指摘です。
そうした官僚国家においては、行政スタッフと物的行政手段の分離が完全に貫かれている。現在の国家体制は原則においてその通りの姿になっているのではないかと思います。

新しい発展型国家と第二の「職業政治家」

そしてこの講演が行われた直前の1918年ドイツ革命を、国家という収奪者から政治手段と政治権力を収奪しようという動きであったと定義し、簒奪や選挙で政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を入手した根拠を被治者の意思に求めたと位置付けます。
このことを通して、近代国家とは、ある領域内で支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタイト的な支配団体であると定義します。
そして、その独占の目的達成のために物的運営手段は国家の指導者の手に集められ、その頂点に国家が位置すると見ました。
そうした新しい形の国家においては、政治支配者に奉仕する、第二の意味での「職業政治家」が現れます。

その政治家は、君主の政策を行うことで物質的な生計を立て精神的な内実を得ます。
君主の最も重要な権力機関であり、政治的収奪の機関となっていきます。

職業政治家の存在の意味

政治家には大きく3つの分類があるとして
①臨時の政治家
②副業的な政治家
③本職の政治家
を挙げます。
①臨時の政治家とは、現代でいえば選挙活動や自治活動に取り組む一般庶民のことであって、いわゆる政治家とは一線を画します。
②の類型は、現代においては財界活動や地域の自治会で役職について活動している方達がこれに相当するでしょう。多くの場合は無報酬もしくはわずかな謝礼程度です。
③本職の政治家が、現代における政治家に相当すると考えてよいと思います。
本職であるので報酬も受け取ります。 国民生活が多様化していくにつれて、国家君主も、自由な政治団体である国家そのものも、本職の職業政治家を必要としていきます。 ここでいう自由とは、伝統的な君主権力支配を受けていない国家体制であることを指していて、暴力的な支配を伴わないということではありません。ざっくり言えば前者は王政国家であり、後者は国民主権国家などがその一例です。

政治のために生きるのか、政治によって生きるのか

政治を職業とする「本職の職業政治家」は
①“政治のために生きる”人達と、
②政治によって恒常的な収入を得ている“政治によって生きる”人達に
分類される。
この違いは天地雲泥ほどの大きな差があるわけだが、現実にはこの2者をいとも簡単に行ったり来りもしてしまう。

ウェーバーは対比する類型制度として論じているが、この点については少し違和感がある。
ウェーバーは、国家や政党の指導が「政治のために生きる」人達によって行われれば、人的補充は金権的になると指摘。つまり人事権が政治家の特権のひとつとなり、恣意的政治になる危険と賄賂が横行する温床になる。それを防ぐためには金権的でない方法で政治的スタッフや官僚が任命されることが必要であり、そのためには権力を握る政治家の意向に関わらず、政治の仕事に携わる人達が定期的かつ確実な収入が得られることが必要となると指摘している。

つまりこの論点からさらに論を進めれば、「政治のために生きるのか、政治によって生きるのか」という二者択一の問題ではなく、「政治によって収入を得ながら、政治のために生きる」職業政治家が求められていると考えるのが適切ではないかと思うのである。

職業政治家による政治形態

このあと、職業政治家を輩出する土壌、機関の有無を考察したのち、官僚と政治家、マシーン(政治指導者のために機能する政党組織)を伴う一人の政治家を中核とする政治形態と、カリスマ性を有する指導者個人に依存しない派閥政治等の集団としての政治について、論点が提示されていきます。
その一つの結論として、直接選挙による指導者の選出(大統領制)か、議会による指導者選出なのか、その選出方法にも言及しており、現在の選挙と政治体制の在り方を考えさせられる論点が提示されています。

指導者としての政治家に求められる資質と政治倫理

ウェーバーは求められる政治家の資質として
①情熱
②責任感
③判断力
の3点を挙げ、この3点のバランスが重要であると論じます。いかに情熱があっても事物に対して距離を置いて見ることができない政治家は大罪を犯していると断言します。

そして、政治行為の最終結果は往々にして当初の意図と大きく食い違い、正反対の結果になる現実を指摘。さらに、政治家が求める「あるべき姿」がどうあるべきは信仰の問題であると断じます。

最後のテーマ-仕事としての政治のエートス-

ここからウェーバーは、いよいよ本講演の核心である「政治と倫理」のテーマに踏み込んでいきます。
ウェーバーは端的に「政治が人間の倫理的生活の中でどのように使命を果たすのか」という視点で論じていきます。現代に生きる私達にとっても大いに関心がそそられるテーマです。

真の道義的行動は「倫理」でなく「品位」によって可能

ウェーバーは一例として恋愛での例を挙げながら、戦争後のそれぞれの立場において自己弁護や正当化のためにしばしば「倫理」が独善の手段として用いられてきた事実を指摘。真の道義的行動は、倫理ではなく品位によって可能となると述べています。
さらに山上の垂訓に象徴されるキリスト教的倫理観が現実社会では何ら行動規範とならないばかりか、現実には正反対の行動をとることが多くの人達から求められていると論じます。山上の垂訓の通りに行動するならば、戦争を仕掛けられ領土を焼かれたとしても、抵抗は許されず、かつまだ侵犯されていない残りの領土を自ら差し出すことになってしまう。国家と国民の守るべき政治家に、そうした行動は当然ながら許されるはずはありません。

心情倫理と責任倫理

さらに倫理的行動は、相反する2つの要素がある。キリスト者は正しき行動を行ない結果は神にゆだねるという「心情倫理」と、予測しうる結果には責任を負うべきであるという「責任倫理」によって構成されているという矛盾である。
加えて倫理を行動規範とすれば、善き目的を徹底して達成するためには危険な手段も用いることになる。またそれがどこまで正当化されるのかの基準も不明瞭である。事実、歴史の中で多くの逸脱した事例をみつけることができてしまう。
悪からは悪が生まれ、善は善からのみ生まれるという非現実的な教説がまことしやかに流布される。

政治は暴力に潜む悪魔との戦い

こうした矛盾が宗教発展の原動力であったとウェーバーは論じている。
様々な宗教倫理が「人間は生活秩序の中に位置づけられている」と論じていることを、ギリシア神教、ヒンドゥ教、カトリック、プロテスタンティズムを挙げて論じ、その思考過程において「正当な暴力行使」を位置づけてきた経緯を推論している。
したがってどのような理由によって政治闘争を行なったとしても、政治権力を行使できる立場になれば人間は旧態依然たる日常生活を台頭させ、信仰そのものは消滅するか政治的俗物の一部と化すと断言しています。

政治を行う者は、この倫理的パラドックスと自分自身がどうなるかという点についての責任を片時も忘れてはならない。政治家は全ての暴力の中に姿を潜めている悪魔の力と手を結ぶのである、と。

ここで「暴力」について少し触れておきたいと思います。
ウェーバーが言う暴力とは、物理的に人間を傷つける行為のみを指す狭義ではなく、何らかの力で他者の行動や思考を制限する行為や威力そのものを指していると思われます。政治はその国家や団体に属する人々に対して何らかの影響を及ぼす行為であるがゆえに、必然的に暴力をその基盤に有しているとみるべきであると考えられるでしょう。

その意味で資本主義国家や封建国家にとどまらず、「社会主義の未来」や「国際平和」においても同様の問題が出現する。

政治とは生の現実に打つ勝つこと

この問題と対峙するためには年齢等は役に立たず、修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件となる。
ウェーバーは責任倫理に重きを置きつつ、心情倫理と責任倫理が相俟って「政治への天職」を持ちうる真の人間を生み出すと結論づけている。
そしてウェーバーは、聴講する学生達に「10年後にもう一度話し合おう」と語りかけている。今自分自身が心情倫理家と感じ革命に陶酔している人々がどうなっているか。諸君一人一人はその時どうなっているのか。
・憤懣やる方ない状態にあるか
・俗物になり下がってぼんやりと渡世をおくっているか
・現世逃避にふけっているか
いずれにしろ自分自身の行為に値しなかった、この世にも日常生活にも耐えられなかったのだ、と。

ウェーバーは、一方で自己弁護的な敗戦戦犯探しに警鐘を鳴らしつつ、もう一方で「自分達は神の子であり敗戦は偽りの姿である」「自分達は神の御心のまま行動したのであるから結果も神にゆだねる」との心情的革命家と化している同僚や教え子達に真の政治家のあり方を情熱的かつ論理的に語り抜いたのである。

いかようにして生の現実に打ち勝つのか

あえて、この講演全体を通じて消化不良と言える点を2つ挙げておきたいと思います。
ひとつは、全体を通じて分析主張する論拠が示されていない個所が多いこと。
もうひとつは、ウェーバーが結論づけた政治家像を実現するためにはどうすればよいかという具体的方途が示されていないことです。

一つ目については時間の限られた講演でだったとも思われますし、政治の様々な側面を論じていることを考慮すれば、至極当然かなとも思います。
重要なのは二点目です。
平坦な言い方をすれば、政治が本源的に持っている権力の魔性をいかに克服して、情熱・責任感・判断力の資質をいかにして磨くかということになります。
その本質は「権力の魔性に勝つこと」にあるとして、その実現のためには「修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件」という点までは言及しています。

政治家に必要な修練とは生命レベルの闘争を続けること

ではその「修練」とはどのようなことなのか?
このための方途をウェーバーが全く触れていないかと言えば、必ずしもそうではありません。少し違う角度で、達成しがたいこの点が宗教的発展を促してきたという指摘があります。しかしウェーバーの指摘はここまでで、宗教の限界も指摘する文脈になっています。

今一度の確認になりますが、政治権力の現れ方として、ひとつには他の目的を実現する手段として、もうひとつは自分の優越感を満足させるために、現出します。
一点目を克服するためには、目的の手段化を防ぐ理念哲学と歯止めをかけるルールづくりが必須であると感じます。
そしてより深刻で本源的な問題が二点目。
これを克服することは、すなわち己心の低い生命状態を克服することと同義。いいかえれば自分自身の生命変革であり、境涯革命の勝利が必要であると言えるのではないかと感じます。
生命レベルでの鍛錬こそが政治家の必須要件である。
このように結論づけることが重要ではないかと思います。

翻ってみて現代。
真の政治哲学や理念思想を持ち実践する政治家はどこにいるのか。
生命レベルでの闘争を続ける政治家は誰なのか。
そうした視点で政治家を選出することが、有権者である私達に課せられている重要課題であると思います。

真の政治家の姿とは

最後にウェーバーを訴えた真の政治家像を、本文をそのまま引用して紹介したいと思います。
政治とは情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようであれば、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
これをなしうる人は指導者でなければならない。
指導者であるばかりではなく、英雄でなければならない。
そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で、いますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま可能なことの貫徹もできないであろう。
自分が世間に対して捧げようとするもの比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。
どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。
そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。

著者

マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日)
ドイツの社会学者・経済学者。正式な名前はカール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。社会学の黎明期の主要人物としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメル、カール・マルクスなどと並び称される。

西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理を「合理性」と仮定し、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放」と捉え、比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)であり、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。この論文は大きな反響と論争を引き起こすことになったが、特に当時のマルクス主義における、宗教は上部構造であって下部構造である経済に規定されるという唯物論への反証としての意義があった。
もう一つの大きな研究の流れは、「経済と社会」という形で論文集としてまとめられている。これはヴェーバーが編集主幹となり、後に「社会経済学綱要」と名付けられた社会学・経済学の包括的な教科書に対し、1910年から寄稿された論文集である。この論文集も彼の没後、妻マリアンネ・ヴェーバーの手によって編纂出版された。このマリアンネの編纂については、批判が多くその後ヨハネス・ヴィンケルマンによる再編纂版も出ている。本来ヴェーバーが目指していたと思われる、あるべき全体構成については、今なお議論が続いている。
この「経済と社会」は、教科書的・体系的な社会学を構築しようとしたのと同時に、宗教社会学における「合理化」のテーマを、比較文明史・経済史的なケーススタディ(決疑論)の巨大な集積を通じて検証しようとしたものと位置づけられる。また、「経済と社会」の中の「支配の社会学」における支配の三類型、「合法的支配」、「伝統的支配」および「カリスマ的支配」は有名である。

社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。 特に人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「理念型(Idealtypus)」、政治的価値判断を含むあらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「価値自由(Wertfreiheit)」の提唱も大きな論争を引き起こした。

ヴェーバーは、ハイデルベルクでの知的サークルを通じて、年長の法学者ゲオルグ・イェリネック、哲学者ヴィルヘルム・ヴィンデルバント、同世代の神学者エルンスト・トレルチや哲学者ハインリヒ・リッケルト、さらには若年の哲学者カール・ヤスパースや哲学者ルカーチ・ジェルジ(ゲオルク・ルカーチ)らと交わり、彼らに強い影響を与えた。また社会学者タルコット・パーソンズもヴェーバーの著作を通じて強い影響を受けている。タルコット・パーソンズがハイデルベルク留学中に師事した社会学者・経済学者のアルフレート・ヴェーバーは実弟である。

日本においては、丸山眞男、大塚久雄をはじめ多くの社会学者にも強い影響を与えた。ヴェーバーの日本における受容は、第二次世界大戦における日本の敗戦は「合理主義」が西欧にあり日本に欠けていたことによるという問題意識と、社会科学におけるマルクス主義との対置という文脈の2つの理由が大きかったといわれている。

主な論点

暴力とは
他者に対する物理的、心理的な破壊力。 全ての人間の身体には現実の世界に具体的にはたらきかける能力があり、この能力が他者の意志に対して強制的にくわえられると暴力となる。哲学者のエマニュエル・レヴィナスは人間関係に原初的に存在するものが暴力であると論じた。二者だけの人間関係に友好は不可欠なものであるが、別の誰かとの親密な関係が発生すれば二者の関係は相対化され傷つけられ、友好関係だけではなく対立関係が形成されうるようになると指摘した。
暴力は殺人、傷害、虐待、破壊などをひきおこすことができる力であり、また、二次的な機能として強制や抵抗、抑止などがある。人間の暴力性については心理学の立場から、抑圧の発露、おさえつけられたルサンチマン、生体にやどる破壊衝動(デストルドー)として説明がなされることもある。
動物行動学の立場から進化の産物であるとする説明が有力である。捕食者や外敵からの防御、雌をめぐる雄の性淘汰の争い、群れの序列をめぐる争いなどを経て、身体能力を高める。チンパンジーには子殺しも認められる。
また、攻撃性にはあきらかな性差が認められる。生化学の分野では男性ホルモンのテストステロンの関与が指摘されており、軍人や警察官、更に殺人犯の過半数が男性でしめられている事実がそれをうらづけることができる。
暴力は人間の尊厳や人権をおびやかすものであり、人道主義や平和主義の立場ではあらゆる対立は非暴力的な手段によって理性的に解決されるべきという社会の規範がしめされる。しかしながら、その規範が実施されるとはかぎらない。そのために暴力に対抗することが必要となる。
しかし、これは暴力と非暴力、善悪の対立ではありえない。暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけである。暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力が社会の中で準備されなければならない。
(wikipediaから引用)

政治とは … 国家の指導またはその指導に影響を与えようとする行為。
国家とは … ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である。すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。
政治とは … 権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。

政治を行なう者は権力を求める
①別の目的のための手段として
②権力自体がもたらす優越感を満喫するために

国家は、暴力行使に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。
この支配関係の正当性の根拠
第一 伝統的支配
第二 カリスマ的支配
第三 合法的支配

カリスマ的支配 … 天職。指導者個人に対する信仰ゆえに服従する。
その形態
①呪術者と預言者
②選挙武候・一味の首領・傭兵隊長…民衆政治家(デマゴーグ)と政党指導者

支配関係の外的な手段(補助手段)
政治的支配権力はどのようにして自己の支配権を主張し始めるのか
継続的な行政を行なう条件
①人的な行政スタッフ あらかじめ服従するよう方向づけられている
  … 物質的な報酬と社会的名誉が動機となっている
②物的な行政手段 物理的暴力を行使するために必要な物材掌握されている

国家秩序の分類
①人的行政スタッフが行政手段を自分で所有する … 身分制的に編成された団体
②行政スタッフが行政手段から切り離されている … 君主の直轄支配 …官僚制的国家秩序

近代国家の発展
君主と比類する他の私的な担い手に対する収奪が用意されるにつれて活発化
私的な担い手とは … 行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の政治的に利用できるあらゆる種類の物材を、自分の権利として所有している者。
資本制経営が発展してくる過程と完全に併行。
政治運営の善手段を動かす力は事実上単一の頂点に集まる。
行政スタッフと物的行政手段の分離が完全に貫かれている。

新しい発展
国家という収奪者から、政治手段と政治権力を収奪しようという動き<1918年ドイツ革命>
簒奪や選挙で政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を入手した根拠を被治者の意思に求めた。
→近代国家とは、ある領域内で支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタイト的な支配団体である。
その独占の目的達成のために物的運営手段は国家の指導者の手に集められ、その頂点に国家が位置する。
第二の意味での「職業政治家」
政治支配者に奉仕する。君主の政策を行うことで物質的な生計を立て精神的な内実を得る。
君主の最も重要な権力機関であり、政治的収奪の機関であった。

職業政治家の存在の意味
臨時の政治家
副業的な政治家
本職の政治家…君主も、自由な政治団体も必要としていた。
自由とは…伝統的な君主権力支配を受けていない。
暴力的な支配を伴わないということではない。

政治を職業とする
①政治のために生きるか…下記ではない人達
②政治によって生きるか…政治を恒常的な収入源にする

・国家や政党の指導が「政治のために生きる人」によって行われる場合、「政治指導者の人的補充はどうしても『金権制的』に行われるようになる。」(24)
→「政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要である。」(25)

◆近代的官吏制度の発達
・専門的エキスパートになっていく過程(27-)・官僚たちの不可避的に増大する専門訓練の、最高指導権への圧力⇔君主(30)・ドイツとイギリスの例(31-)
・政治の発展→「専門官吏」と「政治的官吏」の区別(32)

◆職業政治家のタイプ(35-)
・①聖職者、②人文的な教養を身につけた文人[読書人](とりわけ中国)、③宮廷貴族、④ジェントリー:都市貴族(イギリス)、⑤法律家(ヨーロッパ大陸)
・ジェントリーは、自らの勢力を伸ばすために地方行政の官職を無償で引き受けたことで、官僚制化からイギリスを守った。(37)

◆官吏と政治家の関係
・「政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的に極めて優秀な人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。」(41)・ジャーナリストについて(43-)・近代的な政党組織の発展過程(54-)→イギリス、アメリカ、ドイツの歴史
◆民主政における指導者
・《「マシーン」(指導者のために働く政党組織)を伴う指導者民主制》か、それとも《指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質をもたぬ「職業政治家」の支配》——これは「派閥支配」とも呼ばれる——を選ぶか。(74)
・実際に問題となるのは、議会による指導者選出の仕方と、比例選挙法である。
→議会によってではなく、人民投票によって指導者を選ぶような大統領制が必要。

◆指導者的政治家の条件
①情熱:事柄に即するという意味での情熱、つまりSache(仕事/問題/対象/現実)への情熱的献身、その事柄をつかさどっているデーモンへの情熱的献身(77)
→仕事としての政治のエートス(82)⇔興奮・ロマン感情にもとづくデマゴーグ
→事柄に仕えるということは、行為にとって内的な支柱である。(81)
②責任性を行為の基準にすること
③判断力(Augenmaß):事物と人間に対して距離を置いてみること(78)、距離への習熟
・権力本能は政治家にとってノーマルな資質であるが、しかし権力追求が仕事の本筋から離れて自己陶酔(ナルシシズム)の対象となってはいけない。それは「職業の神聖な精神に対する冒涜である」(79-80)

◆政治倫理の問題:政治は、その目標とは別個に、人間生活の倫理的な営みの全体のなかでどのような使命を果たすことができるのか。政治の倫理的故郷はどこにあるのか。(82)倫理と政治の関係はどうなっているのか。(85)

◆騎士道精神
例1.ある男性が、女性Aから女性Bへ愛情を移した。ここでもしその男性が、女性Aは自分を失望させたとか言って、不幸の責任を女性に帰し、正当化し、自己弁護する場合。
⇔「愛していない」と言って、その女性が運命に堪え忍ぶ。
例2.ある女性をめぐって二人の男性が奪い合っている。そこで選ばれた男性が、もう一人の男性のことを、あいつは下らない、劣っているのだ、と述べる場合。
例3.戦争に勝ったものが、自分はやっぱり正しかったのだ、という場合。
⇔勝か負けるかは、運命であるとする。
例4.戦争のすさまじさに精神が参って、「自分は道義的に悪いことをしているから耐えられないのだ」という場合。
⇔精神の緊張に耐えること。

◆道義的責任(倫理)と将来への責任(政治)

・「戦争の道義的埋葬は、Sachlichkeitと騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。それはいわゆる「倫理」によっては絶対不可能で、この場合の倫理とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追求に明け暮れる。政治的な罪とは――もしそんなものがあるとすれば――こういう態度のことである。」(84)
→結果に対する倫理的・道義的責任と、将来に対する政治的責任の区別。
・ただし「品位」については、信条倫理を貫くことにも妥当する。(87)

◆【信条倫理】と【責任倫理】

・「倫理に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則のもとに立ちうるということ、すなわち『信条倫理的』に方向づけられている場合と、『責任倫理的』に方向づけられている場合があるということである。
・「福音の掟は無条件的で曖昧さを許さない。汝の持てるものを――そっくりそのまま――与えよ、である。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところではない以上、社会的には無意味な要求である。だから課税、特別利得税、没収――ようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。しかし、倫理的掟はそんなことをまったく問題にしないし、そこにこの掟の本質がある。」(87)
・「akosmischな愛の倫理を貫いていけば『悪しき者にも力もて手向かうな』となるが、政治家にはこれとは逆に、悪しきものには力もて手向かえ、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する。」(87)
・信条倫理家は、善なる信条倫理(社会の不正に対する抗議!)から発した行為は、その結果が悪ければ、その責任は行為者にではなく世間(他者)のほうにあるとする。
・「キリスト者は正しきを行い、結果を神に委ねる」(89)
⇔これに対して責任倫理家は、人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れ、自分の行為の結果に対して(それが前以て予見できた以上)責任をとる。(89)
・「『善い』目的を達成するためには、道徳的にいかがわしい手段を……用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。」(90-1)
・「信条倫理には、道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。」「信条倫理と責任倫理を妥協することは不可能である。」(92)
・善い意図をもった行為が善い結果をもたらさない(またはその逆)ということ。この非合理性の経験は、すべての宗教発展の原動力であり、政治にかかわる人間は、手段としての権力と暴力性に関係をもったデーモンの力と契約を結ばなければならない。(94)
→「正当な暴力行使」という倫理的問題へ(96-7)
・責任倫理は「魂の救済」を危うくする。(101)
・「悪魔は年をとっている」。「だから悪魔を理解するには、お前も早く年をとることだ」(ゲーテ『ファウスト』第二部)(101)
・「結果に対する責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間……がある地点まで来て、『私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる』[ルターの言葉]と言うなら、はかりしれない感動を受ける。」(103)

◆諸君の生き方と政治の生

①憤懣やる方ない状態にいる。
②俗物に成り下がってただぼんやりと渡世を送っている。
③神秘的な現世逃避に耽っている。
・「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が——自分の立場からみて——どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』をもつ。」(105-106)

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