開催内容 桂冠塾【第120回】
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
開催日時 | 2015年4月29日(土) 14:00~17:00 |
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会場 | サンライフ練馬 第二和室 西武池袋線中村橋駅・徒歩5分 |
開催。諸々コメント。
物語の始まりは1872年10月2日のロンドン。主人公フィリアス・フォッグは当時の富裕層を代表するような独身貴族。彼の生活は几帳面で正確、楽しみはトランプゲームだった。それ以外の私生活は謎に包まれており、裕福な生活を支える資金源も不明である。
ロンドンの紳士クラブ「改革クラブ」の一員である。
彼の元執事はフォッグのひげそりに使うお湯の温度を1℃間違えたことが原因で解雇され、新たに規則正しい生活を望んでいたフランス人のパスパルトゥーが新しい執事として雇われた。
パスパルトゥーが雇われた日の夜、「改革クラブ」でフォッグは他の紳士らと『デイリー・テレグラフ』紙に掲載された記事が話題になる。
「イギリス領インド帝国に新たに鉄道が設けられた」という記事を元に、フォッグは「これで世界を80日で一周することが可能になった」と主張したのだ。
フォッグは自らの全財産の半分、20,000ポンドを旅費に当て、残りの半分を元手にクラブの友人達と掛けをを行うことになった。
「80日間で世界一周を行うことができるかどうか」である。
80日間で世界一周して帰ってくればフォッグの勝利、80日間で帰って来れなければフォッグは全財産を失うのである。
新しく執事になったばかりのパスパルトゥーを従えて、彼は即日出発します。
10月2日午後8時45分発の列車でロンドンを出発したフォッグとパスパルトゥーは、80日後の12月21日の午後8時45分までに帰ってこれるでしょうか。
世界中の冒険小説ファンを魅了した名作を読み進めてみたいと思います。
概要とあらすじ
物語は1872年10月2日のロンドンに始まる。主人公フィリアス・フォッグは裕福で独身貴族的な人生を謳歌していた。彼には、物事を尋常ではない正確さで行う習慣と、トランプゲーム・ホイストに傾注する癖があった。それ以外の私生活は全く謎で、なぜ大金を持っているかも詳らかでないが、ロンドンの紳士クラブ「改革クラブ」(The Reform Club) のメンバーは気にしていないようである。
彼の元召使いはフォッグのひげそりに使うお湯の温度を1℃間違えたために解雇されてしまい、新たに規則正しい生活を望んでいるフランス人のパスパルトゥーが雇われた。
パスパルトゥーが雇われた日、フォッグは「改革クラブ」で他の紳士らと銀行盗難事件の話題のあとに『モーニング・クロニクル』紙の記事について議論した。「イギリス領インド帝国に新たに鉄道が設けられた」という記事について、フォッグは「これで世界を80日で一周することが可能になった」と主張したのだ。『モーニング・クロニクル』紙に掲載された日数は次のとおり。
地 名 | 手 段 | 所 要 | 累 計 |
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ロンドン/スエズ | 鉄道&蒸気船 | 7 | 7 |
スエズ/ボンベイ | 蒸気船 | 13 | 20 |
ボンベイ/カルカッタ | 鉄道 | 3 | 23 |
カルカッタ/香港 | 蒸気船 | 13 | 36 |
香港/横浜 | 蒸気船 | 6 | 42 |
横浜/サンフランシスコ | 蒸気船 | 22 | 64 |
サンフランシスコ/ニューヨーク | 鉄道 | 7 | 71 |
ニューヨーク/ロンドン | 鉄道&蒸気船 | 9 | 80 |
彼が改革クラブへ帰還する期限は80日後、12月21日午後8時45分である。
フォッグとパスパルトゥーは、時間通りにスエズ運河へ到着した。下船しエジプトに滞在している間、フォッグはロンドン警視庁の刑事、フィックスにひそかに見張られていた。フィックスは、フォッグの容貌が銀行強盗の外見的特徴と似通っていたために銀行強盗の犯人を思い込んでいた。出港時間までに逮捕令状を取得できなかったため、フィックスはボンベイに向かう蒸気船に乗船する。旅を続ける途中でフィックスは自分の目的を隠したままパスパルトゥーと知り合いになった。
時間通りにフォッグとパスパルトゥーはボンベイに到着。
パスパルトゥーはヒンドゥ寺院の戒律を犯して寺院に土足で踏み込んでしまい騒動を起こすが、逃げだして皆と一緒に鉄道でカルカッタに向かう。フィックスは内密に後をつけていく。報道とは異なり鉄道の敷設はまだ完了していなかった。線路がない2つの駅の間を進むため、フォッグは象を2000ポンドという途方もない値段で購入した。
象に乗り、隣の駅へと向かう途上で、彼らはサティーの儀式(インド古来の、未亡人の女性が夫の後を追い殉死する儀式)へと向かう行列に遭遇し、翌日儀式の生贄にされる若いインド人の女性アウダを見かけた。その女性は麻薬で意識を朦朧とさせられており、強制的に殉教させられる様子をみてフォッグは彼女を救出することを決意する。彼らは儀式が行われる場所まで行列の後をつける。夜が明け、儀式が行われている間、パスパルトゥーは突如身を隠していた薪の中から起き上がり、僧たちが恐怖におびえているすきに女性を運び去った。
救出を終えると、一行はアウダを連れ、列車に間に合うように次の鉄道の駅まで象を急がせた。カルカッタに到着するとパスパルトゥーがヒンドゥ寺院の事件で裁判にかけられる。フィックスの計略であった。フォッグは2000ポンドの保釈金を支払って予定通り香港行きの蒸気船に乗り込む。
こっそりと彼らのあとを追っていたフィックスはまたもやカルカッタでフォッグの逮捕令状を取り損ね、香港まで一行の後を追う羽目になった。船の中で、フィックスはパスパルトゥーの前に姿を現し、パスパルトゥーは旅の初期の頃からの知り合いに再会できたことを喜んだ。
香港に到着し、アウダの身柄を預けようとしていた彼女の遠い親戚がすでに他の土地に移ってしまったのが明らかになり、彼女をヨーロッパまで一緒に連れて行くことにした。未だに令状を手に入れられないフィックスは、香港こそイギリスの領土内でフォッグを逮捕できる最後のチャンスだと考えていた。フィックスはパスパルトゥーを協力させるために自分の意図を打ち明けたが、従順な召使は自分の主人が銀行強盗であるとはみじんも信じることはなかった。香港行きの船は出港が早まっていたがパスパルトゥーが主人に出港時間を知らせないようにフィックスは彼を麻薬で意識を麻痺させた。朦朧とした意識の中でパスパルトゥーはどうにか横浜行きの蒸気船に乗り込んだが、主人に知らせることはできなかった。
フォッグは翌日、日本への移動手段が絶たれたことに気づいた。彼は次の目的地である横浜へ向かう大型船を必死に探した。フォッグは小さな水先案内船を見つけ、船長に大金を握らせて一行(フォッグ、アウダ、フィックス)は横浜経由・サンフランシスコ行きの大型船の出発地・上海へ向かう。洋上で暴風雨に遭うものの、上海で運良く乗船予定の船に助けられる。横浜でフォッグとアウラ夫人はパスパルトゥーが香港からの蒸気船に乗って横浜にたどり着いていることを信じ、市内を探し回り、彼が家に帰る資金を稼ぐために、サーカスで一員として働いているのを発見した。
フィックスを含む4人は太平洋を横断しサンフランシスコへ向かう蒸気船に搭乗する。フィックスはフォッグの旅の邪魔をやめ、フォッグを本国で逮捕できるよう帰国を助けることをパスパルトゥーに約束する。
サンフランシスコで、一行はニューヨーク行きの列車(大陸横断鉄道)に乗り込んだ。旅の途上、列車はインディアンの群れの攻撃を受け、インディアンたちはパスパルトゥーと他2人の乗客を人質として連れ去ってしまった。フォッグは救出を決断し、砦の近くの兵士たちとインディアンの集落に向かい、無事人質の解放に成功した。
しかしその間に列車は出発してしまっていた。フォッグ一行はそりを雇い、オマハ駅へ向かった。
発車直前のシカゴ行きの列車に乗り込んだ一行はシカゴに到着。ニューヨーク行きの列車に乗り換えた。しかしニューヨークに到着した一行は45分遅れでリバプール行きの蒸気船に間に合わなかった。
翌日、フォッグは大西洋を横断するため代わりの手段を探し始める。彼はボルドーへ向かう小さな商船を見つけた。しかし、船長は一行をリバプールへ乗せていくことを拒み、仕方なくフォッグはボルドーへ向かうことを一旦受け入れた。しかし洋上で、彼は乗組員を買収し、船の針路をリバプールへ変更させたのである。常に全力で炉の火を焚き続けたために、船は数日後に燃料を使い果たしてしまった。フォッグは6万ドルで船長から船を買い取り、船の木製部分をはがして燃料として燃やさせた。
12月21日、一行はリバプールへ到着した。ロンドンまで列車で6時間の距離だった。しかし到着した途端フィックスは令状を取得し、フォッグを逮捕、身柄を拘留した。いま列車に乗ればまだ間に合うと言うその時に誤解は解消され、本物の銀行強盗はすでに3日前に逮捕されていたことが判明した。釈放されたフォッグはフィックスを殴った後、ロンドンへ急いだ。しかしフォッグは予定していた列車に乗ることができず、特別列車を走らせたが午後8時50分に5分遅れでロンドンへ到着した。
彼が賭けに負け、全財産を失うことを意味していた。
翌日、ロンドンのフォッグ邸にて、フォッグはアウダにロンドンまで連れてきてしまったことを詫びた。今後はフォッグは貧乏な生活しか送ることができず、経済的に彼女を支えることができないからだった。アウダは、どのような苦境も2人なら分かちあえると言う。そして、私を妻にしてほしい、と。彼はパスパルトゥーを呼び、翌日の月曜に挙式をあげることを牧師に知らせるように頼んだ。
しかし牧師の館でパスパルトゥーは挙式日程を断られる。明日が日曜(12月22日)だったからだ。
一行は東回りで世界一周したため、日付変更線を横切り、丸1日稼いでいたのだ。
パスパルトゥーはものすごい勢いでフォッグの元に戻り、改革クラブへと主人を向かわせた。フォッグは期限ぴったりに改革クラブへ到着し、賭けに勝利したことを宣言した。こうして、世界一周の旅は終わりを告げた。しかし、この旅で彼が得たものなど何もなかった。ただ1人彼をもっとも幸福な人間にした、美しい女性を除いて。最後にこの作品は全ての計算を放棄する。そもそも人は得られるものがもっと少なかったとしても、世界一周の旅に出かけるのだろう、と。
主な登場人物
フィリアス・フォッグ 主人公。几帳面で冷静寡黙なイギリス独身貴族。ジャン・パスパルトゥー フォッグ氏のフランス人召使い。
フィックス ロンドン警視庁の刑事官。銀行強盗の犯人としてフォッグ氏を追う。
アウダ夫人 フォッグ氏のパスパルトゥーに助けられたインド人女性。
アンドリュー・ステュアート フォッグ氏と賭けをした改革クラブメンバーの一人。
フランシス・クロマーティ インド駐在の陸軍少将。途中までフォッグ氏と同行になる。
スタンプ・プロクター アメリカ陸軍大佐。フォッグ氏と決闘になる。
時代背景
世界的な交通網大インド半島鉄道 東インド鉄道会社(1845年)と大インド半島鉄道(1849年)が設立
1872年全線開通
スエズ運河 1859年着工 1869年開通
アメリカ横断鉄道 1859年構想 1869年開通
当時の最先端技術
・船の大きさや速度、喫水の深さと安定性など
・外輪船からスクリュー船への移行
・アメリカ大陸横断鉄道の工事方法や方針
・ロサンゼルスのケーブルカー
世界情勢 ①イギリスの植民地支配
・インドの半分を直接支配
・香港
・イギリスへの批判
1)インドの古来からの文化
2)アヘンの密輸出
世界情勢 ②日本とアメリカ
観光案内としての魅力
作者
ジュール・ヴェルヌ(Jules Gabriel Verne、 1828年2月8日 - 1905年3月24日)
フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方のナントで生まれる。家はロワール川の中州の一つであるフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの家庭で過ごした。この人里離れた孤立が彼の想像力と兄弟との絆を強くした。この当時のナントは交易が盛んで、異国情緒豊かな港町であった。そのようなナントに訪れてくる船乗りたちの冒険話もヴェルヌの冒険心と想像力をかきたて、彼は海の英雄になることを夢見たという。
父のピエールは地元の弁護士であり、論理的な人であった。自宅から事務所までにかかる歩数を知っていたことや、望遠鏡で教会の時計を見て、常に正しい時間を確認して行動していたなどが残されている。父の性格はヴェルヌ作品の登場人物にも受け継がれることになる(例:『月世界旅行』のインピー・バービケイン)。母のソフィーは船乗りの家系の出で、父とは対照的で、ヴェルヌに「まるで竜巻のよう」とたとえられる想像力の持ち主であった。
ヴェルヌは5人兄弟の長男で特にヴェルヌと同じく海に憧れを持つ弟のポールと仲が良かった。弟は海軍に入隊したが、長男のヴェルヌは父の後を継ぐために法律を勉強した。ナントのリセに入学、成績は普通だったがラテン語が得意で数学好きであった。運動も得意だったため、学校の外では「広場の王様」とあだ名された。
11歳のときに、初恋の相手であるいとこのカロリーヌにサンゴの首飾りを買ってあげようと、密かに水夫見習いとしてインド行きの帆船に乗船した。しかし父に見つかり「もうこれからは夢の中でしか旅行はしない」と言ったという逸話は有名である(事実かどうかは不祥)。
1848年、ヴェルヌは父の勧めによりパリの法律学校に進学し、ヴェルヌの才能を見た母が、パリにいた親戚に取り計らい多くの芸術家たちと交流した。パリでの生活は充実したものだったが、金銭面はあまり余裕がない生活であった。
アレクサンドル・デュマ父子と出逢い、劇作家を志す。大デュマがプロデュースした、ヴェルヌの処女作である戯曲『折れた麦わら』は好評を博し、2週間上演された。
一方でヴェルヌは、自然科学の論文も読んでいた。1840年代に、彼のお気に入りの作家であったエドガー・アラン・ポーが、小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせるという技法を示し、これに興味を持つようになる。
友人フェリックス・ナダールが製作した気球に触発されて、1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』が大評判となり、流行作家となる。編集者のジュール・エッツェルと契約を結び、生涯にわたって科学・冒険小説の傑作を生み出していく。
1883年にはアミアン市会議員に当選し死ぬまで在職した。晩年には甥ガストン・ヴェルヌに襲撃(拳銃で脚を撃たれ、生涯跛行を余儀なくされる)されたこともあり、悲観主義的傾向が強くなったと言われるが、近年偶然に発見された初期の作品『二十世紀のパリ』(作中で文明批判を展開)に見るように、悲観主義的な一面は当初から持ち合わせていたと思われる。
1900年に白内障を患う。糖尿病が悪化し、1905年3月24日アミアンのロングヴィル大通り44番地の自宅(現・ジュール・ヴェルヌ記念館)で死去、市のマドレーヌ墓地に埋葬される。
ロングヴィル大通りは後にジュール=ヴェルヌ街と改名されている。