桂冠塾

開催内容 桂冠塾【第108回】

『自由への長い道-ネルソン・マンデラ自伝-』※前半

開催日時 2014年4月26日(土) 14:00~17:00
会場 サンライフ練馬 和室(2) 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分

開催。諸々コメント。

この作品は南アフリカのアパルトヘイト政策に抵抗を続けたネルソンマンデラ氏の自伝です。
日本語訳はNHK出版から上下2巻で発刊されています。
昨年(2013年)には本作品を原作として映画化され、日本では本年(2014年)5月に公開が予定されています。
ネルソン・マンデラ氏への追悼の意を表しつつ、本作品を通して偉大な人生の軌跡をたどってみたいと思います。

著者

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ
(Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 - 2013年12月5日)
南アフリカ共和国の政治家、弁護士。
大統領(第8代)、下院議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)を歴任。
ネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章などを受章。

1918年南アフリカのウムタタ近郊クヌ村でテンブ人の首長の子として生まれる。
ミッションスクールを経てフォートヘア大学に学ぶが、在学中に学生運動を主導したとして逮捕されて退学処分に。その後、南アフリカ大学の夜間通信課程で学び1941年に学士号を取得。
1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。青年同盟を結成するなど反アパルトヘイト運動のリーダーとして活動。暴力闘争を行なうためにウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)略称MKを結成し議長として活動。
1964年に国家反逆罪で終身刑となり、27年間に及ぶ獄中生活を経験。この間も獄中からメッセージを発信し続けた後、1990年に釈放。
翌年1991年にアフリカ民族会議議長に就任。アパルトヘイト撤廃に行動し続けたことが評価され1993年にノーベル平和賞が贈られた。
1994年に南アフリカ初の国民選挙を経て第8代大統領に就任。
「民族和解」「協調政策」を掲げて復興開発計画を推進。
1999年に政治家としての活動は引退するが、その後も国連安全保障理事会で講演を行うなど、全世界にメッセージを発信し続けた。
2013年12月5日逝去。95歳の生涯を閉じた。

作品のあらすじ

第1章 田舎の少年時代
第2章 ジョハネスバーグ
第3章 自由の闘士の誕生
第4章 闘争は我が人生
第5章 反逆罪裁判
第6章 黒はこべ

第7章 リヴォニア
第8章 ロベン島・暗黒の日々
第9章 ロベン島・希望の始まり
第10章 敵との対話
第11章 自由

マンデラ年譜

・1918年:トランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォート・ヘア大学で学ぶ。
メソジスト教会で洗礼を受けたクリスチャンである。若き日の彼に大きな影響を与えたのは、テンブの人々の習慣とキリスト教のミッションスクールで受けた教育であった
・1939年:フォーテマ大学(黒人学生のための高等教育機関)入学。
・1940年:学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。
・1941年:南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び、学士号を取得。その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び学士号を取得。
・1940年:学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。
・1941年:南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び、学士号を取得。
・その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び学士号を取得。
・1944年:アフリカ民族会議(ANC)に入党。
・その後青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。
・1950年:ANC青年同盟議長に就任。
・1952年8月:ヨハネスブルグにてフォート・ヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共に弁護士事務所を開業する。
・1952年12月:ANC副議長就任。
・1961年11月:ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍、MK)という軍事組織を作り、最初の司令官になる。
・1962年8月:逮捕される。
・1964年:国家反逆罪終身刑となりロベン島に収監される。
・1982年:ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。この時、イギリス人傭兵の有志が集まってネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されたという。
この収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患になり、石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた。
・1989年:収監中にも勉学を続け、南アフリカ大学の通信制課程を修了し法学士号を取得した。
・1990年2月:釈放される。釈放後、ANC副議長に就任。デクラークとの予備会談にANC代表として出席。
・1990年10月:ANC代表団を率いて訪日。
・1991年:ANC議長に就任。デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開き、さらに多党交渉フォーラムを開いた。暫定政府、暫定憲法を作成。
・1991年6月:アパルトヘイトの根幹法である人口登録法、原住民土地法、集団地域法などを廃止。
・1993年12月:デクラークとともにノーベル平和賞受賞。
・1994年4月:南ア史上初の全人種参加選挙が実施された。ANCは勝利し大統領に就任した。
暫定憲法の権力分与条項に基づき国民党、インカタ自由党と連立政権をたて、国民統合政府を樹立した。
民族和解・協調を呼びかけ、新憲法制定によるアパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済不況からの回復として復興開発計画(RDP)を公表した。
・1997年12月:ANC党大会でネルソンは、議長の座を副大統領のターボ・ムベキに譲る。
・1999年2月:国会で最後の演説をした。同年行われた総選挙を機に政治の世界から引退した。
・2000年1月:国際連合安全保障理事会で初めて演説を行った。
・2013年12月:ヨハネスブルグの自宅で死去、95歳没。

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